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仮面ライダー・映画・音楽に関する感想と考察。

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感想『オーズ 10th 復活のコアメダル』はなぜ美しい結末になり得なかったのか

2022年3月12日に『仮面ライダーオーズ』の10周年を記念した完全新作映画『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』が公開された。
この作品で、火野映司役の渡部秀さんやアンク役の三浦涼介さんをはじめ、テレビ本編に出演していたオリジナルキャストが集結したことで話題を集めた。


『スーパー戦隊シリーズ』であれば、テレビ本編終了後に『10 YEARS AFTER』シリーズが制作されることが多い。
ただ、『仮面ライダーシリーズ』の場合は、『仮面ライダージオウ スピンオフ RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』などの例外はあるものの、完全新作が制作されることは珍しい。
10年後の今となって『仮面ライダーオーズ』の完全新作が実現したことは、まさに『仮面ライダーオーズ』という作品の人気のあらわれだと考える。
『仮面ライダーオーズ』は『仮面ライダーシリーズ』の中でもかなりファンが多い作品で、NHKによる「全仮面ライダー大投票」でも歴代シリーズの中で3位になったほどだ。

そのため、今作を待ち焦がれたファンはかなり多かったはずだ。
私は公開2日目に今作を映画館で鑑賞したが、私が行った劇場は満員でびっくりした。


しかし、今作は、そんな熱烈な『仮面ライダーオーズ』のファンたちを真っ二つに分断してしまう作品となった。
というのも、今作の結末がかなりの物議を醸し出すことになったからだ。


そんな今作が『仮面ライダーオーズ』の完全新作として何を成し遂げようとしたかに迫りながら、今作の感想を述べていきたい。


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この記事には、映画『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』や『仮面ライダーオーズ』、その他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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いつかの“明日”に手が届く!

「続編」と「完結編」とではニュアンスが違うことを、まずは念頭に置いておきたい。


「続編」であれば、単純に『仮面ライダーオーズ』の最終話の後の物語を描く必要がある。
そして、『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX』や『仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』などの続編がこの10年の間に既に作られていた。

また、最終話後を描いたわけではないが、『仮面ライダージオウ』の『EP09 ゲンムマスター2016』と『EP10 タカとトラとバッタ2010』も広義に捉えると「続編」にあたる作品だろう。


一方で、「完結編」であれば、『仮面ライダーオーズ』の物語を終わらせる物語を描く必要がある。
「本気のオーズ完結編!」と銘打たれていたことからも、今作はそのように『仮面ライダーオーズ』の物語を終わらせることに重きを置いた作品であることが分かる。


そもそも、『仮面ライダーオーズ』の物語は、『最終話 明日のメダルとパンツと掴む腕』の時点でかなり綺麗に完結していたと感じる。
ヤミーを生み出してきたウヴァ・カザリ・メズール・ガメルは全員消滅した。
ラスボスである恐竜グリードは映司とアンクによって打ち破られた。
割れたタカコアメダル以外の残りのコアメダルはブラックホールに飲み込まれたり破壊されたりした。
アンクは欲しがっていた「命」を手に入れたことに喜びながら、割れたタカコアメダルを映司と比奈の手に残して姿を消した。
映司は「どんな場所、どんな人にも届く手、そして力」を欲していたことに気づき、それを手に入れる方法を知ることができた。
また、映司はアンクの消滅による喪失を抱えながらも、いつかアンクと再会することを信じて旅に出た。


しかし、『仮面ライダーディケイド』以降の『仮面ライダーシリーズ』作品は、最終話が完全な物語の終着点ではなく、最終話の先の物語として冬の劇場版がある。
よって、物語がどれだけ綺麗に最終話で完結したとしても、その劇場版では最終話の続きの物語を描かざるを得ない。
『仮面ライダーオーズ』の場合は、冬の劇場版である『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX』にて、アンクが「いつかの明日」に復活を遂げることが明確に描かれてしまった。
そして、『仮面ライダーオーズ』の物語の延長線上に「いつかの明日」という未来があることが判明したことにより、『仮面ライダーオーズ』は続きがある未完の物語であることがより強調された。


今作がただの「続編」ではなく「完結編」であったことからも、一度最終話にて綺麗に完結した『仮面ライダーオーズ』の物語を今度こそはしっかりと完結されるという強い意思を感じた
そして、「完結編」であるからこそ、今作では『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX』の先の未来である「いつかの明日」を描く他なかった。

復活の“代償”

アンクは、テレビ本編にて、世界を確かに味わうことができる「命」を欲していたことが描かれた。
そして、自身が「ただのメダルの塊」であるのにもかかわらず映司たちと過ごしている間に死ぬところまできたことに気づき、アンクは最終話にて消滅した。
このようにアンクが「命」を手に入れていたことを鑑みると、コアメダルを破壊されたことでアンクは最終話で「命」を落としたと解釈することができる。


今作の脚本を執筆した毛利亘宏氏はインタビューによると、そんなアンクを復活させたいという映司の欲望を叶えるには“代償”が必要だと考えていたと明言している。

じゃあ、いったいどうすれば映司の望み通り、アンクが復活できるのか。それには大きな代償が必要なはずで、アンクが復活するという条件を満たせるような代償なんて、ひとつしかないんです。そうやって導かれたのが、今回の結末ですね。

— 『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』パンフレット


『仮面ライダーオーズ』の物語は、最終的には欲望を肯定した作品である。
たとえば、鴻上が、欲望のことを「純粋で素晴らしいエネルギー」と考えており、「生きるとは欲することであり、欲望はその原動力ともなる」とも語っていた。
また、『最終話 明日のメダルとパンツと掴む腕』にて、石知世子が比奈に対して「もっと欲張っていいじゃん」と説くシーンもあった。
アンクを復活させたいという映司の欲望は、その「もっと欲張っていいじゃん」という考えにたしかに即している。


しかし、少女を救えなかったという過去からも、「命」は一度落としたら取り戻すことができない不可逆的なものであることを、映司はしっかりと知っているはずだ。
だからこそ、映司にとってその過去はあれほどのトラウマになったのだろう。
アンクを復活させたいという欲望はそんな「命」の不可逆性に逆らうものでもあるため、『仮面ライダーオーズ』の物語の根幹を揺るがすものでもある


人間の「命」とグリードの「命」はそれが成り立つロジックは異なるものではあるが、人間もグリードも同じ「命」であることが最終話で結論づけられた。
よって、アンクを復活させたいという映司の欲望は、「もっと欲張っていいじゃん」のメンタリティにたしかに即してはいるが、同時に、アンクの「命」だけ可逆的なものとして特別扱いをすることになるため、これまでの物語との矛盾を抱えることとなった。


もし今作ですんなりと復活させてしまうと、『仮面ライダーオーズ』が大切にしてきた「命」の不可逆性を軽視してしまうことにもなる。
そう考えると、アンクを復活させたいという映司の欲望を叶えるために“代償”を付与することは、これまでの物語との一貫性を保つためにもある意味必然であったと考える


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一人で背負い込む映司

今作では、映司が瀕死の状態になったことがきっかけで、アンクは復活することができたことが描かれた。
そして、映司がそのような状態になったのは、映司が古代オーズの攻撃から少女を救ったことが影響だ。


この展開については、脚本家の毛利氏はインタビューにて以下のように述べている。

毛利 […] ひとりの少女を救うことができなかったという無念の思いから逃げるということをせず、その事実と向き合って生きていた。そんな人物が、自分のいちばんの願いを叶えたところで死んでいく。悲しい結末ですが、火野映司の物語は、こうならざるを得なかったのかなと、どこかで思っています。

— 『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』パンフレット

この毛利氏の言葉からも、この展開は、内戦に巻き込まれた少女を救うことができなかったという映司の過去を模したものであることが分かる。


テレビ本編にて、この過去がきっかけで映司は「どんな場所、どんな人にも届く手、そして力」という欲望を諦めて蓋をしていたことが明らかになった。
だからこそ、自分ができること以上のことはできないと割り切るようなところもあった。
そんな映司は、アンクと出会ってオーズになったことでその欲望は既に叶っていたことに気づき、その力で世界を終末の危機から救うことができた。
また、最終話にて、真木との戦いが終わり変身を解除された映司が空から落ちてきて、後藤や比奈、知世子、伊達に手を差し伸べられたときに、映司は周りの人たちと手を繋ぐことででも「どんな場所、どんな人にも届く手、そして力」が手に入ることに気づいた。
つまり、テレビ本編にて映司は、少女を救うことができなかった過去のせいで蓋をしていた欲望を取り戻し、その欲望の叶え方にも気づくことができた。


たしかに、映司の中では、少女を救えなかった過去に対する後悔はテレビ本編終了後にも残っていたことは容易に想像できる。
だからこそ、その過去と同じ状況に遭遇したときに、映司であれば身を挺して少女を守ろうとするに違いないし、救うことができたら心の底から満足するであろうことが想像できる。
よって、今作で映司が少女を救った展開にはこれまで描かれてきた映司の人物像とは何ら矛盾はない。


しかし、今作がテレビ本編の後日談であることを鑑みると、この展開には物語上の矛盾があると考える。
というのも、この展開は、周りの人たちと手を繋ぐことででも「どんな場所、どんな人にも届く手、そして力」が手に入る、といったテレビ本編における気づきに反くものであるからだ。
最終話で映司が後藤に「もう何でも一人で背負い込むのはやめろ」と言われたのにもかかわらず、今作では映司は古代オーズに対して一人で戦っていたし、一人で少女を身を挺して救った。


たとえば、『仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム』や『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』に映司が登場した際は、その作品の主役として代表して映画に登場するというメタ的な理由があったため、他の登場人物と一緒に戦っていないことには視聴者も目を瞑ることはできた。
しかし、今作には、伊達や後藤など、テレビ本編に登場したほぼ全ての主要人物が登場しているのにもかかわらず、映司一人に全てを背負い込ませた。
よって、この展開は最終話において描かれたこととは明らかに矛盾していて、結果的に『仮面ライダーオーズ』という作品がこれまで描いてきた物語との一貫性が損なわれたと考える。

結論

今作が「完結編」として制作されたからこそ、アンクが復活する「いつかの明日」をもって『仮面ライダーオーズ』の物語を終わらせる必要があった。
そんなアンクの復活は、『仮面ライダーオーズ』が描いてきた「命」の不可逆性に逆らう行為であるため、映司が“代償”を払わないといけなかったことは合理的だ。
そして、今作では、その”代償”として映司に自身の「命」を犠牲にさせた。
しかし、この結末は、周りの人たちと手を繋ぐことで「どんな場所、どんな人にも届く手、そして力」が手に入る、といった『仮面ライダーオーズ』が最終話で導き出した結論に反くことにもなった。
その結果、『仮面ライダーオーズ』の物語との一貫性を保とうとした今作が、皮肉なことにその物語との矛盾を生み出してしまった。


ただ、アンクの復活という禁断の欲望に釣り合うほどの“代償”は、映司に自身の「命」を犠牲にさせることくらいしか考えられない
そう考えると、「いつかの明日」を描くうえでは、この矛盾が発生することがある意味必然であったと感じる
毛利氏ではなく、たとえテレビ本編のメインライターを務めた小林靖子氏が今作の脚本を担当していたとしても、この矛盾は避けられなかっただろう。
だからこそ、「いつかの明日」は決して美しい結末にはなり得なかった。


最終話にて美しく完結した『仮面ライダーオーズ』という作品にとっては、「いつかの明日」は永遠に描かれない方がきっと美しかっただろう。
だが、10年の時を経て成長した『仮面ライダーオーズ』の主要キャストが再び集まる姿を見ることができた点では、私は今作が存在してくれてよかったと心から感じた。
今後も『仮面ライダーシリーズ』において色々な過去作の完全新作が生まれてくれることに期待したい。

感想『スーパーヒーロー戦記』はなぜ二つの”物語“を交わらせる必要があったのか

2021年7月22日に、田崎竜太監督による映画『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』が公開された。


今作は、『仮面ライダーセイバー』と『機界戦隊ゼンカイジャー』の夏の劇場版として製作された。
夏の劇場版の場合、いつもは現行の『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』のそれぞれの単体映画が二本立てで上映される。
しかし、今回は、仮面ライダーセイバーと機界戦隊ゼンカイジャーのクロスオーバー作品として製作された。
今作がクロスオーバー作品になった理由について、2020年の夏に公開予定だった『仮面ライダーゼロワン』の劇場版がCOVID-19の影響で同年の冬に公開延期になったことが影響している旨を、今作のプロデューサーである白倉信一郎氏は以下のインタビューで述べている。

篠宮 作品を締めてくれてるんですね。では、『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』のお話もうかがわせていただきたいと思います。
試写で拝見しましたが、かなり白倉さん節が効いていて、むちゃくちゃ面白かったです! 例年、夏映画はスーパー戦隊・仮面ライダーそれぞれの単体作品でしたが、今回合作となったのはどういった経緯でしょうか?

