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感想『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』はなぜ天才的に構成されたミステリーなのか

2020年1月に、ライアン・ジョンソン監督による映画『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』が公開された。
ジョンソン氏といえば、世界中のスター・ウォーズファンの間で賛否両論を呼んだ『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』の監督及び脚本家をも務めた。
今作でもジョンソン氏は、監督を務めながら、原作などが存在しない完全にオリジナルの脚本を執筆した。
2017年に公開された『オリエント急行殺人事件』などの近年製作された多くのミステリー映画には原作があり、展開や結末について予め知った状態で観てしまった。
なので、どうなるのかが分からずで観るミステリー映画は、私にとっては結構久しぶりだった。


そして、私は今作を初めて観た時に様々な急展開にかなり驚かされつつ、純粋に一本の映画として楽しめた。
それは、従来のフーダニットに意外な捻りを加えたジョンソン氏の天才的な構成力のおかげだったと私は強く感じた。


この記事では、今作がどのように見事に構成されたミステリー映画なのかを、私の感想を交えながら考察していきたい。
言うまでもないが、勿論ネタバレは含まれているので、記事を読む際は注意していただきたい。


ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密(字幕版)


この記事には、映画『ナイブズ・アウト / 名探偵と刃の館の秘密』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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フーダニットの弊害

今作は、とある犯罪事件において「誰が犯人なのか」を探偵と一緒に推理する作品のジャンルである「フーダニット (whodunit)」に分類される。
風変わりな探偵が登場し、カントリーハウスを舞台にした謎を解き、最後に意外な犯人が暴かれる、といったフーダニットの基本フォーマットが確立されている。


ただ、フーダニットの構成は最後の答え合わせに向かって物語が進行していくため、観客が感情的に物語に入り込むことができないような構造になっている、という欠点がある。
探偵と一緒に事件の真相を推理していく快感や最後の答え合わせによる満足感などの感情はたしかに味わえる。
だが、観客はどうしても傍観者として事件の様子を眺めながら最後の答え合わせを待ち構えてしまうため、真の意味で感情的に物語に入り込むことができない。
これについては、ジョンソン氏がとあるインタビューで以下のように語っている。

But I do kind of fundamentally agree with Hitchcock's take on the genre, which was that it is all based on a surprise at the end, which is kind of the cheapest coin. He was very much a proponent of suspense as opposed to mystery. And there is something about the way that that, as an engine, drives a movie that I do agree with. Different kinds of mysteries have attempted this in different ways, and Agatha Christie would always put some different engine, other than just whodunnit, into each of her books. The challenge is basically creating a compelling story so you are not just waiting for the reveal at the end. So that you are actually caught up in something emotionally.

和訳: ただ、フーダニットというジャンルが最後のサプライズありきだというヒッチコックの考えに私は根本的には同意している。彼はミステリーよりもサスペンスを支持していた。そしてそのサスペンス要素がエンジンとなり映画を動かすことにも私は同意する。色んなミステリーがこれを様々な方法で試みてきて、アガサー・クリスティーなんかは自身が執筆した本に必ずフーダニット以外のエンジンを入れていた。観客が最後の謎解きを待ち望むだけにならないような、そして、感情的に何かにハマっていられるような感心できる物語を作ることがチャレンジだった。


‘Knives Out’ Director Rian Johnson on Tackling a Whodunnit – The Hollywood Reporter, 和訳は引用者による

つまり、フーダニットというジャンルの中で観客が感情的に物語に入り込むことができる作品を作ることが、今作を制作するうえでのジョンソン氏の課題だったと考えることができる。


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純粋なマルタ

前述したようなフーダニットの弊害を克服するべく、ジョンソン氏は「誰が犯人なのか」の答え合わせを今作の中盤に持ってきた
しかも、マルタが間違った薬を投与してしまったせいでハーランの命を奪ってしまい、その犯行を隠すためにハーランと一緒に隠蔽しようとした、という真相にブランより先に我々観客が辿り着くという、フーダニットにしては非常に特殊な展開になった。
我々観客は意外にも早い段階で答えを知ってしまった (と思い込んでいる) ため、以後誰が犯人なのかを謎解きをする必要がなくなる。
勿論、「誰がブランに著名で依頼したのか」という謎は依然と残ったままではあるが、この段階では「誰が犯人なのか」という問題は既に解決していたかのように思われる。


