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仮面ライダー・映画・音楽に関する感想と考察。

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感想 『テセウスの船 (テレビドラマ)』の黒幕の正体がなぜ腑に落ちなかったのか

2020年冬にTBSの「日曜劇場」で放映された『テセウスの船』は、東元俊哉さんによる同じ題名の漫画を実写化したテレビドラマだ。
今をときめく竹内涼真さんを主演に据え、鈴木亮平さん、榮倉奈々さん、貫地谷しほりさん、上野樹里さんなどによる豪華キャストが、このミステリードラマを盛り上げていった。
『仮面ライダードライブ』の頃からずっと竹内さんのファンである私も、竹内さんの新たな姿が見られることを嬉しく思い、今作をリアルタイムで完走した。


そして、今作がミステリードラマであるからこそ、「犯人とその共犯者 (黒幕) は誰か」という謎がやはり今作の視聴者の関心を最も惹きつける内容である。
ドラマ自体は非常に楽しんで観ていたが、私が一視聴者として、なぜ黒幕の正体に納得ができなかったのかを、この記事では私の感想を交えながら説明していきたい。


私が原作漫画を読んでいないことに関してはまずご理解いただきたい。
また、テレビドラマや原作漫画に関するネタバレもあることに留意していただきたい。


テセウスの船(1) (モーニングコミックス)


この記事には、テレビドラマ『テセウスの船』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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時代を超えた家族愛

平成元年に21人の児童と教職員が命を落とした「音臼小無差別殺人事件」が発生し、その犯人として佐野文吾が逮捕された。
そんな文吾の家族である和子、鈴、慎吾、心は、現代では「殺人犯の家族」としてマスコミなどから追い詰められ、文吾が家族ではないと自分たちに言い聞かせながら暮らしていた。


第1話の冒頭における2020年の心は、家族を不幸に陥れたと思っていた父の佐野文吾のことを恨んでいた。
それが、タイムスリップをして音臼小事件が起こる前の佐野文吾と関わっていくなかで、それまでは知らなかった父の新たな一面が見えてくる。
そして、次第に心は父のことを信じるようになり、父が冤罪をかけられたことを確信する。
また、事件が起こる前は和子たちがどれだけ笑顔で暮らしているかを知り、佐野文吾の冤罪を晴らすことでそんな佐野家の平和な暮らしを取り戻したいと思うようになる。
それが動機となり心は、音臼小事件の発生を阻止しつつ、事件の真相究明に努める。


父と子供たちが家でプロレスごっこで盛り上がったり、記念すべき日にカニラーメンを食べたりと、佐野家の平和な日常に関する描写が、過去が描かれる回ではほぼ毎話しっかりと丁寧に描写されていた。
そんな日常を我々視聴者が観てきたからこそ、家族の未来を守りたいという心の思いに共感することができた。
そういう意味では、今作が映画ではなく、10話以上にわたって家族愛を描写できるテレビドラマで展開したことは正解だったと感じる。


また、佐野文吾と田村心の言動の至るところから、二人の間の時代を超えた“絆”が感じられる。
文吾のことを混乱させたくないからこそ、心は、自分が未来から来た息子であることや、未来で文吾が殺人犯の容疑をかけられて逮捕されることを隠したり。
お互いを危険な目に遭わせたくないからこそ、青酸カリが入っているかもしれないはっと汁を飲むなど、単独で危険な行動に出たり。
そして、自分の無実を信じてくれた心のためにこそ、文吾は、最後に正志の命を奪うことを躊躇したり。
二人がお互いのことを思いやっていることが、それぞれの言動を大きく左右する。
個人的には、ときには二人の不器用さにフラストレーションを感じることもあったが、一貫してお互いのことを思うが故の言動だったので納得はできた。


また、それらの言動のおかげで、家族全員揃って平和に笑って暮らせる未来に変わるという、今作の結末を迎えることができた。
2020年の心が平成元年に干渉した影響で佐野家の未来が完全に変わる、というところが今作のタイトル「テセウスの船」に繋がっているところからも、今作は常に「佐野家の家族愛」を物語の主軸に据えていたことが分かる。

タイトルの「テセウスの船」とは、ギリシャ神話がモチーフとなったパラドックス(逆説)のこと。 英雄・テセウスの船を後世に残すために朽ちた部品が全て新品に交換されることで、“この船は、同じ船と言えるのか?”という矛盾を問題提起するエピソードである。過去を変えても、未来の家族は同じと言えるのかという難しい課題に、主人公は挑んでいく。