白倉 最初は、昨年やるはずだった『仮面ライダーゼロワン』の夏の劇場版がコロナ禍でできなかったことからの玉突き事故ですね。ただ、もう一つ、“仮面ライダー50周年”が4月からスタートして、2023年に公開される『シン・仮面ライダー』まで50周年と言い続けるっていう、この長い長いストロークのトップバッターが必要だということがありました。

「スーパーヒーロー戦記」白倉プロデューサーに篠宮暁が直撃!「一人ひとりに1年間主役を務められてきた重みがある」 | cinemas PLUS

このようなことからも、今作は最初は意図せぬ形でクロスオーバー作品になったことが分かる。
ただ、実際に完成した今作を観ると、クロスオーバー作品になった意義は非常に大きかったように思えた。
よって、この記事では、『仮面ライダーセイバー』と『機界戦隊ゼンカイジャー』という二つの“物語”が今作で交わったことの必然性を、今作の感想を述べながら考えていきたい。


セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記


この記事には、映画『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』や『仮面ライダーセイバー』、『機界戦隊ゼンカイジャー』、その他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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始まりの二つの”物語“

仮面ライダーとスーパー戦隊のクロスオーバー作品は、2012年公開の『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』にはじめ、春の劇場版で『スーパーヒーロー大戦シリーズ』という形でこれまでも多数制作されてきた。
ただ、今作の大きな特徴としては、『仮面ライダーシリーズ』の50周年と、『スーパー戦隊シリーズ』の45周年が重なった「Wアニバーサリー」を記念して制作されたことがある。

「東映って、目を離すとすぐにヒーロー大集合映画を作っている、という風に思われがちなんですけど、実は言うほどやってないんですよね」と笑う。「今年は特に『仮面ライダー』50周年、『スーパー戦隊』45作品記念という特別な年。大きな節目だからこそ、やらなきゃいけないんじゃないかと思いました。ダブルアニバーサリー映画としてはこれが最初で最後の機会かなと、ある種の使命感を持って、作らせていただくことにしました

仮面ライダー×スーパー戦隊「これが最後」という使命感 白倉プロデューサーが語る未来図|シネマトゥデイ


記念作品の映画といえば、纏めることができない『平成仮面ライダーシリーズ』の凸凹でありながら豊潤な歴史を全力で肯定した『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』が記憶に新しい。

ただ、今作は、『平成仮面ライダーシリーズ』だけでなく、『仮面ライダー』から始まった『仮面ライダーシリーズ』と、『秘密戦隊ゴレンジャー』から始まった『スーパー戦隊シリーズ』の、二つのシリーズの誕生を同時に祝福する必要があった。


『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』は『スーパーヒーロー大戦シリーズ』などでコラボしたりすることはあったものの、この二つのシリーズの間には本質的にはかなりの違いがある。
白倉氏は、二つのシリーズの違いについて、以下のインタビューで言及している。

「『スーパー戦隊』にはお約束があり、様式美の面白さを追求するところもあります。『仮面ライダー』もベルトで変身する、ライダーキック、敵の構成など何となく様式はありますが、様式とも言えない。作品ごとに様式を作っています。『『スーパー戦隊』は作品ごとのテーマ、テイストがあっても『『スーパー戦隊』としての様式を立脚点としています」

両シリーズの違いを「不思議なくらい違う。言語化できないところもあるんですよね」とも話す。

スーパーヒーロー戦記:仮面ライダー、スーパー戦隊の違い 紆余曲折の歴史 白倉伸一郎Pに聞く - MANTANWEB(まんたんウェブ)


『スーパー戦隊シリーズ』の作品は、『秘密戦隊ゴレンジャー』や『バトルフィーバーJ』などの過去の作品が確立した様式を立脚点としていることもあり、「スーパー戦隊とはこういうもの」というお約束が多い。
一方で、『仮面ライダーシリーズ』の作品は、作品ごとに様式を作っているため、様々な挑戦をすることができる。


よって、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』におけるウォズの言葉を借りると、『仮面ライダーシリーズ』の歴史が「凸凹」であったと表現するならば、『スーパー戦隊シリーズ』の歴史は割と「舗装」されていたと言える。
それは、今作の冒頭にあるアガスティアベースのシーンでも、スーパー戦隊の禁書が整然と規格も厚さも揃っていたのに対して、仮面ライダーの方は大きさも厚みも装丁もバラバラであることで見事に表現されている。


だが、そこまで違うこの二つのシリーズに共通しているのが、初代のエッセンスを受け継いでいる点である。
『スーパー戦隊シリーズ』の場合、通常は5人組の“集団”ヒーローであることや、戦士が色によって識別されることなどは、最初の作品である『秘密戦隊ゴレンジャー』から受け継いでいる。
そして、『仮面ライダーシリーズ』の場合、ライダーが”個“で戦うことや、変身ベルトを用いて変身することなどは、最初の作品である『仮面ライダー』から受け継いでいる。


『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』は、それぞれの原点である『仮面ライダー』と『秘密戦隊ゴレンジャー』があってこそ、この半世紀もの間、シリーズとして続くことができた。
そして、『仮面ライダー』と『秘密戦隊ゴレンジャー』の生みの親である石ノ森章太郎氏を今作でフィーチャーすることにしたことを、今作の監督である田崎竜太氏は以下のインタビューで述べている。

――ストーリーを作られる段階で、映画のテーマをどのように定められましたか。
僕らがやりたかったこと、それはアニバーサリー映画とはいうものの、誰に向かっての記念なのか、誰に「ありがとう」と言えばいいのかという部分を明確にすることでした。そこで、仮面ライダーの原点・仮面ライダー1号、スーパー戦隊の原点・(秘密戦隊)ゴレンジャーというヒーローキャラクターを生み出した石ノ森章太郎先生にアプローチしてみたい、と思って筋書きを考えていきました。

「エピソードの数だけ存在する作り手たちの仕事の歴史を祝いたい」仮面ライダー&戦隊アニバーサリー映画に込めた田崎竜太監督の思い (1) | マイナビニュース

考えてみると、「本」や「物語」を題材にした『仮面ライダーセイバー』がちょうど現行作品であることからも、この「Wアニバーサリー」記念作品において、両シリーズの原作者である石ノ森氏に触れることは必然であったと思える。


そして、そんな石ノ森氏に着目することで、仮面ライダーとスーパー戦隊の両方に共通する“核”となる部分を描いた。
石ノ森氏が創り上げた仮面ライダーや秘密戦隊ゴレンジャーなどのヒーローは皆、「善」でも「悪」でもない、精一杯生きる“人間”であった。
更に、仮面ライダー1号や秘密戦隊ゴレンジャー以降に生まれたヒーローたちも、一人ひとり異なる“人間”として描かれてきた。
だからこそ、そんな“人間”である彼らの“物語”は、シリーズの最初の作品を真似しようとした「二次創作」ではなく、れっきとした独自性のある「一次創作」である。
このように、「善」でも「悪」でもない”人間”を描いているところが二つのシリーズにとっての“核”となる部分であるという、一つの答えを提示したことに「Wアニバーサリー」記念作品としての今作の意義があるように思えた




ただ、今作が描いたその“核”となる部分を完全に無視してしまっていたところが、今作には一箇所ある。
それは、最後に歴代の仮面ライダーとスーパー戦隊のヒーローたちが集結してアスモデウスたち敵陣と戦う中で、ヒーローたちが一人ずつそれぞれの名台詞を発していくシーンである。
このシーンにおいて、代役の声優さんが声をあてていることに不満を覚える声が多かったが、私はその点に関してはそこまでは問題視していない。
どちらかというと、ヒーローたちの名台詞の背景にはそれぞれの作品で描かれた“人間”たちの”物語”があるのにもかかわらず、このシーンでは文脈から外れて機械的に発していたことの方が非常に残念だった。


たとえば、仮面ライダーカブトはこのシーンで、「おばあちゃんが言っていた。悪の栄えた試しはない」という台詞を発している。
これは、仮面ライダーカブトに変身する天道総司が、『仮面ライダーカブト』の25話で銀行強盗たちを撃退したシーンで発した「おばあちゃんが言っていた。この世にまずい飯屋と悪の栄えた試しはない」という台詞を引用したものだ。

元の台詞には「まずい飯屋と」という言葉があるからこそ、天道総司という一人の”人間“の料理に対するこだわりなどが垣間見える、非常に天道らしい台詞になっている。
なのにもかかわらず、その重要な部分を省いてしまったため、天道総司の人間性を無視する形で名台詞をただただ引用してしまったように感じる。


たしかに、ヒーローが全員集結するようなシーンは、ヒーロー大集合映画としての一つのノルマではあるのかもしれない。
ただ、名台詞をただただ文脈から外れて機械的に発するのであれば、何も言わずに無言で戦う方がマシな気がする。
今作が描いた『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』の“核”となる部分は非常に納得感のあるものだっただけに、今作のこのシーンでは矛盾する描かれ方がなされたことに関しては、非常に勿体なかったように思えた。


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入れ子構造の”物語“

仮面ライダーセイバーに変身する神山飛羽真は、小説家であるという設定である。
ただ、我々視聴者の視点では、飛羽真たちは『仮面ライダーセイバー』という作品の“物語”の登場人物である。
よって、『仮面ライダーセイバー』という作品は、“物語”を書く小説家である飛羽真が“物語”の中を生きる「入れ子構造」になっていることを、白倉氏は以下のインタビューで指摘している。

 「二大ヒーローが活躍するという立て付けなのですが、『仮面ライダーセイバー』の主人公・神山飛羽真(かみやま・とうま)の物語として筋を通すことを大切にしています。飛羽真は小説家ですが『セイバー』というフィクションの中で、フィクションライターである入れ子構造であることが大きな意味を持っています

https://news.yahoo.co.jp/articles/bfc1abd2ca09081509ceb77eff5a46de65513507


今作は、アスモデウスがアガスティアベースにある禁書を解放したことにより、『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』の様々な作品の物語が混ざり合ってしまった、という設定だ。
自分たちが生きる世界 (『仮面ライダーセイバー』の世界) だけが現実であると錯覚していたものの、『仮面ライダーセイバー』の禁書を見つけたことで、自分たちもその言動が作者によって決められている物語の中の登場人物であることに気づいた。


これは、メタフィクションを絡めたアイデンティティクライシス、と捉えることができる。
たとえば、『仮面ライダーディケイド』という作品が『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダーキバ』までの過去の仮面ライダーをコンテンツとして復活させる目的で製作されたことに関連して、『仮面ライダーディケイド 完結編』で、門矢士が紅渡に「ディケイドに物語はありません」と言い放ったという前例はある。
また、最近だと、『仮面ライダージオウ』という作品が『平成仮面ライダーシリーズ』の総括として製作されたことに関連して、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』で、常磐ソウゴが自身の役割が平成ライダーの歴史を収斂させることがであったことに気づかされたという例もある。


今作の序盤で、物語の登場人物を作者である自分が苦しめていることに対する苦悩を飛羽真は語っている。
それを布石として、今作の後半にて、実は飛羽真自身が、石ノ森氏を原作者とする『仮面ライダーセイバー』という物語によって苦しめられている存在であったと明らかになった。
この飛羽真のアイデンティティクライシスは、『仮面ライダーセイバー』の「入れ子構造」を上手く活かして描かれたように感じられた。
今作でそのようなアイデンティティクライシスを描くことの意義については、白倉氏も以下のインタビューでこのように述べている。

特に『仮面ライダー』には、シリーズの大元を作られた石ノ森章太郎先生という原作者がいらっしゃる。にもかかわらず、飛羽真は小説家として、下手すると『仮面ライダーセイバー』という物語を俺が牛耳っている、というつもりでいるかもしれない。「小説家気取りの君は、原作者に対してどう向き合うのか」を、この50周年のタイミングで答えていただきたい、というのが大きなテーマです。そして、『仮面ライダーセイバー』もやっぱり物語の一つだっていうところに、飛羽真自身がどう関わるのか、という映画ですね。

「スーパーヒーロー戦記」白倉プロデューサーに篠宮暁が直撃!「一人ひとりに1年間主役を務められてきた重みがある」 | cinemas PLUS


そんな飛羽真は、賢人とルナと三人で幸せに暮らす「平凡な日常」という“(飛羽真が思い描く) 現実“を見た。
それにもかかわらず、「登場人物が物語から逃げてはならない」と気づいた飛羽真は、物語の中では必ずルナを助けると改めて決意したうえで物語のなかに戻っていくことで、アイデンティティクライシスを乗り越えることに成功した。


この決断は、物語が人々に与える影響力を知っている小説家の飛羽真だからこそ説得力があったように思えた
そして、そう言えるのは、『仮面ライダーセイバー』は1年間をかけて神山飛羽真という一人の“人間”をしっかりと描いてきたからであると言えよう。




更に、飛羽真がアイデンティティクライシスを乗り越えたことで、決め台詞である「物語の結末は俺が決める」に更なる意味が付与された。
これまでのテレビ本編では、飛羽真がこの決め台詞の中で“物語”という表現を使用している理由は特に描かれなかったため、単に飛羽真が小説家であるからそのような表現を好んで使用しているように思えた。
しかし、今作の終盤で、アイデンティティクライシスを乗り越えた飛羽真が「物語の結末は俺が決める」と石ノ森氏に宣言した時には、たとえ自身が物語の登場人物であったとしても作者の想像を超えて生きていくという、いつもの決め台詞が全く違う意味を持つようになっている。


この台詞さえもが作者によって書かれたものだと考えると非常に皮肉なものではあるが、要するに今作は、飛羽真をはじめとする物語の登場人物たちの自由意志を認めている。
そして、登場人物たちが自由意志を持って勝手に動くことができるのは、”人間“の部分がしっかりと創り込まれているからだ。
だからこそ、たとえ作者の手を離れたとしても、登場人物たちは生き続けていくことができる。