そして今度は、 「嘘をつくと吐いてしまう」マルタが自身の犯行をブランや刑事らから隠蔽する姿をハラハラしながら応援することに観客の意識が自然と向くようになっている
このようにマルタに感情移入できるのは、マルタが本当に良心的で純粋な人間であることを我々が知っているからだ。
「嘘をつくと吐いてしまう」症状はユーモラスな設定ではあるが、正にマルタの純粋さの象徴にもなっている。
また、ハーランのことを本気で心配するマルタの姿もそうだし、マルタのことを庇うためにハーランが隠蔽工作に加担するほどマルタがいい娘であることも、事件の回想から我々に伝わっていた。
だからこそ、自分の車が写っている防犯カメラの映像が流れるのを阻止しようとしたり、泥に残っていた足跡をブランの目の前で消そうとしたり、証拠品をブランが見ていない隙に投げて隠滅しようとしたりするマルタの様子は滑稽でありながらも可愛らしく思えたし、我々は応援したくなった。
このように今作は、「誰が犯人なのか」を探偵と共に推理することが醍醐味の従来のフーダニットとは真逆で、「誰が犯人なのか」を探偵に知られて欲しくない、という感情を観客に芽生えさせる




尚且つ、答え合わせを中盤に持ってきたことで、従来のフーダニットにある「謎解きのワクワク感」を新鮮な形で提供することに成功したとも感じる。
というのも、事件の全貌を分かり切ったと我々が油断しているところに、事件には裏があることが明らかになるからだ。
つまり、フーダニットが解決されたと思い込んでいたところに、新たなフーダニットが再び浮かび上がる


一つ目の新たなフーダニットは、「I know what you did」と書かれた手紙をマルタの家に送ったのは誰か、といった謎だ。
そして二つ目の新たなフーダニットは、手紙の送り主であった家政婦のフランの命を奪おうとしたのは誰か、といった謎だ。
我々は犯人であるマルタ視点でこれまで物語を観てきたため、これらのフーダニットに対するマルタの驚きやハラハラ感を追体験することができる
尚且つ、我々が応援しているマルタがもしかすると犯人ではない可能性も浮上するため、余計に新たなフーダニットを解明したい気持ちがそそられる


中盤に一度答え合わせを持ってきて我々を油断させることで、その後に浮き上がった新たなフーダニットをより新鮮に感じさせてくれたことに、私は非常に感心した。




犯人であるマルタに感情移入ができるような構成にすることで、観客が物語に入り込むことができるようなフーダニット作品に仕上げたことが、今作の秀逸な点だと感じた。

自分勝手で排他的な家族

そして、ハーランに親身になっていた利他的なマルタとは対照的に描かれていたのが、ハーランの家族だ。


フーダニットの真犯人であったランサムは勿論、“クソ”である。
葬式には出席しなかったのにもかかわらずハーランの遺言書の開封に出席したことこそが、その自分勝手な性格を正に表している。
更には、マルタの「嘘をつくと吐いてしまう」症状を利用して色々と聞き出したり、そもそもマルタにハーランの事件の罪を着せようとしたりと、非常にタチの悪い人間であることが我々にも伝わる。
だからこそ、真犯人がランサムであることが発覚したときに、犯人が分かった驚きとともに、“クズ”が負けたことにどこか清々しさを感じることができた。


一方で、ランサム以外のスロンビー家のみんなも、実は決して性格が良くはない。
“クソ”なランサムが家族みんなのことを“クソ”と連呼した例のシーンがそれを象徴する。
そんな彼らの醜い様が、話が進んでいくとともにますます露呈していくのが非常に面白い。


ブランの捜査で証言しているときにスロンビー家は自身が自立した成功者であることを度々強調するが、証言の最中に差し込まれる回想を通して、彼らの証言がウソであることが判明する。
リチャードが浮気がハーランにバレてそのことを妻に明かすと言われていたこと、ハーランがメーガンの学費を着服していたことがハーランにバレて援助を打ち切られたこと、ウォルターがハーランによって出版社からクビになると告げられていたこと。
実は、彼らは全然自立した人間ではなく、ハーランが築いた成功や財産を利用して自分勝手に生きる人たちだったことが分かる。