はじめに|TBSテレビ:日曜劇場「テセウスの船」


そんな佐野家の家族愛に説得力があり、それぞれの言動の動機が家族愛によるものであると視聴者が理解できたからこそ、今作は非常に魅力的な作品になったと感じる。


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不可解な少年

音臼小事件やそれまでの連続事件を起こした犯人を探し出すことが、文吾の冤罪を晴らすための大きな課題として心に課せられた。
そんな犯人は、劇中で不気味な絵が度々登場したり、子供すらも容赦なく無差別に命を奪ったり、ワープロの日記から愉快犯であることが分かったりと、とにかく不可解な存在として描かれた。
その言動を辿っていくと、犯人の動機が視聴者には全く理解できない


結局、一連の事件の犯人が、1989年の頃はたったの5年生であった音臼小学校の加藤みきおであったことが明かされた。
たしかに、残虐で非道な一連の事件が無邪気そうな少年の所作であったことは、私含め多くの人にとっては意外性のある展開だ。
劇中の登場人物すらにとっても、子供の仕業であることは信じ難い事実だったことが描かれている。


だが、みきおの動機や心境を掘り下げていけばいくほど、それまでの連続事件の不可解な犯人像と一致していることが分かる。


みきおが佐野文吾に冤罪を着せた動機が、佐野鈴にとっての“正義の味方“である佐野文吾を排除することによって鈴にとっての唯一の“正義の味方”になるためことだったと、最終話で明かされる。
みきおは幼い頃に親を亡くしていたことが判明するが、愛する家族の未来のために行動する文吾や心とは鏡像関係になっている。
そして、みきおは家族愛を知らないからこそ、愛情欲求が歪んでしまったことが推測できる。
また、子供というのは未熟であるが故に予測不能な存在であるからこそ、「唯一の“正義の味方“になる」といった目的を果たすために無差別に人の命を奪う、という不可解な考えに辿り着いたのかもしれない。
このように、歪んだ愛情欲求と未熟な思考の持ち主であるみきおは、連続事件の不可解な犯人像と一致し、事件の不可解さも割と腑に落ちてしまう


そして、犯人がみきおだと判明した第7話以降の解決編で、みきおの狡猾さが顕になる。
例えば、和子に毒入りのスープを飲ませようとしたり、音臼小事件当日が間近になると突然姿を消したりして、未来ノートに書かれていなかったような出来事を起こして心たちを混乱させる。
更には、自身が子供であるが故に村民からは犯人として疑われないことをいいことに、純粋無垢な子供であるかのように振る舞い、心や文吾が村民から警戒されるように仕向ける。
みきおの言動から賢さが垣間見えるため、それまでの連続事件をバレずに実行してきた犯人の正体としての説得力もある


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意外な黒幕

原作漫画でもみきおが犯人であることはドラマと共通しているが、みきおの共犯者に関してはドラマのオリジナル展開である。


そもそも、今作のようなミステリー作品をドラマで展開する大きなメリットとして、SNS等で視聴者が登場人物と一緒に考察や推理をしていくことで盛り上げることができる、といった特徴がある。
『3年A組 ー今から皆さんは、人質ですー』や『あなたの番です』
といった近頃盛り上がりを見せていたミステリードラマは、どれも原作がないオリジナル脚本だったため、この特性が非常に上手いこと活かされたと感じる。


一方で、今作には原作漫画があるため、既に物語の展開や犯人が原作を読んだ人たちには知られている。
よって、第2話が放映された段階で、ドラマの“真犯人”が原作とは違う旨を明かしたことで、今作は視聴者の関心を戦略的に惹きつけた。


結局、田中正志がみきおの共犯者であり、今作の黒幕であることが最終話にて明かされた。
田中正志がみきおに協力した動機は、キノコ汁に誤って毒キノコを入れてしまった音臼村祭事件の犯人として母親のことを逮捕し、自身の家族をバラバラにする原因となった佐野文吾への復讐だ。


親がお祭りの汁に毒物を入れた疑惑で逮捕され、その影響で家族がバラバラになり子供が悲劇的な人生を送る、という田中家の境遇は、2020年の佐野家と非常に似ている。
父ではなく母で、音臼小のお楽しみ会ではなく音臼村祭で、はっと汁ではなくキノコ汁である、といった違いがあるくらいだ。
そこまで言及はされていないが、恐らく正志は文吾に敢えて自分の母親と同じような罪を着せることで、佐野家を自分の家族と同じ目に遭わせようとしたことが推察できる。