その最たる例が、今作にも登場した仮面ライダー1号の本郷猛であると感じる。
本郷猛は、原作者である石ノ森氏がこの世を去ってからも、たとえば2016年公開の映画『仮面ライダー1号』などの様々な作品で活躍し続けた。
メタ的には、石ノ森氏が創り上げた本郷猛という人間を、後継者である作者たちが新たな物語を付与することで生かし続けた。
今作のロジックに当てはめると、それは正に「自由意志を持って勝手に動く」ことを意味する。


飛羽真の「物語の結末は俺が決める」という決め台詞に今作が更なる意味を持たせたことによって、『仮面ライダーシリーズ』や『スーパー戦隊シリーズ』の“物語”に登場した“人間”たちが作者の想像を超えて活躍し続けてきたことを、非常に説得力を持たせて描くことができたように感じた


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次なる新しい”物語“

『スーパーヒーロー戦記』の本編上映後に、『仮面ライダーセイバー』の次の作品である『仮面ライダーリバイス』の短編映画が上映されるというサプライズが用意された。
仮面ライダーリバイと仮面ライダーバイスの姿は『スーパーヒーロー戦記』のポスターにはいたが、その正体はベールに包まれたままであった。
7月22日に今作が公開されたときは、『仮面ライダーリバイス』の制作発表会すらまだ行われていなかった。
よって、そもそもポスターの二人が新しい仮面ライダーであることや、劇場版に『仮面ライダーリバイス』の短編映画があることも、事前告知は全くなかった。


私は公開初日の朝一番に今作を観に行ったため、『スーパーヒーロー戦記』のエンドロールの後に東映の三角ロゴのオープニングが再び流れた時、私は正直かなりキョトンとしてしまった。
『仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010』の「MOVIE大戦2010」パート前に二つの東映の三角ロゴを並べるなど、これまでの東映特撮映画は非常に面白い構成上の演出を行ってきた。
だが、今作は東映の三角ロゴの後に何が起きるのかが予想もつかなかったため、非常に斬新であった。


例年の夏の劇場版では、新しい仮面ライダーは映画の途中や映画のエンドロール後に登場して、チラ見せという形で少しだけ戦うことで見せ場を作る。
今作では、既に『スーパーヒーロー戦記』の途中の戦闘シーンに仮面ライダーリバイと仮面ライダーバイスが乱入して戦っていた。
だからこそ、すでに『スーパーヒーロー戦記』に登場していた仮面ライダーリバイスが再びエンドロール後に登場したことにも驚かされたうえ、その映像が20分も続いたことには度肝を抜かされた。


そして、そんな短編映画では、『仮面ライダーリバイス』に関する様々な事実が明らかになった。
主人公の五十嵐一輝と悪魔のバイスが契約した「一人で二人」のライダーであること。
一輝が「しあわせ湯」という銭湯を拠点にしていること。
仮面ライダーリバイスが、バイスタンプというハンコ型のアイテムを使って変身すること。
メガドロンバイスタンプを使うと、仮面ライダーディケイドを彷彿とさせるデザインのメガドロンゲノムに姿を変えること。
仮面ライダーリバイスの専用マシンがホバーバイクであること。
仮面ライダーリバイと仮面ライダーバイスが合体して“超必殺技”を繰り出すこと。


そして何より、一輝やバイスの為人を知ることができた (バイスは人ではないが!)。
一輝が家族を大切にする情熱的な男であり、バイスがお調子者の愉快な悪魔であることが分かった。
私は個人的に、特にバイスのキャラに関しては、映画が終わったときも強烈に印象深く記憶に残った。
このように“人間”を知ることができたのも、通常の夏の劇場版におけるチラ見せとは違い、テレビでいえば一話分に相当する”物語“が描かれたおかげだ
だからこそ、今作を観て、仮面ライダーリバイスに見事に引き込まれてしまった方が多いのではないだろうか。


『仮面ライダーセイバー』や『機界戦隊ゼンカイジャー』目当てで観に来た観客に『仮面ライダーリバイス』の“物語”を半強制的に見せることで、9月から始まる新番組に興味を持たせる、というのは割と巧妙な手法であると感じた。
9月からどのような“物語”が紡がれるのかに期待しながら、『仮面ライダーリバイス』の放送開始を心待ちにしていたい。


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結論

今作は、『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』の「Wアニバーサリー」記念作品として、二つのシリーズに共通する石ノ森章太郎先生という原作者の存在に迫った。
その結果、『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』の“核”となる部分は、「善」でも「悪」でもない“人間”を描いているところである、という答えを提示した。


更に、今作は、現行作品の『仮面ライダーセイバー』の主人公の神山飛羽真が小説家であるという「入れ子構造」を活かして、自身が“物語”の登場人物であると言う事実に飛羽真を向き合わさせた。
その結果、『仮面ライダーシリーズ』や『スーパー戦隊シリーズ』の“物語”に登場した“人間”たちが作者の想像を超えて活躍し続けてきたことを描くことができた。


つまり、「善」でも「悪」でもない“人間”を作品ごとに生み出し続け、そんな“人間”たちには作者の想像を超えて活躍し続ける力があったからこそ、『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』は半世紀も続くことができ、世代や時代を超えて人々に愛され続けてきた、といった結論を今作は導き出したと考えることができる。
このように、石ノ森章太郎先生が生んだ『仮面ライダー』と『秘密戦隊ゴレンジャー』から始まった『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』が、そこから半世紀もの間続いていくことができた共通の理由を明確にすることができたところに、今作がクロスオーバー作品であったことの最大の意義があると思う


更には、『仮面ライダーリバイス』という次の50年に向けた新しい“物語”を見せてくれたことで、そのような東映特撮ヒーローの強みを今後も未来へと受け継いていくという明確な意思が見えてきた。
これからの『仮面ライダーシリーズ』と『スーパー戦隊シリーズ』の未来に期待ができるような、素敵な映画になっていたと思う。




『花束みたいな恋をした』ロケ地巡りの旅 in 京王線沿線

2021年1月に公開された映画『花束みたいな恋をした』に、私は今年の頭にかなり熱中してしまった。

そんな今作は主に京王線沿線の調布付近で物語が展開されるが、作中にはさまざまな場所の固有名詞が登場する。
しかも、それらの固有名詞に従って忠実にロケ地が選ばれて撮影された。
せっかく今作にハマったため、2021年3月に『花束みたいな恋をした』のロケ地巡りをした。


感染リスクを考慮したうえで基本的には屋外にあるロケ地を中心に巡ったうえ、移動の際などにもしっかりと感染対策はしていた。
皆さんも、もしロケ地巡りをするのであれば、その辺りも留意していただきたい。


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明大前駅

渋谷駅から京王井の頭線に乗り、明大前駅で下車。

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こちらの駅は、麦と絹が二人ともたまたま終電を逃したことによって初めて出会った駅であり、物語では非常に重要な意味合いを持つ場所だ
ちょうど写真の真ん中に写っている改札前で、二人は終電に乗ろうとしたときにばったりと出会った。


また、明大前駅の駅構内も撮影で使用されている。

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この写真に写っている「高幡そば」の前で、絹がトイレットペーパーを両手に持ちながら立つシーンなんかも撮影されている。

明大前駅近くの甲州街道

明大前駅から甲州街道に向けて歩くと、首都高速4号新宿線の高架下にたどり着いた。

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この近辺は、麦と絹が初めて出会った日に、調布にある麦の家に向かいながら、二人で缶ビールを飲んできのこ帝国の『クロノスタシス』を歌っていたところだ


作中では、麦と絹は、ここを起点に調布を目指して甲州街道をひたすら歩いたことが描かれた。
10キロメートルほどあるため2時間くらいかかるが、もし時間に余裕があって体力に自信があれば、麦と絹の行動を再現してみるといいかもしれない。

つつじヶ丘駅

次に、明大前駅から京王線に乗り、つつじヶ丘駅で下車。

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こちらの駅は、麦と絹が出会った日に調布を目指してひたすら歩いたときに通った駅だ


つつじヶ丘駅の北口を出て線路沿いを西に向かって歩くと、細い道にたどり着いた。

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この道を歩きながら、絹はジャンケンでパーがグーに勝つことが理解できないと、麦と意気投合しながら語っていた


甲州街道からは少し外れてしまうが、もし明大前から調布まで甲州街道を歩くのであれば、是非つつじヶ丘駅も通って欲しい。

調布PARCO

つつじヶ丘駅から調布方面に歩き続けると、調布PARCOにたどり着いた。

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調布のシンボルでもあるここは、麦と絹が出会った日に調布を目指してひたすら歩いたときに、調布に漸く着いたと二人で歓喜していたところだ。


調布PARCOの5階に行くと、「パルコブックセンター 調布店」という本屋がある。

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こちらの本屋は、麦と絹が付き合ってから二人で訪れていたところだ
麦が『人生の勝算』というビジネス本に興味を示している姿を見て、麦が変わってしまったことを痛感して落胆する絹の姿が非常に印象的だったしシーンだ。

調布駅

そして、調布PARCOから出てすぐのところにある調布駅に着いた。

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この駅前で、二人が調布駅から徒歩30分のアパートに同棲していたときに、麦と絹は待ち合わせをしてよく一緒に家に帰っていた
調布駅の近辺に、麦と絹が帰り道に飲んでいたコーヒーのお店があるのだろうか。
二人の生活拠点であったと考えると、調布駅周辺も散策し甲斐がある。

多摩川サイクリングロードの河川敷

調布駅から都道120号を南にずっと歩いていくと、多摩川沿いにある多摩川サイクリングロードにたどり着いた。

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この河川敷は、麦と絹が花束を抱えて焼きそばパンを食べながら歩いていた場所だ
今作のメインビジュアルにも使われていた場所なので、見覚えのある人は多いだろう。
調布駅から家までの30分が二人にとって花によりも大切な時間であったからこそ、この場所は二人にとっては非常に意味があるところだ。


是非、麦と絹の気持ちを味わいながら多摩川沿いを散歩してみて欲しい。

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御塔坂橋交差点

調布駅に戻り、都道18号線と12号線を通って北へ歩いていると、御塔坂橋交差点にたどり着いた。

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こちらの交差点は、麦と絹が付き合った日に二人が初めてキスをした場所だ
「こういうコミュニケーションは頻繁にしたい方です」という絹の台詞が話題を集めた名シーンだ。


そんな二人のキスは、この交差点の信号が押しボタン式だったから実現したが、実際の御塔坂橋交差点の信号もしっかりと夜間押しボタン式だ。

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サンキュー押しボタン式信号。

ジョナサン三鷹井口店

更に都道12号線を北へ進むと、 ジョナサン三鷹井口店にたどり着いた。

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こちらのファミレスは、麦と絹の二人が付き合う前から頻繁に行っていたところだ
麦が絹に告白した場所でもあり、また、二人が別れた日に訪れた場所でもあるため、二人にとっては非常に思い出深い場所だ。


ちなみに、撮影ではジョナサン三鷹井口店の外観を使用していたようだが、店内は撮影では使っていないようだ。
なので、二人がいつも座っていた席などは、ファミレスの中に入っても見ることはできない。
ただ、外観は麦と絹が別れた日にファミレスの外で抱き合ったシーンで使われていたので、訪れる価値は十二分にある。

飛田給駅

ジョナサン三鷹井口店からバスに乗り調布駅に戻った。
そこから京王線に乗り、飛田給駅で下車。

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飛田給駅は、絹の実家の最寄り駅であるという設定の駅だ
天竺鼠のライブを逃してしまった絹が朝帰りをしたシーンなどで、駅構内が若干撮影で使われていた。
非常にこじんまりとした住宅街にある駅なので、絹が良い場所で育ったことが分かる。

道生神社

飛田給駅から少し歩くと、道生神社という神社にたどり着いた。

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この神社は、麦と絹が初詣で訪れて、バロンという猫を拾ったところだ


この木の辺りで、二人は段ボールに入ったバロンを拾った。

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最後に

今回、私は麦と絹が実際に歩いた道を歩きながらロケ地間を移動することを意識した。
だが、ロケ地間では距離があるところも多く、正直楽ではなかった。
明大前駅から調布駅なんかは非常に距離があるため、歩くことが好きな私でさえ結構キツい。
だが、密になり得る公共交通機関を避けながらロケ地巡りができるかため、歩いてみるのも悪くはない。
もし機会があれば、是非この記事を参考にしながら、今作のロケ地巡りを歩いてやってみて欲しい。

感想『花束みたいな恋をした』の結末はなぜあれほどの余韻を残すことができたのか

2021年1月に、土井裕泰監督による映画『花束みたいな恋をした』が公開された。


私は普段あまり恋愛映画を観ないため、最初は正直観ることを結構躊躇した。
ただ、やはり『仮面ライダーW』で活躍していた菅田将暉さんが出演していることもあり、私は気になって結局鑑賞した。


実際に今作を鑑賞した後、私は非常に心を動かされた。
今作は結構前に公開されたが、私は恥ずかしながらもいまだに余韻を引きずっているほどだ。
(だからこそ、今更こんなタイミングで今作の感想記事を執筆している。)
そして、私と同じく、今作を見終えてからもかなり余韻を引きずった観客が多かったのではなかろうか。
この記事では、なぜあの結末があれほどの余韻を残すことができたのかを考察しながら感想を述べていきたい。