そして、スロンビー家の身勝手さは、彼らが移民問題について語るとあるシーンでも露呈する。
そのシーンで、アメリカ国籍を手に入れることがどれほど難しいことかについて無知なリチャードは、移民たちはアメリカへ合法的な手段で入国する必要があると主張する。
それに対してジョニは、移民の子供たちが檻に入れられている現状を嘆く。
だが、皮肉なことに、リチャードはハーランのおかげで会社を持って生活ができているし、ジョニはハーランが渡してくれる子供の学費を着服して生活している。
つまり、この二人の生き方は自分たちの政治的主張とは完全に矛盾していて、その主張がただの薄っぺらい綺麗事であることが分かる。


また、スロンビー家のマルタに対する接し方からも、その身勝手さは伝わってくる。
例えば、まるでマルタが召使いであるかのように、リチャードが食べ終わった空いた皿をマルタに手渡すシーンがある。
マルタがエクアドル人、パラグアイ人、ウルグアイ人、ブラジル人のどれであるのかを誰も覚えていないことからも、南アメリカが全部一緒であると思い込んでいる彼らの無関心さを表している。
口ではマルタのことを「家族同然」と言いながらも、実はマルタがスロンビー家にとってはどうでもいい存在であることが分かる。


そんな彼らのチラチラと見え隠れしていた本性は、スロンビー家の特権的ステータスが揺さぶられたときに完全に露呈する。
ハーランの莫大な遺産を、家族である彼らではなくマルタが全て相続することを知ったシーンで、スロンビー家は揃ってマルタに対して卑劣な言葉を投げかける。
余裕がなくなったからこそ、綺麗事や偽の優しさで取り繕うことをやめ、マルタのことを外敵とみなすようになる。


このスロンビー家の姿は、正に現在の一部のアメリカ国民の移民に対する姿勢を映し出している。
キャプテン・アメリカ役で知られているクリス・エヴァンズが演じるランサムが、移民であるマルタの命を奪おうとして失敗したシーンなんかは正に、アメリカの白人が移民に刃を向けるという構図になるように狙って演出されている。

だから、今作におけるスロンビー家は、現代社会に対する風刺であるとも見なすことができる。


そんな風刺を盛り込みながらも、スロンビー家の自分勝手で排他的な性格を絶妙なバランス感で描くことで、我々がスロンビー家のことを嫌いになるように見事に構成されている。
そして、スロンビー家から敵視されたり排除されたりと散々な目に遭っているマルタのことを、逆にますます応援できるようになっている。




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結論

フーダニット作品を鑑賞している側の人間は、作品の登場人物に感情移入することよりも、どうしても謎解きを優先させてしまいがちだ。
そんな中、観客が物語に感情的に入り込むことができるような筋運びでフーダニットを描いたことが、今作の一番素敵なところだと私は感じた。


中盤にフーダニットの答え合わせを持ってきたり、「嘘をつくと吐いてしまう」症状を患わせたりすることで、マルタのことを我々は自然と応援できた。
また、スロンビー家の“クソ”さを、彼らの政治的主張などを絡めた会話やマルタに対するさり気ない接し方を通して見事に表現したことで、スロンビー家のことを嫌いになりつつ、マルタのことをますます応援したくなった。
そして、更に、マルタのことを応援していたからこそ、最後に真犯人が明かされたときにカタルシスを感じることができた。


このようにフーダニットで感情移入させることは決して簡単なことではないし、ジョンソン氏が非常に巧妙に構成を練ったからこそ得られた効果だと感じる。
元々ジョンソン氏は「視聴者の期待を超える」ことに非常に執着している監督だ。
これは『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』では特に顕著だったと感じる。
ジャンルの限界を超えて我々観客の期待を超え、ハラハラとワクワクで溢れる作品ができあがったのは、そんなジョンソン氏の執念が今作でも活きたからこそだったのかもしれない。




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