どこからどこまでがみきおの単独行動で、どこからどこまで正志が加担していたのかは、結局最後まで明かされない。
ただ、音臼小事件を音臼村祭に敢えて似せたのであれば、音臼小事件においても正志はみきおと少なくとも共犯関係にあったことは間違いない。


無差別に罪なき子供たちの命を奪うような行動は、非常に不可解だ。
一方で、今作は、佐野家を通して家族愛が動機の根本にあるような言動に我々視聴者は理解を示すような作りになっている。
よって、愛する家族を崩壊させた文吾への復讐を動機とする正志には、その行為に賛同するかどうかは別として、我々は多少理解を示すことができるようになってしまっている。
最終話で、正志が抱いていた家族を救えなかった苦しみに気づけなかったことに対して文吾が正志に謝っていることからも、正志の動機は理解できるものとして製作陣が意図的に描いていることが分かる。


よって、我々が理解することができない無差別殺人事件の犯人像と、心境が理解できてしまう正志の人物像の間にはどうしても乖離が生じているように感じてしまった
たとえ正志があくまでもみきおを利用していたに過ぎないのだとしても、本当に愛する家族のために無差別に子供たちの命を奪う事件に加担してしまったのか、という疑問が浮かぶ。
つまり、家族のための復讐は、これほど残虐で非道な一連の事件を起こす動機として非常に違和感があるように思えた。
だからこそ、テレビドラマ版の黒幕の正体は腑に落ちなかった。


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結論

今作は、タイムスリップという非現実的な設定を用いながらも、佐野家の家族愛を絶妙なリアリティで巧妙に描くことに成功したと感じる。
そのため、佐野家の家族愛に多くの視聴者が理解を示し、心を響かされた。
このように、とある家族の家族愛の物語に視聴者が純粋に理解を示し、没頭できるように作られたことが今作の非常に素敵なところであると感じた。


だからこそ、不可解な一連の事件を起こした黒幕の動機が、家族愛に裏付けられたことに違和感を覚えざるを得なかった。
残虐で非道な事件なのでその動機が理解し難いものであるはずな
のにもかかわらず、まるで黒幕に同情するように作られているように感じてしまった。
その微妙な乖離があったからこそ、正志が犯人であることに私は正直あまり納得できなかった。


キャストやスタッフの尽力のおかげで印象に残った名シーンや台詞が多かっただけに、ミステリーの肝でもある黒幕の正体に関しては納得ができなかった点が非常に惜しい。




あなたがいることで

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日向坂46『立ち漕ぎ』ロケ地巡りの旅 in 沖縄

2019年に、日向坂46の1st写真集『立ち漕ぎ』が発売された。
沖縄で撮影されたこの写真集は、まさに修学旅行のような青春を彷彿とさせる素敵な作品だ。
そんな写真集の撮影地に、2020年1月に行ってきたので、その旅をこの記事で振り返っていきたい。
普通に2泊3日の旅行のモデルプランとしても成立するので、是非この記事を沖縄を満喫するうえで参考にして欲しい。


日向坂46ファースト写真集 立ち漕ぎ


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本部町営市場

沖縄県の北部にある本部町には、「本部町営市場」といった小さな公設市場がある。

ここが、小坂さん・河田さん・金村さん・上村さん・濱岸さんの5人が制服姿で撮影を行なっていた市場だ。




市場の中を少し歩くと、「カツオベンチ」といった可愛いカツオ型のベンチがある。

メンバーもこのベンチの後ろで写真に立って撮影を行なっている。


ちなみに、カツオベンチの公式ツイッターなるものによると、小坂らが来た時はどうやら寝ていたようだ。


このカツオベンチのカツオは、本部町の町の魚でもある。
なので、本部町に来たら、カツオを堪能するのもいいだろう。
ロケ地ではなかったが、カツオベンチのすぐそばに「岸本食堂」という有名な沖縄そば屋さんがあるので、食べてみるといいだろう。