『花束みたいな恋をした』オフィシャルフォトブック


この記事には、映画『花束みたいな恋をした』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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リアルな二人の暮らし

今作は、2015年から2020年の間、実際に世の中に存在していたリアルなカルチャーを積極的に取り入れている。
2015年の絹がパンを食べるシーンで、クマムシの『あったかいんだからぁ』を口ずさんだり。
モノローグで、2016年に『君の名は。』で新海誠氏が突如“ポスト宮崎駿”と称されるようになったことや、2016年の終わりにSMAPが解散したことについて触れられたり。
2017年に、麦と絹はNintendo Switchを購入して『ゼルダの伝説』をプレイしたり。
Netflixの『ストレンジャーシングズ』を視聴している絹の姿なんかも描かれたりしていた。


また、今作にはAwesome City ClubのPORINさんが、麦と絹が出会った頃に通っていたファミレスで働く「ファミレスのお姉さん」として出演している。
Awesome City Clubの実際のミュージックビデオの映像などを使用しながら、PORINさんが音楽でどんどん売れていく姿を、麦と絹の恋愛と同時並行で描いている。

PORINさんの髪色が金やピンクや青色にどんどん変わっていく様も、実際のPORINさんの成長ともリンクしていて、時間の流れを上手く感じさせている。


このような描写により、まるで我々が知っている2015年から2020年を麦と絹が本当に生きていたかのようなリアリティを見事に持たせている。
2015年から2020年という割と最近のことを描いていたからこそ、観客はその時代をノスタルジックに感じるよりかは、その時代を生きていた麦と絹に親近感を抱くことができたと感じる。


更には、映画の限られた時間内で、麦と絹の5年間の時間の経過を描くうえでも、これらのカルチャーの描写は非常に効果的であると感じた。
特に、出会った日と別れる日の2日間の描写が今作の3分の1くらいを占めていることからも、二人が付き合っている間の時間を描くことができる尺が非常に限られている。
だからこそ、二人の時間がどれほど経過しているかを客観的に示すためにも、カルチャーの描写が非常に大切であったと感じる。


実在するカルチャーには著作権等のライセンスがあり、引用にはある程度の費用が発生することが考えられる。
それでも、架空のものではなく、わざわざ実在するカルチャーを取り入れているところから、リアリティを追求することに対する今作のこだわりが感じられる




また、物語が展開される地域の設定にも、実在する固有名詞がたくさん盛り込まれている。
「調布」で一人暮らしする麦と「飛田給」で実家暮らしする絹が「明大前」で出会ったり。
二人が出会った日に、調布の麦の家に向かうために「京王線沿い」を二人で歩き、「調布パルコ」に辿り着いたり。
二人が大学を卒業してからは、「多摩川沿い」のアパートで同棲するようになったり。
このように、二人の暮らしが想像できるようなたくさんの場所の固有名詞が出てくる。

そして、設定に忠実であるよう、製作陣がそれらの場所で実際にロケを行なったことも、今作の制作プロデューサーである土井智生氏への以下のインタビューから分かる。

――調布市でロケを行うことになった経緯を教えてください。

土井智生(以下、土井)「坂元さんからあがってきた脚本に、きっちりと場所の名前が書かれていたというのが大きな理由です。絹ちゃんの家が飛田給にあり、麦くんが調布近くのアパートに住んでいる、という設定がありました。なのでリトルモアの有賀高俊プロデューサーと土井裕泰監督とも『正直に制作していきましょう』という話をしていました。裏を返せば『嘘をつかない』ということです。坂元さんの想いが凝縮されている脚本を活かし、忠実に撮影をしていくことを第一のテーマとして掲げました。本作を観る方が、嘘や作りものと感じない映画にしたいという気持ちで、設定に忠実に、極力設定に近い場所をロケ地として選んでいきました

調布ロケの仕掛け人たちに聞く『花束みたいな恋をした』の撮影秘話!「嘘や作りものと感じない映画にしたい」 | ニコニコニュース


二人が初めてキスをするシーンの撮影が行われた交差点も、実際に信号が“夜間押しボタン式”であることに拘ってロケ地として選ばれたことにも土井氏は言及している。

土井「あのキスシーンは撮影するなかでも重要課題の一つで、信号が“夜間押しボタン式”であるということに、絶対に嘘をつけないと考えていた場所です。映画を観てロケ地を訪れた方が、『押しボタンじゃない!』とならないように、正直に取り組んだ一つの結果があのシーンです

調布ロケの仕掛け人たちに聞く『花束みたいな恋をした』の撮影秘話!「嘘や作りものと感じない映画にしたい」 | ニコニコニュース

このように、物語が展開される場所においても、リアリティを追求することに対する今作のこだわりが感じられる




そして、このようなこだわりによって、麦と絹という二人の人間がまるで本当に2015年から2020年の間、調布近辺で暮らしていたかのように見事に観客に感じさせてくれる


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クロノスタシスって知ってる?

今作は、ふんだんにカルチャーを盛り込みながら、麦と絹が惹かれていく過程を非常に丁寧に描いた。


麦と絹が明大前で終電を逃したことをきっかけに出会った日に、同じく終電を逃した男女と4人で入ったカフェに、押井守氏がたまたまいたことが描かれるシーンがある。
麦と絹は、そんな押井氏に瞬時に気づき、彼のことを「神」と称して密かにテンションが上がる。


押井守氏といえば、『機動警察パトレイバー2 the Movie』や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』などの監督を務めた人である。

ただ、決してメジャーな存在であるとは言い難い。
ましてや、麦と絹みたいに顔や仕草を見ただけで押井氏を認識できる人はそれほど多くないだろう。


しかし、「神」が同じ空間にいるのにもかかわらず、麦と絹と同じく終電を逃した男女は、“マスカルチャー”の話題で盛り上がっていた。
名作中の名作である『ショーシャンクの空に』を好きな映画として挙げる自称“マニアック”な男。

そして、その頃は結構話題の映画であった実写版『魔女の宅急便』を“最近観た映画”として挙げる女。

そんな彼らの姿を見て麦と絹は嘲笑するが、この男女は麦や絹とは対照的な“普通の人たち”として描かれている。
この男女との対比があるおかげで、麦と絹の二人が“普通の人たち”とは異なる感性を持っていることを感じさせるように、非常に巧みに描いたように感じた。




そして、そのように“普通の人たち”とは異なる独特の感性を持つ二人が、お互いの感性に共通点を見出す様を非常に丁寧に描いている。
たとえば、偶然同じジャックパーセルのスニーカーを履いていたり、偶然同じJAXAのトートバッグでデートに来たりと、実在するモノを通して二人の感性が近いことを描いている。

初めて会った日に帰り道に一緒にきのこ帝国の『クロノスタシス』を歌ったように、二人はお互いが共通して好きなカルチャーを通して距離を縮めていく。
まさに、 「“クロノスタシス”って知ってる?」を「知ってる」からこそ、独特の感性を持つ二人はお互いに分かり合える。

更に、そんな二人の会話は、「天塾鼠」「今村夏子」「穂村弘」「ゴールデンカムイ」「宝石の国」といったカルチャーに関する固有名詞で溢れている。
このような固有名詞は、“普通の人たち”であれば理解できないものだからこそ、麦と絹にとっては二人だけの“共通言語”である。


このように、“普通の人たち”とは違う麦と絹が、まるで“奇跡”であるかのように次から次へとお互いの共通点を見つけていき、二人だけの“世界”を築いていく様を我々観客が傍観することができるようになっている。
そして、二人だけの“世界”を築き上げていく姿を、今作は実在する様々なカルチャーを交えながら時間を割いて描いたため、麦と絹が互いに惹かれ合ったことに非常に説得力があったと感じた


そんな麦と絹が好むカルチャーが一致したのは果たして本当に“奇跡”だったのか、といった議論がネット上では散見される。
ただ、そういった議論は、映画『インセプション』のラストにおいてコマが止まったの回り続けたのかを議論することと同じように不毛であると私は考える。
というのも、大切なのは実際に“奇跡”であるかどうかではなく、二人が“奇跡”であると信じていたという事実だからだ。
二人が“奇跡”だと信じたからお互いに惹かれ合って恋愛関係に発展したのだから、実際に“奇跡”だったかどうかなどは、少なくとも二人の関係性を見るうえではどうでもいい議題だ。
二人のカルチャーの好みが“奇跡”のように一致したことを少々しつこすぎるくらい描いたおかげで、麦と絹にとって二人の恋愛自体が“奇跡”であったことを、観客に強く印象づけたと感じる


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LとRのすれ違い

カルチャーで関係を深めてきたそんな麦と絹が、徐々にすれ違いを始める様も、非常に丁寧に描かれていた。


大学卒業後に、麦と絹はフリーターになり、多摩川沿いのアパートを借りて暮らし始めた。
そんな二人を訪ねてきた絹の両親には、社会をお風呂にたとえたレトリックや、「人生って、責任よ」という言葉を投げかけられ、就職するように説得された。
その後訪ねてきた麦の父には、長岡に戻って花火の仕事を継がないと仕送りを打ち切ると宣言された。
麦はアルバイトでワンカット1000円で描いていた自身のイラストをクライアントに買い叩かれ、終いには「いらすとや」を代わりに使うと言われて仕事を切られてしまった。
麦の先輩であるカメラマンの海人は、「社会性とか協調性って、才能の敵」だと言い、カメラマンの仕事で生きていくために彼女に銀座で親父転がしとして働かせていたことを麦は知った。


新潟から一人で上京して来た麦は、資金源を断ち切られたなか東京で生きていくことに対する焦燥感を、飛田給に実家がある絹以上に覚えたはずだ。
また、やりたいことをして生きていくために好きな人さえをも犠牲にする海人を見たからこそ、好きな人と生きていくためにやりたくないことをやるという決断を下すことができたのかもしれない。
このように、やりたいことだけでは生きていけないという現実を多方面から突きつけることで、絹との生活を維持するためにも、麦が人生に対する考えを改めてざるを得ない状況を作ったのは非常に巧妙であると感じた。


そして麦は、長い就職活動の末に何とか内定を貰えたネット通販専門の物流関係の会社に就職することになった。
ただ、入社前は五時に必ず帰れると言われていたのにもかかわらず、いざ入社すると、新人だからと毎日のように残業せざるを得なかった。
そのため、以前のようにカルチャーを楽しむ余裕がなくなり、仕事における成長や成果などに対する関心の方が勝るようになった。


一方で、大学生の頃、就職活動をしているときに圧迫面接で連日追い詰められて泣かされていた絹は、麦に「やりたくないことなんかしなくていいよ」と言われ、就活を辞めて大学卒業後はフリーターとして暮らすことになった。
そして、麦が焦燥感により就職活動を始めたことを機に、絹も簿記の資格を取って医療事務の仕事に就いた。
就職先では、同僚による同調圧力によって、彼氏がいるのにもかかわらずコリドー街へ「名刺集め」に行かざるを得ない状況などに遭遇した。
それでも、絹は麦とは違って、家に帰ったらカルチャーを楽しむ余裕がある様子であった。


そして、そんな生活習慣の違いによって、二人がカルチャーを共有する時間が減った様が描かれた。
二人で『わたしの星』という舞台を観に行く約束をしていたのにもかかわらず、出張の前乗りの予定を麦が優先し、絹は一人で舞台を観に行くことになったり。
二人で『希望のかなた』という映画を観に行ったものの、高揚している絹とは違い、麦はまったく興味がない様子だったり。
二人で本屋さんに行っても、文庫本を探す絹とは違い、麦は前田裕二さんの『人生の勝算』というビジネス書に興味を示していたり。

二人でNintendo Switchの『ゼルダの伝説』を楽しまず、代わりに麦は一人でパズドラをやっていたり。


今作の冒頭から、二人がカルチャーの共有を通して関係性を深めてきたことがしつこいくらい描かれてきた。
だからこそ、二人が就職したことを機に生活習慣にズレが生まれ、カルチャーを共有する時間がなくなったことをきっかけに、二人の関係性に変化が生じた。


そして、そんなすれ違いは、二人の「人生」に対する考え方にまで及んでしまう。


麦の就職先で運転手をしていた男が、荷物を載せたトラックを東京湾に捨てて、麦がその後処理を任されたことが描かれるシーンがある。
運転手の男は、誰にでもできる仕事はしたくなかった、と逮捕されてから発言していたようだ。
つまり、やりたくない仕事から逃げ出した人間だった。
そんな運転手の男の行動を羨ましく思っていた同僚に対して憤怒していたことからも、麦は「人生は責任」という考えに染まってしまったことが分かる。
麦は、大学生の頃は絹に対して「やりたくないことなんかしなくていいよ」と言っていたものの、いざ社会人になると、生きていくためには「やりたくないこと」もやらざるを得ないという現実を受け入れてしまった。


一方で、「私はやりたくないことをしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」と言っていたことから分かるように、絹は社会人になってもやりたいことは諦めないという理想を抱いていた。
だからこそ、給料が下がるのにもかかわらず、医療事務の仕事を辞めて加持が経営する派遣のイベント会社への転職を決めた。