お昼時は必ずと言っていいほど並ぶので、時間には余裕を持って行こう。



本部市場通りを進んでいくと、「本部市場通り」の青い看板が見える。

この看板の前でも、メンバーが笑顔で整列する写真が撮影された。

看板の前に駐車している車が多いため、この写真を再現するのは意外と難しいかもしれない。




市場通りには、「仲宗根ストアー」というローカルなコンビニのようなお店がある。

店内にはサーターアンダギーや沖縄ならではの弁当などが多数並んでいる。
写真集では、メンバーが各々好きな食べ物をこのお店で買っていた。




写真集でも印象的だったこの場所も、本部町営市場にある。

台北、上海、香港、ソウルなどの海外の都市よりも東京の方が離れていることが結構驚きだ。




また、この市場には景色を一望できる屋上がある。

写真集では、この屋上で仲宗根ストアーで買った食べ物をメンバーが食べていた。

ウチナータイムが感じられる非常に長閑な市場の時の流れを、この屋上から眺めるのも素敵だ。




この市場から少し離れたところに、実は写真集のもう一つの撮影地がある。
219号線を渡久地交差点方面に歩くと、渡久地交番が見えてくる。
この交番に、インスタ映えしそうな青い壁がある。

写真集には、この壁によじ登るメンバーの写真があった。
この壁ではしゃぐメンバーの可愛い動画も写真集の公式Twitterに上がっている。



アラマハイナ コンドホテル

本部町には、「アラマハイナ コンドホテル」というロングステイ対応の豪華なホテルがある。
美ら海水族館のすぐそばにあるので、本部町営市場に行った後に水族館に行くのもいいだろう。
ホテルの正面には「オキナワ ハナサキマルシェ」という商業施設があり、お洒落なスターバックスがあるので、ホテル近辺でも充実した時間を過ごせる。


写真集にはホテルで撮影した写真はないが、実はこのホテルにメンバーたちが泊まっていたようだ


新しいホテルなので非常に綺麗な部屋だし、長期滞在を想定したコンドミニアムスタイルなので広々とした空間だ。

キッチンもあるので、ホテルの部屋の中で簡単な料理もできる。




ベッドルームはダイニングやキッチンと分かれているので、本当に家のような空間だ。

ベッドの上にある黒い円柱のクッションが、メンバーのブログや写真集の公式Twitterの写真に映り込んでいた。


ベッドルームのこの空間に入り込む河田陽菜さんの写真が、写真集の公式Twitterに投稿されていた。




ちなみに、このホテルは全室がオーシャンビューで、バルコニーからは真っ青な沖縄の海が眺められる。

このバルコニーにいる高本彩さんの写真も、写真集の公式Twitterに掲載されていた。


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フェリー「ぐすく」

沖縄にはたくさんの離島があるが、その中でも伊江島は、沖縄本島の本部港からフェリーで約30分と非常に近いのでアクセスしやすい離島だ。
本部港と伊江港の間では、「いえしま」と「ぐすく」という二隻のフェリーが運行している。

メンバーは、「ぐすく」の方のフェリーで写真集の撮影をしたようだ


カーフェリーなので、車と一緒に乗客は船に乗り込む。

ここに写るメンバーの写真が公式Twitterに掲載されている。


定員700名の非常に大きくて広いフェリーなので、フェリーの中で過ごす時間も結構楽しめるだろう。


メンバーはこの辺りのデッキ部分ではしゃいでいたのだろう。



GIビーチ

伊江島に着くと、長閑な離島の景色が広がっている。
そこで是非行っておきたいのが、写真集の表紙の撮影地ともなった「GIビーチ」というビーチだ

まさにこの辺りの砂浜に日向坂46のメンバーがいたのだろう。


このGIビーチは、海が非常に透き通っていて真っ青だ。
伊江島といえばやはり伊江ビーチが有名だが、こちらのビーチは大自然に囲まれ、観光化していないビーチなので、結構な穴場だ。


ちなみに、帰りのフェリーの最終便は伊江島を16時に出発するので、乗り遅れには注意しないといけない。


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ハイアット リージェンシー 瀬良垣アイランド 沖縄

伊江島や本部町の南にある恩納村に、「ハイアット リージェンシー 瀬良垣アイランド 沖縄」というホテルがある。
瀬良垣島という島全体がリゾートになっていて、非常に贅沢な場所だ。
そして、写真集の撮影の間、このホテルにもメンバーは泊まっていたようだ