そんな麦と絹の「人生」に対する考え方の変化は、社会の「偉い人」に対する二人の姿勢の変化にも表れている。


二人が大学生だった頃、就職活動中に圧迫面接で絹のことを追い詰めた面接官のことを、今村夏子の『ピクニック』を読んでも何も感じない人、と麦は決めつけて激怒していた。
しかし、絹は「そんな言葉、就活には無力だよ」と言い、そんな社会の不条理を受け入れてしまった。


一方で、二人が就職をした後は、麦に怒鳴ったりツバを吐いたりする取引先の人のことを、『ピクニック』を読んでも何も感じない人、と今度は絹が決めつけて激怒していた。
しかし、麦は「大変じゃないよ別に。仕事だから。」と言い、そんな社会の不条理を受け入れてしまった。


この二つのシーンでは、かたや社会の「偉い人」による不条理な扱いに理解を示して受け入れてしまい、かたや自分たちが好むカルチャーによって自分たちの価値観と「偉い人」の価値観に線引きをした。
そして、二つのシーンで二人の台詞が逆転したことからも、二人の「社会」に対する姿勢が逆転した様がレトリカルに描かれている。




今作は、そんな二人の関係性の変化を「イヤホン」を通して比喩的に表現している。
麦が絹に告白する直前、麦と絹が二人でイヤホンを分け合いながらファミレスのお姉さんに勧められたAwesome City Clubの『Lesson』を一緒に聴いていたシーンがある。
このように、二人が出会った頃は、イヤホンは麦と絹がカルチャーを共有するためのツールだった。

しかし、就職した二人がカルチャーを共有しなくなったとき、イヤホンは全く違う意味合いを持つようになった。
絹がリビングのテレビで音を流しながら『ゼルダの伝説』で遊び始めたときに、同じ空間にいた麦が仕事に集中するためにイヤホンをつけたシーンがある。
このように、以前は二人のカルチャーを繋いだイヤホンが、二人が就職すると今度は二人の間の壁へと変化してしまった。


同じ音楽を聴いているつもりでも、イヤホンのLとRでは流れる音が違うからイヤホンを分け合って音楽を聴いてはいけない。
このイヤホンの説教話は、絹と麦は5年間同じ恋愛をしていたつもりが実はお互いに違う恋愛をしていた、ということのたとえにもなっている。
というのも、いくら趣味が合って感性が似ていたとしても、結局は別人なので物事に対する感じ方などは変わってくるからだ。


二人があくまでも別人であることは、あれほど二人の共通点を強調していた今作の序盤から布石としてしっかりと描写していたこともまた秀逸だ。
出会った日、ガスタンク巡りが趣味である麦が制作した『劇場版ガスタンク』という自作映画を観て、絹は途中で寝落ちしてしまった。
同じように、初デートで絹は自身が行きたがっていた国立博物館のミイラ展に麦と一緒に行くものの、麦はそのとき実は内心引いていたことを後に打ち明けた。
また、絹は付き合う前はラーメンブログを運営するほどラーメン好きであったようだが、麦と付き合い始めてからラーメンを二人で食べに行く描写が一度もなかった。
このように、「ガスタンク」「ミイラ展」「ラーメン」という、二人が相容れない点がさり気なく描かれているため、どれだけ似ていたとしても二人があくまでも別人であることが痛感できる。


二人が別人だからこそ、「人生」に対する考えの違いも生まれたことが分かる。
更には、二人が別人であるが故に発生した違いが、悪い方向に作用してしまう様子も描かれた。
たとえば、酔っ払ったときの海人のことを、麦は「飲むと必ず、みんなで海に行こうと言い出す人」として見ていたものの、絹は「お酒を飲むとすぐ女の子を口説こうとする人」として見ていた。
そんな海人が命を落とした時に、麦と絹の中ではその出来事に対する感情の違いが生まれ、その違いをわかり合おうとしなかったため、お互いに「どうでもよくなった」。
お互いの違いをわかり合おうとしなかったことが原因で二人の間ですれ違いが起こったことを、非常に残酷に描いていた印象だ。




今作は、社会で生きていくために生じてしまった麦と絹の生活習慣の違いや、麦と絹が別人であるからこそ生じてしまった「人生」に対する考え方の違いを、数々のシーンを通して非常に丁寧に描いた
そして、そんなお互いの違いを受け入れられなかったからこそ、二人が“奇跡”のような恋愛をしていた頃にはもう戻ることができないことを、観客に突きつけたと感じる


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結論

今作は、麦と絹のカルチャーの好みが“奇跡”のように合致したことを少々しつこすぎるくらい描くことで、麦と絹にとって二人の恋愛自体が“奇跡”であったことを、観客に強く印象づけた。
そこから、二人が別人であるからこそ、カルチャー以外の「人生」に対する考え方などの根本的な部分ですれ違っていく様を描くことで、そんな“奇跡”のような恋愛をしていた頃にはもう戻ることができないことを観客に突きつけた。


ただ、二人の恋愛と人生がそのように不可逆的であるからこそ尊いものであったことを、今作は同時に表現している。
「花束」は、枯れてしまった後でも、それが美しかった頃を思い出として振り返ることができる。
それと同じように、麦と絹が別れてしまった後でも、二人の恋愛と人生が美しかった頃を思い出として振り返ることができる。
それは、笑顔で別れたあまりにも爽快すぎる今作のラストシーンにも麦と絹のメンタリティとして表れている。


また、今作は、実在するカルチャーや場所を用いて設定や描写にリアリティを持たせることで、2015年から2020年の間、麦と絹という男女が本当に調布近辺で暮らしていたかのように描いた。
そういったリアリティも相俟って、観客は、リアルで平凡な男女の、5年間の不可逆的な恋愛と人生を本当に見守ってきた気持ちになることができる


だからこそ、観客は、笑顔で別れた二人の結末に共感することができ、最高の余韻に浸ることができるような作りになっている
そういった今作の性質から、映画を鑑賞し終えてから、二人の不可逆的な恋愛と人生を振り返りながら自分の過去の体験との共通点などを見出し、今作について語ったり考察したりして盛り上がることもできる。


同じ理由で、Awesome City Clubによる今作のインスパイアソング『勿忘』が流行ったと考える。
というのも、劇中では聴くことができず映画を鑑賞し終えてから映画の内容を振り返りながら楽しむことができる「インスパイアソング」という形式が、そういった今作の性質と上手いことマッチしたからだと感じる。

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今作の余韻に浸りながら聴く『勿忘』ほど素晴らしい体験はなかなか味わえないのではなかろうか。




感想『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』はなぜリアルタイムで“今”鑑賞すべき作品なのか

2020年12月18日に『仮面ライダーゼロワン』の初の単独映画『劇場版仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』が公開された。
元々今作は2020年夏に公開予定だったが、COVID-19 (新型コロナウイルス) の影響で半年弱延期となった。
4月から6月にかけて発令されていた緊急事態宣言中に撮影が中止になったり、撮影再開後も現場における感染対策の徹底のため撮影スケジュールに大きく影響が出たりと、今作がCOVID-19によって受けた影響は計り知れない。
また、映画館や劇場が休業を余儀なくされたり、入場者数を大幅に制限せざるを得なかったりして、制作会社である東映や映画業界自体がかなり苦しい状況だ。


そんな不利な状況下で遂に完成して劇場で公開された今作を、私は公開初日に観に行った。
そして、実際に鑑賞してみると、今作は『仮面ライダーゼロワン』の結末として、そして、純粋に一本の映画としても非常に楽しむことができた。
それと同時に、今作は他の作品と比べても、劇場で公開されている”今”、リアルタイムで鑑賞すべき作品であることを実感した。
その理由を、私の感想を交えながらこの記事で述べていきたい。


劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME 主題歌&オリジナル サウンドトラック


この記事には、映画『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』や『仮面ライダーゼロワン』、その他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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渦中の世界

6月に緊急事態宣言が解除されてからは、数多くの出演者やスタッフが働く撮影現場等においてクラスターが発生しないように感染対策に尽力してきた。
撮影再開にあたって、東映も6月に以下のような感染対策を徹底した製作ガイドラインを発表している。

ガイドラインは、同局が定めた「安全を第一優先に濃厚接触者を出さないための撮影を行う」「『3つの密』を避けた撮影を行う」などの方針を前提に作成。撮影時間は、通常よりも短く午前6時から午後10時までとし、打ち合わせは可能な限りウェブ会議システムを使用。現場では演技時の役者を除いてあらゆる場面で2メートルのソーシャルディスタンスを保つことを徹底するとしている。

テレ朝系「仮面ライダーゼロワン」、6・1撮影再開へガイドライン作成 - サンスポ

このように、撮影現場では感染拡大防止のために最善を尽くしつつ、各制作会社は変わらずに良質な作品を提供し続けてきた。


バラエティ番組などでは、出演者がフェイスシールドを着用したり、アクリルパネルが設置されたり、出演者同士のソーシャルディスタンスが保たれたりして、「新しい生活様式」を取り入れながら撮影している様子が画面の向こうにいる視聴者の我々にも見えている。
一方で、ドラマや映画などは作品性が高いため、現場の感染対策が画面の向こうの我々には見えないように工夫されている。


このような工夫のおかげで、観客は作品の世界に没入できるような作りになっている。
ただ、それと同時に、作中の登場人物がCOVID-19の渦中にあるこの現実世界とは異なる世界にいることがどうしても伝わってしまう。
そのため、視聴者によっては少し登場人物たちとの距離を感じてしまうこともある。
これは、特にメインターゲットである子供たちから見ると「身近なヒーロー」である仮面ライダーにとっては、その人気にも影響を与えかねない副作用でもある。


その影響か、今作には、COVID-19の渦中にある現実世界を想起させるような描写が散りばめられている。
たとえば、感染対策でマスクを着用することが当たり前となった現実世界の光景を表すべく、諌たちもガスマスクを着用している。
また、感染対策としてリモートで仕事や授業をするようになった「新しい生活様式」を表すべく、登場人物たちはビデオ通話で連絡を取り合っている。
また、(今は電車が満員であることが当たり前に戻りつつあるものの) 緊急事態宣言が発令されて街中を出歩く人が殆どいなかった頃を表すべく、無人の電車に乗る或人の姿などが描かれている。


このように、COVID-19の渦中にある現実世界を生きる我々と似たような状況に置かれた或人たちを描くことで、観客がより或人たちに親近感を覚えることができるようになっているように感じた

体感リアルタイムサスペンス

予告編で「全人類全滅まで、あと60分」という謳い文句が話題を呼んだ通り、今作は世界滅亡までの60分間を仮面ライダーたちと共に戦う体感リアルタイムサスペンスである。
今作の副題『REAL×TIME』も、そのリアルタイムで物語が進行する今作の構成を表している。


“リアルタイムサスペンス”といえば、世界的に人気を博したアメリカのテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』がその金字塔であり、多くの人にとっては馴染み深い。

『24 -TWENTY FOUR-』は、物語の進行と現実の時間進行が同じ速度で進み、1シーズン24話全てを観ると丸1日の出来事を目撃することができるという構成になっている*1
唐沢寿明さん主演の『24 JAPAN』という題の日本リメイク版が2020年10月からテレビ朝日で放映されていることから、最近再び話題を集めている。
そのような経緯から、今作も『24 -TWENTY FOUR-』を意識した作りになったことが推察できる。


この“体感リアルタイムサスペンス”という構成により、観客は或人たちと共に作中の出来事を体験しているかのような気分になることができる。
タイムリミットまでに何とかエスたちを止めないといけないという或人たちの緊迫感を一緒に味わうことができる。
また、世界を救うために、正にリアルタイムでゼロワンたちが戦ってくれているようにも感じられる。
よって、体感リアルタイムサスペンスであることにより、観客にとって或人たちがより近い存在であるように感じられるというメリットがある


ただ、完全に“リアルタイム”を貫かなかったことに関しては少し残念だ。
たとえば、天津垓たちが野立万亀男を問い詰めている場面でカットが変わると服を着ていた野立がいきなり全裸にされていたりと、リアルタイムに進行しておらず時間が明らかに飛んでいることが分かるシーンがいくつかある。
その詰めの甘さがなければ、恐らく“リアルタイム”の効果は増していただろう。


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それぞれの未来図

今作は、テレビ本編の最終話を経て分かり合うことができた人間とヒューマギアの関係性の集大成であると感じた。


まずは、或人と滅の関係性だ。
『仮面ライダーゼロワン』のテレビ本編の最終話で或人と滅は、本当の意味で分かり合うことができた。
私は以前執筆した以下の記事で、そのことについて詳しく語っている。

人類滅亡を目標に行動し続けてきたテロ組織である滅亡迅雷.netの滅が、今作ではエスが率いる新たなテロ組織による人類滅亡を阻止するために今度は戦う。
「この世界は捨てたもんじゃない」という滅の台詞は、人間の悪意に触れ続けてきた滅が或人と関わっていく中で世界に希望を見出してたことのあらわれにもなっていて、非常に感慨深い。
また、滅が新イズに「心」を説くシーンも、「心」を否定し続けてきた滅が或人に「心」を教えられたことによって成長した姿を写している。


そしてもう一つは、或人とイズの関係性だ。
テレビ本編の最終話の時点でイズはそれまでの記憶を失っていたものの、今作では記憶を取り戻したような描写があった。
そんなイズは、或人とは「社長と社長秘書」といった仕事上の立場を超えた信頼関係をテレビ本編で築いてきた。
今作において、イズが或人を助けるために或人の命令に逆らって駆けつけるシーンは、正にその象徴であると感じた。
或人が変身するゼロワンとイズが変身するゼロツーが並び立つ姿も、そんな二人の関係性の集大成としては非常にしっくりくる。


また、これまでのテレビ本編では見ることがあまりなかった珍しい組み合わせの人間とヒューマギア関係性も描かれた。
たとえば、諌と迅が空中戦で共闘するシーンや、唯阿と亡が一緒に調査するシーンなどがあった。


このように、今作では人間とヒューマギアが「心」を通わせながら手を取り合って生きていく未来が垣間見えた。
そして、テレビ本編からの積み重ねがあったからこそ魅力的に描くことができたのだと感じた。

楽園の創造

今作の中盤までの敵は、仮面ライダーエデンに変身するエスという存在だ。
エスは、楽園ガーディアを創造するために世界中で同時多発テロを起こす極悪非道な存在として描かれた。
エスを演じる伊藤英明さんの、映画『悪の教典』で演じた極悪教師を想起させるような怪演からも、正に“純悪”とも思えるような魅力的な強敵として或人たちの前に立ちはだかった。

悪の教典

悪の教典

  • 伊藤英明
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しかし、そんなエスに対する観客の見方が今作の終盤で大きく変わるのが、今作の面白いポイントだ。
まず、エスが楽園ガーディアを創造しようとしたのは、命を落とした婚約者である朱音に生きていく世界を与えるためであったことが明らかになる。
そして、シンクネットで集まったエスの信者は、“楽園ガーディアに選ばれし人たち”ではなく、実は“滅びゆく世界に残るよう選ばれた人たち”であったことも判明する。
つまり、エスが実行したテロはエスの大切な人のためでありつつ、無差別に命を奪っているわけではなかったことになり、これまでのエスの行為の意味合いが変わってくる。
このように、今作の終盤に突入すると、極悪非道に見えていたエスに対して観客が同情できるように、エスの「心」の中が明かされていく構成となっている。


そして、そのようなエスの心情が明かされた後、或人たちまでもがエスに対して好意的に接するようになる。
勿論、婚約者のために勝手に関係のない人たちを巻き込んだり傷つけたりしたことはダメだと思っているだろう。
ただ、デイブレイクの際にエスが朱音のことをナノマシンで治療しようとした結果、朱音がデータの世界で生きるようになったことについて、或人は「(エスは朱音の) 心を救った」と肯定的に捉えている。
言い換えると、或人は“たとえ実体がなくてもデータの中で朱音の「心」は生きている”と考えている。
このスタンスは、“ヒューマギアにも「心」はある”という或人のこれまでのスタンスの延長線上にあることを考えると非常に理にかなっているように思える。


また、テロ攻撃では人々を苦しめるために使われたナノマシンが、朱音のことを結果的に救うことにも繋がったため、ナノマシンというテクノロジーの功罪も明らかになった。
テクノロジーの功罪という点では、テレビ本編でも「ヒューマギア」というテクノロジーを通して、その可能性と危険性を描き続けてきた。
今作でもあるとは、ナノマシンも同様に、そのテクノロジーを人間がどう扱うか次第では人間を幸せにできるテクノロジーであることを知ることができた。


このように、或人がエスと接していく中で、テレビ本編で描いたテーマが「ヒューマギア」を超えて他のテクノロジーに対しても普遍的に適用されるものであることを描いた
そのため、特に目新しい価値観が今作では紹介されたわけではない。
だが、テレビ本編における最終話までの或人のヒューマギアとの関わり合いに更なる意義を付与してくれたと捉えることができる。


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結論

『仮面ライダーシリーズ』はもちろん、後から動画配信サイトやDVD・Blu-rayで観ることもできる作品ではあるが、やはりリアルタイム性が高い作品である。
というのも、その作品が製作された当時の情勢を大きく映し出している作品だ。
その中でも特に今作は、リアルタイムで多くの方々に“今”劇場で鑑賞してほしいと強く感じた作品だ。
その理由が二つある。


一つ目は、作中の登場人物たちとの心理的な距離を近づけてくれる作品だからだ
ステイホームやソーシャルディスタンスが推奨されているなか、我々は他者との物理的な距離を取らざるを得ない世界で生きている。
だからこそ、“今”を生きる多くの人々は少し寂しさを覚えているに違いない。
或人たちがCOVID-19と似たような状況下にいる設定や、体感リアルタイムスサスペンスという今作の構成のおかげで、我々観客は、COVID-19の渦中に放映された『仮面ライダーゼロワン』の登場人物がより近い存在であるかのように感じることができる。


そして二つ目は、『仮面ライダーゼロワン』をリアルタイムで一年間観てきた人が観るべき最終話の先の後日談として作られているからだ
平成2期以降の「夏映画」は、テレビ本編の最終話直前という微妙な時期に公開されることが通例となっていた。
ただ、今作はCOVID-19の影響で公開が延期になったことで、最終話の放映後に公開されることになってしまった。
今作が公開された段階では『仮面ライダーゼロワン』の放映が完全に終了し、今では『仮面ライダーセイバー』が子供たちの関心の的となっている。
そう考えると、『仮面ライダーゼロワン』の単独映画をこのタイミングで公開することは、従来と比べると不利なのかもしれない。
ただ、最終話の後の物語を描くことができる点を逆手に取り、今作は公開延期が決まってから脚本を練り直したようだ。

『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』は、本来テレビシリーズ放映中の2020年夏に公開される予定で製作が進められていたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で製作スケジュールが例年よりも遅れたため、テレビシリーズが最終回を迎えた後に改めて脚本を練り直し、「最終回の"その後"」の時間軸でストーリーが展開することになったという。

『仮面ライダーゼロワン』鶴嶋乃愛が語る、イズに込め続けた思い「重く切ないストーリーの中で癒しを届けたい」 (1) | マイナビニュース

そしてその結果、人間とヒューマギアの関係性や、或人の価値観といった、テレビ本編で最終話まで一年間かけて描いてきたことを存分に活かした作品となった。
よって、リアルタイムでテレビ本編を最終話まで追ってきた人こそ、今作は“今”鑑賞することで最大限に楽しむことができる。


『仮面ライダーゼロワン』が紆余曲折を経てCOVID-19の渦中を乗り越えてきたことを考えると、シリーズの集大成とも言える今作を劇場で鑑賞して色々な感情が込み上げた。
やはり、リアルタイムで鑑賞することでこそ、今作の真価が発揮される。




感想『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』はなぜ天才的に構成されたミステリーなのか

2020年1月に、ライアン・ジョンソン監督による映画『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』が公開された。
ジョンソン氏といえば、世界中のスター・ウォーズファンの間で賛否両論を呼んだ『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』の監督及び脚本家をも務めた。
今作でもジョンソン氏は、監督を務めながら、原作などが存在しない完全にオリジナルの脚本を執筆した。
2017年に公開された『オリエント急行殺人事件』などの近年製作された多くのミステリー映画には原作があり、展開や結末について予め知った状態で観てしまった。
なので、どうなるのかが分からずで観るミステリー映画は、私にとっては結構久しぶりだった。


そして、私は今作を初めて観た時に様々な急展開にかなり驚かされつつ、純粋に一本の映画として楽しめた。
それは、従来のフーダニットに意外な捻りを加えたジョンソン氏の天才的な構成力のおかげだったと私は強く感じた。


この記事では、今作がどのように見事に構成されたミステリー映画なのかを、私の感想を交えながら考察していきたい。
言うまでもないが、勿論ネタバレは含まれているので、記事を読む際は注意していただきたい。


ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密(字幕版)


この記事には、映画『ナイブズ・アウト / 名探偵と刃の館の秘密』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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フーダニットの弊害

今作は、とある犯罪事件において「誰が犯人なのか」を探偵と一緒に推理する作品のジャンルである「フーダニット (whodunit)」に分類される。
風変わりな探偵が登場し、カントリーハウスを舞台にした謎を解き、最後に意外な犯人が暴かれる、といったフーダニットの基本フォーマットが確立されている。


ただ、フーダニットの構成は最後の答え合わせに向かって物語が進行していくため、観客が感情的に物語に入り込むことができないような構造になっている、という欠点がある。
探偵と一緒に事件の真相を推理していく快感や最後の答え合わせによる満足感などの感情はたしかに味わえる。
だが、観客はどうしても傍観者として事件の様子を眺めながら最後の答え合わせを待ち構えてしまうため、真の意味で感情的に物語に入り込むことができない。
これについては、ジョンソン氏がとあるインタビューで以下のように語っている。

But I do kind of fundamentally agree with Hitchcock's take on the genre, which was that it is all based on a surprise at the end, which is kind of the cheapest coin. He was very much a proponent of suspense as opposed to mystery. And there is something about the way that that, as an engine, drives a movie that I do agree with. Different kinds of mysteries have attempted this in different ways, and Agatha Christie would always put some different engine, other than just whodunnit, into each of her books. The challenge is basically creating a compelling story so you are not just waiting for the reveal at the end. So that you are actually caught up in something emotionally.

和訳: ただ、フーダニットというジャンルが最後のサプライズありきだというヒッチコックの考えに私は根本的には同意している。彼はミステリーよりもサスペンスを支持していた。そしてそのサスペンス要素がエンジンとなり映画を動かすことにも私は同意する。色んなミステリーがこれを様々な方法で試みてきて、アガサー・クリスティーなんかは自身が執筆した本に必ずフーダニット以外のエンジンを入れていた。観客が最後の謎解きを待ち望むだけにならないような、そして、感情的に何かにハマっていられるような感心できる物語を作ることがチャレンジだった。


‘Knives Out’ Director Rian Johnson on Tackling a Whodunnit – The Hollywood Reporter, 和訳は引用者による

つまり、フーダニットというジャンルの中で観客が感情的に物語に入り込むことができる作品を作ることが、今作を制作するうえでのジョンソン氏の課題だったと考えることができる。


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純粋なマルタ

前述したようなフーダニットの弊害を克服するべく、ジョンソン氏は「誰が犯人なのか」の答え合わせを今作の中盤に持ってきた
しかも、マルタが間違った薬を投与してしまったせいでハーランの命を奪ってしまい、その犯行を隠すためにハーランと一緒に隠蔽しようとした、という真相にブランより先に我々観客が辿り着くという、フーダニットにしては非常に特殊な展開になった。
我々観客は意外にも早い段階で答えを知ってしまった (と思い込んでいる) ため、以後誰が犯人なのかを謎解きをする必要がなくなる。
勿論、「誰がブランに著名で依頼したのか」という謎は依然と残ったままではあるが、この段階では「誰が犯人なのか」という問題は既に解決していたかのように思われる。


そして今度は、 「嘘をつくと吐いてしまう」マルタが自身の犯行をブランや刑事らから隠蔽する姿をハラハラしながら応援することに観客の意識が自然と向くようになっている
このようにマルタに感情移入できるのは、マルタが本当に良心的で純粋な人間であることを我々が知っているからだ。
「嘘をつくと吐いてしまう」症状はユーモラスな設定ではあるが、正にマルタの純粋さの象徴にもなっている。
また、ハーランのことを本気で心配するマルタの姿もそうだし、マルタのことを庇うためにハーランが隠蔽工作に加担するほどマルタがいい娘であることも、事件の回想から我々に伝わっていた。
だからこそ、自分の車が写っている防犯カメラの映像が流れるのを阻止しようとしたり、泥に残っていた足跡をブランの目の前で消そうとしたり、証拠品をブランが見ていない隙に投げて隠滅しようとしたりするマルタの様子は滑稽でありながらも可愛らしく思えたし、我々は応援したくなった。
このように今作は、「誰が犯人なのか」を探偵と共に推理することが醍醐味の従来のフーダニットとは真逆で、「誰が犯人なのか」を探偵に知られて欲しくない、という感情を観客に芽生えさせる




尚且つ、答え合わせを中盤に持ってきたことで、従来のフーダニットにある「謎解きのワクワク感」を新鮮な形で提供することに成功したとも感じる。
というのも、事件の全貌を分かり切ったと我々が油断しているところに、事件には裏があることが明らかになるからだ。
つまり、フーダニットが解決されたと思い込んでいたところに、新たなフーダニットが再び浮かび上がる


一つ目の新たなフーダニットは、「I know what you did」と書かれた手紙をマルタの家に送ったのは誰か、といった謎だ。
そして二つ目の新たなフーダニットは、手紙の送り主であった家政婦のフランの命を奪おうとしたのは誰か、といった謎だ。
我々は犯人であるマルタ視点でこれまで物語を観てきたため、これらのフーダニットに対するマルタの驚きやハラハラ感を追体験することができる
尚且つ、我々が応援しているマルタがもしかすると犯人ではない可能性も浮上するため、余計に新たなフーダニットを解明したい気持ちがそそられる


中盤に一度答え合わせを持ってきて我々を油断させることで、その後に浮き上がった新たなフーダニットをより新鮮に感じさせてくれたことに、私は非常に感心した。




犯人であるマルタに感情移入ができるような構成にすることで、観客が物語に入り込むことができるようなフーダニット作品に仕上げたことが、今作の秀逸な点だと感じた。

自分勝手で排他的な家族

そして、ハーランに親身になっていた利他的なマルタとは対照的に描かれていたのが、ハーランの家族だ。


フーダニットの真犯人であったランサムは勿論、“クソ”である。
葬式には出席しなかったのにもかかわらずハーランの遺言書の開封に出席したことこそが、その自分勝手な性格を正に表している。
更には、マルタの「嘘をつくと吐いてしまう」症状を利用して色々と聞き出したり、そもそもマルタにハーランの事件の罪を着せようとしたりと、非常にタチの悪い人間であることが我々にも伝わる。
だからこそ、真犯人がランサムであることが発覚したときに、犯人が分かった驚きとともに、“クズ”が負けたことにどこか清々しさを感じることができた。


一方で、ランサム以外のスロンビー家のみんなも、実は決して性格が良くはない。
“クソ”なランサムが家族みんなのことを“クソ”と連呼した例のシーンがそれを象徴する。
そんな彼らの醜い様が、話が進んでいくとともにますます露呈していくのが非常に面白い。


ブランの捜査で証言しているときにスロンビー家は自身が自立した成功者であることを度々強調するが、証言の最中に差し込まれる回想を通して、彼らの証言がウソであることが判明する。
リチャードが浮気がハーランにバレてそのことを妻に明かすと言われていたこと、ハーランがメーガンの学費を着服していたことがハーランにバレて援助を打ち切られたこと、ウォルターがハーランによって出版社からクビになると告げられていたこと。
実は、彼らは全然自立した人間ではなく、ハーランが築いた成功や財産を利用して自分勝手に生きる人たちだったことが分かる。


そして、スロンビー家の身勝手さは、彼らが移民問題について語るとあるシーンでも露呈する。
そのシーンで、アメリカ国籍を手に入れることがどれほど難しいことかについて無知なリチャードは、移民たちはアメリカへ合法的な手段で入国する必要があると主張する。
それに対してジョニは、移民の子供たちが檻に入れられている現状を嘆く。
だが、皮肉なことに、リチャードはハーランのおかげで会社を持って生活ができているし、ジョニはハーランが渡してくれる子供の学費を着服して生活している。
つまり、この二人の生き方は自分たちの政治的主張とは完全に矛盾していて、その主張がただの薄っぺらい綺麗事であることが分かる。


また、スロンビー家のマルタに対する接し方からも、その身勝手さは伝わってくる。
例えば、まるでマルタが召使いであるかのように、リチャードが食べ終わった空いた皿をマルタに手渡すシーンがある。
マルタがエクアドル人、パラグアイ人、ウルグアイ人、ブラジル人のどれであるのかを誰も覚えていないことからも、南アメリカが全部一緒であると思い込んでいる彼らの無関心さを表している。
口ではマルタのことを「家族同然」と言いながらも、実はマルタがスロンビー家にとってはどうでもいい存在であることが分かる。


そんな彼らのチラチラと見え隠れしていた本性は、スロンビー家の特権的ステータスが揺さぶられたときに完全に露呈する。
ハーランの莫大な遺産を、家族である彼らではなくマルタが全て相続することを知ったシーンで、スロンビー家は揃ってマルタに対して卑劣な言葉を投げかける。
余裕がなくなったからこそ、綺麗事や偽の優しさで取り繕うことをやめ、マルタのことを外敵とみなすようになる。


このスロンビー家の姿は、正に現在の一部のアメリカ国民の移民に対する姿勢を映し出している。
キャプテン・アメリカ役で知られているクリス・エヴァンズが演じるランサムが、移民であるマルタの命を奪おうとして失敗したシーンなんかは正に、アメリカの白人が移民に刃を向けるという構図になるように狙って演出されている。

だから、今作におけるスロンビー家は、現代社会に対する風刺であるとも見なすことができる。


そんな風刺を盛り込みながらも、スロンビー家の自分勝手で排他的な性格を絶妙なバランス感で描くことで、我々がスロンビー家のことを嫌いになるように見事に構成されている。
そして、スロンビー家から敵視されたり排除されたりと散々な目に遭っているマルタのことを、逆にますます応援できるようになっている。




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結論

フーダニット作品を鑑賞している側の人間は、作品の登場人物に感情移入することよりも、どうしても謎解きを優先させてしまいがちだ。
そんな中、観客が物語に感情的に入り込むことができるような筋運びでフーダニットを描いたことが、今作の一番素敵なところだと私は感じた。


中盤にフーダニットの答え合わせを持ってきたり、「嘘をつくと吐いてしまう」症状を患わせたりすることで、マルタのことを我々は自然と応援できた。
また、スロンビー家の“クソ”さを、彼らの政治的主張などを絡めた会話やマルタに対するさり気ない接し方を通して見事に表現したことで、スロンビー家のことを嫌いになりつつ、マルタのことをますます応援したくなった。
そして、更に、マルタのことを応援していたからこそ、最後に真犯人が明かされたときにカタルシスを感じることができた。


このようにフーダニットで感情移入させることは決して簡単なことではないし、ジョンソン氏が非常に巧妙に構成を練ったからこそ得られた効果だと感じる。
元々ジョンソン氏は「視聴者の期待を超える」ことに非常に執着している監督だ。
これは『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』では特に顕著だったと感じる。
ジャンルの限界を超えて我々観客の期待を超え、ハラハラとワクワクで溢れる作品ができあがったのは、そんなジョンソン氏の執念が今作でも活きたからこそだったのかもしれない。




感想『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』はなぜ駆け足な展開になったのか

2019年12月に、J・J・エイブラムス監督による『スター・ウォーズシリーズ』の最終作『エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』が遂に公開された。


『スター・ウォーズシリーズ』を振り返ってみると、その歴史は40年以上にも及ぶ。
1977年にジョージ・ルーカス監督が製作した『エピソード4/新たなる希望』が大ヒットして以降、1980年の『エピソード5/帝国の逆襲』と1983年の『エピソード6/ジェダイの帰還』を含む三部作のシリーズとして、ルーク・スカイウォーカーがダース・ベイダーに立ち向かう姿を描いた。
上記三部作 (オリジナル・トリロジー) の前日譚にあたるプリクエル・トリロジーも製作され、1995年の『エピソード1/ファントム・メナス』、2002年の『エピソード2/クローンの攻撃』、2005年の『エピソード3/シスの復讐』の三作を通して、アナキン・スカイウォーカーが暗黒卿ダース・ベイダーになるまでの経緯を描いた。


2012年にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収して以降、オリジナル・トリロジーの後日譚としてシークエル・トリロジーが製作された。
2015年に公開されたその一作目である『エピソード7/フォースの覚醒』はJ・J・エイブラムス監督が製作し、二作目である『エピソード8/最後のジェダイ』はライアン・ジョンソン監督が製作した。


『エピソード7』はレイやカイロ・レン、フィン、ポー、スノークといった新たな登場人物を紹介しつつ、観客の興味を引き立てるべく数多くの謎を提示した。

そんな中、次作の『エピソード8』はほぼ全ての謎に対する答えを提示してしまった。

例えば、『エピソード7』で謎として提示されたレイの両親の正体や、『エピソード7』では明かされなかったカイロ・レンの闇落ちの経緯は、両方共『エピソード8』ではしっかりと答えられた。


そして、シークエル・トリロジーの最終作であり『スター・ウォーズシリーズ』そのものの最終作である今作の監督に、エイブラムス氏が再び抜擢された。
そんな今作を観た私は、展開が非常に駆け足であるように感じた。
なぜそのように感じてしまったのかを、これまでの三部作やその製作の背景を振り返りながら考察していきたい。


スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け (通常版) (字幕版)


この記事には、映画『スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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ベンの救済

アナキンやルークらスカイウォーカー一族が重大な決断を下すうえで、家族の存在が常に鍵となってきた。
アナキンは、『エピソード2』で母シミが命を落としたことへの復讐としてタスキン・レイダーの命を奪ったことでダークサイドへと引き寄せられ始め、更に『エピソード3』で後に妻となるパドメを救うためにダークサイドに堕ちてダース・シディアスの弟子となった。
『エピソード6』では、ルークは父であるダース・ベイダーをライトサイドへと引き戻そうと必死に良心に呼びかけた。
そして、そんなダース・ベイダーは愛する息子のルークを救うためにダース・シディアスの命を奪い、ジェダイに戻った。
このように、「家族」の存在がアナキンやルークにとっていかに大切だったかが分かる。


『エピソード7』からのシークエル・トリロジーでも、スカイウォーカー一族にとっての家族という存在の大きさが一貫してテーマとなっている。
アナキンの孫でファースト・オーダーの幹部でもあるカイロ・レンことベン・ソロを、ライトサイドとダークサイドの間で彷徨うスカイウォーカー一族の一員として、敵側に配置して描いた。
そんなベンが、叔父さんのルークに命を奪いかけられたことをきっかけにダークサイドに堕ちたことを『エピソード8』は描いた。
そんなカイロ・レンの感情はかなり不安定で、それはプラズマの刃が不安定な彼のクロスガード・ライトセイバーにも表れている。

このように、人間臭くてどこか憎めないカイロ・レンが、個人的にはシークエル・トリロジーの大きな見どころだったと感じている。


『エピソード7』や『エピソード8』では、カイロ・レンにとって「家族」が大きな弱点であることが描かれた。
どれほど家族のことを「過去」とみなして葬ろうとしても、家族とはそう簡単に自分を切り離せない。
ハンの命を奪ったことがカイロ・レンの心が更に乱れたり、レイアへの攻撃を躊躇ったりしてしまったことが、それを象徴している。


そして今作でも、家族の存在がカイロ・レンの決断に大きな影響を与えた。
今作では、母レイアが命を落としたことと、父ハンの幻覚の説得により、ベンは改心して再びライトサイドに戻った。
レイアが自分の命をかけてまでしてカイロ・レンを引き戻したのは、『スター・ウォーズシリーズ』という家族を巡る物語の主要キャラクターの最期としては納得がいく。
また、家族の愛がカイロ・レンの決断に大きな影響を与えた意味では、『エピソード7』や『エピソード8』からカイロ・レンの人物像は一貫していた印象だ。




一方で、シークエル・トリロジー全体を俯瞰すると、今回のカイロ・レンの改心までの道筋が少しぎこちなく思える。
というのも、前作の『エピソード8』はカイロ・レンがシークエル・トリロジーの最後の敵 (ラスボス) となるような方向で製作されたからだ。
『エピソード8』で、それまでカイロ・レンのことを支配していたスノークを、カイロ・レンとレイが倒してしまった。
更には、カイロ・レンはスノークの代わりに自らがファースト・オーダーの最高指導者となって銀河系を支配しようと企んでいることも明らかになった。
このようなことから、『エピソード8』はカイロ・レンが『エピソード9』におけるラスボスになるためのお膳立てをしていたように思えた。


ただ、エイブラムス氏をはじめとする今作の製作陣は、『エピソード7』の製作段階からカイロ・レンは最終的に改心する人物として描く構想があったのだろう。
今作の脚本を共同執筆したクリス・テリオも、インタビューで以下のように述べている。

We felt that right from the beginning, when J.J. established Kylo Ren in Episode VII, there was a war going on inside him and that he had been corrupted by something bigger than himself and had made bad choices along the way. J.J. and I felt we needed to find a way in which he could be redeemed, and that gets tricky at the end of Episode VIII because Snoke is gone. The biggest bad guy in the galaxy at that moment seemingly is Kylo Ren. There needed to be an antagonist that the good guys could be fighting, and that’s when we really tried to laser in on who had been the great source of evil behind all of this for so long.

和訳: エイブラムス氏が『エピソード7』でカイロ・レンのキャラクターを確立させたときからずっと、彼の心の中には葛藤があり、自分より強大な何かの影響で落ちぶれてしまい、そのせいで間違った選択をしてきたのだと感じていた。私とエイブラムス氏は、彼を救う方法を見つけ出す必要があったが、『エピソード8』の最後でスノークがいなくなったのでそれが難しくなってしまった。その時点では、銀河系最大の悪はカイロ・レンになってしまっていた。良い奴らが戦うべき敵が必要だったため、これまでずっと誰が悪の源だったのかを集中して考える必要があった。


‘Star Wars’ Screenwriter Chris Terrio on Ending the 42-year ‘Skywalker’ Saga – Awardsdaily, 和訳は引用者による


だからこそ、カイロ・レンがシークエル・トリロジーのラスボスとなるように描かれた『エピソード8』の展開は、今作の製作陣にとっては都合が悪かったのだろう。
よって、ファースト・オーダーの最高指導者であるカイロ・レンが改心しても戦うべき相手が残るように、今作では急遽パルパティーンを復活させたり、ファースト・オーダーの上をいくファイナル・オーダーを作ったりしたのだと推察できる。
そして、ラスボスになるべき存在として確立されていた状態と、カイロ・レンが改心するというエイブラムス氏の当初の構想の間のギャップを埋めるために、今作は非常に駆け足で進行したのだろう。


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レイのファミリーネーム

シークエル・トリロジーにおける最も大きな謎の一つは、レイの出自だったといっても過言ではないだろう。
『エピソード7』時点では、レイのファミリーネームが作中では明かされなかったうえ、訓練を受ける前からフォースの技能を使うことができたため、ファンの間ではレイが誰か既存のキャラクターの子孫ではないのかと様々な憶測が飛び交っていた。
ただ、『エピソード8』では、そのような憶測に反し、レイの両親は「何者でもない」人たちだったことが明かされ、謎が解けたと思われていた。
これにより、オリジナル・トリロジーやプリクエル・トリロジーとは打って変わり、シークエル・トリロジーの主人公はスカイウォーカー一族とは無縁の存在といった設定になった。


個人的には、レイが「何者でもない」という、『エピソード8』が提示した答えは結構好きだった。
というのも、既存の有名なキャラクターたちの血筋から『スター・ウォーズシリーズ』を解放し、「誰でも銀河系を救う物語の中心になれる」ことを描くアプローチが非常に斬新だと感じたからだ。
つまり、『スター・ウォーズシリーズ』が「“選ばれし”スカイウォーカー一族の物語」から「血筋に縛られない物語」へと変わることができた。
このアプローチのおかげで、シークエル・トリロジーの存在意義がメタ的にも見出されたようにも感じられた。


一方で、今作でエイブラムス氏は、実はレイがパルパティーンの孫であることを明かした。
エイブラムス氏が『エピソード7』を製作していた時点で、レイ・パルパティーンの構想が実は『エピソード7』製作当初から既にあったことが推察できる。
コルサント出身の人たちが使うイギリス訛りの英語でレイが話していることや、『エピソード7』で使われた「レイのテーマ」というBGMが『エピソード6』で使われた「帝国軍皇帝」というパルパティーンのBGMに似ていたことが、その証拠だ。
ただ、『エピソード8』でジョンソン氏はそういったエイブラムス氏の構想を引き継ぐことなく、観客の「期待を裏切る」予想外の答えを提示した。
そして、以下のインタビューからも分かる通り、エイブラムス氏はジョンソン氏の『エピソード8』におけるアプローチに懸念を示していたようだ。

Abrams praised “The Last Jedi” for being “full of surprises and subversion and all sorts of bold choices.”
“On the other hand,” he added, “it’s a bit of a meta approach to the story. I don’t think that people go to ‘Star Wars’ to be told, ‘This doesn’t matter.’”

和訳: エイブラムスは、「驚きを与え、既成概念を破壊し、色々な勇敢な選択をした」として『最後のジェダイ』を称賛している。
「ただ、これは物語に対するメタ的なアプローチでもある。人々は、『これは重要じゃないよ』と言われるために『スター・ウォーズ』を観る訳ではないと思う」とも付け加えた。


Will ‘Star Wars’ Stick the Landing? J.J. Abrams Will Try - The New York Times, 和訳は引用者による


だからこそ、レイの出自に関する問題は『エピソード8』で解決されていたはずだったのにもかかわらず、『エピソード9』でエイブラムス氏は、当初の構想を実現させるためにレイに新たな出自を付与したのだろう。
レイが異常なくらいフォースを使い込ませていたことを考えるとレイが史上最も強大なシス卿と血縁的つながりがあることは何ら不自然ではないし、寧ろ『エピソード8』が提示した「何者でもない」という答えより説得力がある。


そして、レイの出自が変わっても、『エピソード8』で描いた「誰でも銀河系を救う物語の中心になれる」という『エピソード8』で描いたテーマに関しても、今作でもしっかりと引き継がれていた印象だ
今作では、自身が「悪」であるパルパティーンと血縁的につながっていることを知ったレイが、ダークサイドへの誘惑を断ち切って「善」のために戦った。
これは、たとえどれほど先祖が「悪」だとしても自分の意思次第で「善」のために戦うことができることを表している。
『エピソード8』のテーマに即しつつ、更に新しい解釈を付与してくれた点では、このアプローチもまた非常に面白い。


また、最終的にレイ・パルパティーンがレイ・スカイウォーカーを名乗ったのは、シリーズ最終作と銘打たれた今作の着地点として非常に理にかなっている
というのも、シリーズの原点を辿ると、やはり『スター・ウォーズシリーズ』はずっとスカイウォーカー一族の物語だったからだ。
『エピソード1』から『エピソード3』は、“選ばれし者”としてクワイ=ガン・ジンやオビワン・ケノービらによってジェダイ騎士へと育て上げられたアナキン・スカイウォーカーが、暗黒卿ダース・ベイダーへと変貌を遂げた経緯を描いた。
そして、『エピソード4』から『エピソード6』は、そんなダース・ベイダーと戦った息子のルーク・スカイウォーカーが、アナキンをライトサイドへと引き戻すまでを描いた。
このように、『スター・ウォーズシリーズ』は「遠い昔、はるか彼方の銀河系」の中でも、スカイウォーカー一族であるアナキンやルークたちが活躍した時代や場所に着目して描いてきた。


ルークやレイア、ベンは全員亡くなってしまったことで、今作の最終シーン時点ではスカイウォーカーの血筋が途絶えてしまっている。
そこで、レイアやルークとの関わりを通して、レイ・パルパティーンが代わりにスカイウォーカー一族の精神を受け継いだ。
「レイ・スカイウォーカー」と名乗る最後のシーンは、スカイウォーカー一族の精神が血筋を超えて継承されたことを表している
血筋にかかわらず自分の生き方は自分自身の意思で決められることを伝える、非常にパワフルなシーンだったと感じる。




ただ、よくよく考えると、レイがスカイウォーカーのファミリーネームを名乗ったことには違和感がある。
というのも、「パルパティーン」のファミリーネームは、暗黒卿のシーヴ・パルパティーンだけでなく、レイの両親との血縁をも表しているものだからだ
『エピソード8』では、レイの両親は、飲み代のためにレイのことを売った飲んだくれとして描かれていた。
一方で、今作では、レイをパルパティーンから守るために「何者でもない」人たちを装い敢えてレイを手放した人たちであったことが明かされた。
今回明かされたレイの両親の真相が本当なのであれば、レイが「パルパティーン」のファミリーネームを捨てたことにより、自分を守ってくれた両親との関係性を捨てたことになった。
そのことに気づいてしまうと、観客側はレイが「レイ・スカイウォーカー」と名乗ったことに首を傾げてしまう。


レイが「何者でもない」と明かされた『エピソード8』の状態と、レイが実はパルパティーン一族であったというエイブラムス氏の当初の構想との間のギャップを埋めるために、レイの両親がレイのことを守ってくれたという設定を後付けする必要があったのだろう。
ただ、レイの両親に関するこの話は、今作の中盤で一回持ち出したきりで、それ以降はまるで登場人物や製作陣がそれを忘れてしまったかのように物語が急速に進行してしまった。
そして、結果的に一つの作品内であるのにもかかわらず整合性が取れない状態を作ってしまった。


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死者の口が開いた!

ジョンソン氏が製作した『エピソード8』では、スノークも倒され、レイの出自を含め『エピソード7』で提示されたほぼ全ての謎が解明された。
これは、エイブラムス氏が思い描いていた物語へと繋げるためには非常に都合が悪い状況だったはずに違いない。
そこで、今作でシーヴ・パルパティーンを復活させることで、その両方の問題を解決しようと試みたのだろう。

よって、シークエル・トリロジーでこれまで暗躍していた黒幕であり、レイの出自を握る鍵としても登場した。


パルパティーンの復活について、エイブラムス氏はとあるインタビューで以下のように語っている。

When did you decide to bring Palpatine back? Was this discussed during The Force Awakens? Or was this more because Snoke is gone?

Well, when you look at this as nine chapters of a story, perhaps the weirder thing would be if Palpatine didn’t return. You just look at what he talks about, who he is, how important he is, what the story is — strangely, his absence entirely from the third trilogy would be conspicuous. It would be very weird. That’s not to say there was a bible and we knew what happens at every step. But when Larry Kasdan and I worked on The Force Awakens, we didn’t do it in a vacuum. We very purposely looked at what came before. We chose to tell a story that touches upon specific things and themes and ideas that we’ve seen before, to begin a new story. But we examined all that came before to ask where does this feel like it’s going?
So there were discussions about that at the time.

和訳: パルパティーンを復活させることはいつ決めたのですか?これは『フォースの覚醒』から考えられていたことですか?それとも、スノークがいなくなったから復活させたのですか?

9章で構成された一つの物語として見たとき、パルパティーンが戻ってこなかった方がおかしい。パルパティーンが何を考え、誰であり、どれほど重要な存在で、この物語そのものが何であるかを鑑みると、シークエル・トリロジーに彼が全くいないのはおかしい。いないとかなり不自然になるだろう。ある決定的な物語があり、何が起こるかを全て分かりきっていったとまでは言わない。だが、私とラリー・カスダンが『フォースの覚醒』を制作していたとき、私たちは別に隔絶された状態でやっていたわけではない。私たちは、それまでの作品を検討していった。新しい物語を始めるために、私たちは以前見たことがあるような特定の物事やテーマ、アイディアを扱う物語を描くことにした。だが、我々はそれまでの作品を分析し、この物語はどこへ向かいそうかを考えていった。
だから、それ (パルパティーンの復活) についてはその時から検討していた。


JJ Abrams Interview: ‘The Rise of Skywalker’ And Return Of Palpatine, 和訳は引用者による


考えてみれば、パルパティーンがラスボスになる展開は割と理に適っている。
というのも、『スター・ウォーズシリーズ』は、スカイウォーカー一族の物語であるのと同時に、パルパティーンの物語でもあるからだ。
『エピソード4』から『エピソード6』のオリジナル・トリロジーは暗黒卿の最高権力者としてのパルパティーンの君臨と転落を描き、『エピソード1』から『エピソード3』のプリクエル・トリロジーはパルパティーンが銀河皇帝へと登り詰める様を描いた。
ルークやアナキンらほどの出番はなかったものの、常に『スター・ウォーズ』の戦いの根幹にいたパルパティーンの存在感は確かなものだった。


ただ、シークエル・トリロジーにおいてもパルパティーンが最後の敵として君臨したことに、やはり唐突感は否めない
そもそも、『エピソード6』でアナキンが犠牲となってパルパティーンを倒したはずなのに、なぜ今作では復活しているのかが説明されていない。
それどころか、パルパティーンの復活が今作のオープニングクロールの説明でいきなり明かされたことに非常に驚いた。
実はカイロ・レンの脳内の声はパルパティーンの仕業だったと明かしたりして、何とかパルパティーンをシークエル・トリロジーの本筋ににねじ込もうとする努力は見えた。
だが、『エピソード7』や『エピソード8』でパルパティーンの暗躍を示唆せず、今作でもパルパティーンの復活をほとんど描かずに急ぎ足で物語を進めた。


結果的には、エイブラムス氏が思い通りのシナリオを描くために急遽復活させられたように見えて仕方がなかった。
実は、『ジュラシック・ワールド』なども監督したコリン・トレベロウ氏が当初今作の監督になる予定だったが、ルーカスフィルムの首脳陣とは「異なるビジョン」を持っていたため、2017年9月に降板が発表された*1
そんなトレベロウ氏は、以下のインタビューでこのように述べていた。

"Bringing back the Emperor was an idea JJ brought to the table when he came on board," Trevorrow says. "It’s honestly something I never considered. I commend him for it. This was a tough story to unlock, and he found the key."

和訳: 「皇帝の復活は、エイブラムスが抜擢された時に彼が出したアイデアだ。私はそれまでそのアイデアを検討したこともなかったので、彼のことを称賛したい。解くことが困難な問題に対する答えを彼が見つけたのだ。」


Star Wars: Colin Trevorrow On His Rise Of Skywalker Writing Credit And His Last Jedi Contribution – Exclusive | Movies | Empire, 和訳は引用者による

つまり、『エピソード8』の撮影が終了した2016年7月*2時点では、パルパティーンの復活まだ予定されていなかったことが分かる。
よって、今作でどうにか物語を綺麗に終わらせるために、エイブラムス氏が急遽パルパティーンの復活を決定したことが推察できるため、唐突に見えるのもある意味当然だ。


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結論

『スター・ウォーズシリーズ』ほどの知名度と人気が高いシリーズに、世界中の人々が納得するエンディングを作ることほど困難なことはなかったに違いない。
特に、前作『エピソード8』の評判が芳しくなかっただけに、エイブラムス氏はかなりのプレッシャーを感じていただろう。


そんな中、『スター・ウォーズシリーズ』の普遍的なテーマをしっかりと尊重しつつ、今日の世の中に合わせた新たなテーマをブレることなく一貫して描いた点においては、私はシークエル・トリロジーや今作に感謝を示したい。
テーマ的な部分に関しては、恐らくエイブラムス氏とジョンソン氏の間ではしっかりと引き継がれていたことが見て分かる。
そして、私自身もこのトリロジーを観終わった頃には描かれたテーマに非常に納得できた。


だが、シークエル・トリロジーの筋運びに関しては一貫性はなく、それが特に今作で露わになっている。
私はやはり、本筋に関して明確な計画がないままリレー形式で次作の監督や脚本家に物語の続きを委ねるといった、シークエル・トリロジーの製作体制に問題があった感じる
ジョンソン氏によって残された『エピソード8』後の状態と、エイブラムス氏が思い描いていたシークエル・トリロジーの筋運びの構想との間に大きなギャップがあったのだろう。
そして、その大きなギャップをたった一本の映画で埋める必要があったため、今作に急な展開が多いと感じてしまったのだろう


ルーカスフィルムに、二人の監督のゴールに対する認識を統一するリーダーシップがあれば、もう少しスムーズな筋運びになっていたのかもしれない。
『スター・ウォーズシリーズ』が大好きで、今作のことも待望していた一ファンとして、そこが残念で仕方がない。




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