公式Twitterに掲載された佐々木美玲さん、井口さん、潮さん、高瀬さんが写る写真の背景に、ホテルのこの看板が映り込んでいる。


離島全体がリゾートになっていることもあり、敷地内にはプライベートビーチがある。




また、部屋の中も非常に広く、かなり贅沢で非日常的な空間が広がっている。


部屋にあるバルコニーからも、瀬良垣の綺麗な海を眺めることができる。

部屋は違うので景色も違うが、金村さんのブログにもこのバルコニーから撮った景色が載せられている。

ハワイアンパンケーキハウス パニラニ

ハイアットから歩いて直ぐのところに、沖縄の中でもかなり有名な「ハワイアンパンケーキハウス パニラニ」というパンケーキ屋さんがある。
佐々木美玲さん、井口さん、潮さん、高瀬さんの4人も、ホテルに泊まっているときにこちらのパンケーキ屋さんに行ったようだ


私は一番人気の「ナッツナッツパンケーキ」を注文して食べた。

ナッツたっぷりのソースが非常に濃厚で、パンケーキ自体もほどよくふわふわだったので、非常に美味しかった。


どうやら、潮さんと佐々木美玲さんも同じパンケーキを食べたようだ。


ハイアットに泊まったら、朝食を食べにここに来るのもいいだろう。
ただ、かなり注目を集めているお店だからか、朝は特に並ぶので、時間に余裕を持って来たほうがいいだろう。


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最後に

せっかく沖縄に来るなら、やはり海や自然、そしてグルメを思う存分楽しみたい。
『立ち漕ぎ』は修学旅行をイメージした写真集なので、この写真集のロケ地巡りは観光に非常に適している。


機会があれば是非、当記事を参考にしながら沖縄を満喫してみてください。




感想『仮面ライダー電王』はなぜシリーズ史上最大の分岐点となったのか

『仮面ライダー電王』は、『平成仮面ライダーシリーズ』の8作目として、2007年から2008年まで放送された作品だ。


前作『仮面ライダーカブト』までは、『平成仮面ライダーシリーズ』はコンテンツとして非常に不安定で、いつシリーズが終わってもおかしくない状態にあった。
例えば、以下のページに掲載されてある表を見て分かる通り、『仮面ライダーカブト』までは玩具の売上は衰退する一方だった。

それが、今作の成功がきっかけで勢いを取り戻すことができて、『平成仮面ライダーシリーズ』が20年も続く長寿番組になっていった。


また、10年以上も前の作品だが、今作は数多くのファンから今でも愛されている。
私も、小学生の頃に今作に出会い、それがきっかけで『平成仮面ライダーシリーズ』のファンになった。
そして、大人になった今でも年に一回は観るほど好きな作品だ。
勿論、私以外のたくさんのファンを生み、根強い人気を博した。


更に、今作の成功は後年の作品に多大なる影響をもたらすこととなった。
シリーズ全体を俯瞰したときに今作が非常に重要な立ち位置にあったことが、『平成仮面ライダーシリーズ』の歴史を振り返ると分かる。
ということで、この記事では、なぜシリーズに大きな影響をもたらすことができたのかと、具体的にシリーズにどのような影響をもたらしたのかを探求していきたい。


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この記事には、『仮面ライダー電王』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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“仮面”と“ライダー”の再検討

『仮面ライダー電王』は、シリーズの基礎である“仮面”と“ライダー”という二つの要素を再検討することで、「仮面ライダー」に対する新しいアプローチを試みた
今作のチーフプロデューサーを務めた白倉伸一郎氏は、とあるインタビューで以下のように述べている。

白倉「『仮面』と『ライダー』ですね。理屈っぽく言うと。」
司会「なるほど。『仮面ライダー』を分解して。」
白倉「そう。変身すると心も変わる、ってやつと、ライダーってバイクじゃなくて電車、ってやつ。」

― 白倉信一郎プロデュース作品を振り返る。第1回 ゲスト: 小林靖子 (脚本家) ~Part5~

“仮面”の部分は、主人公である野上良太郎がイマジンに憑依されることで人格が変わる、という設定になった。
そして、“ライダー”の部分は、従来のようにバイクではなく電車に乗るヒーロー、という設定になった。

電車に乗る“ライダー”

初代仮面ライダーの頃から、“バイク”に乗るヒーローであることが「仮面ライダー」の大きな特徴としてあった。
だが、今作のプロデューサーを務めた白倉信一郎氏も以下のように言及している通り、様々な法規制によって公道でバイクアクションを撮影することが難しくなったようだ。


加えて、2007年を生きる子供たちにとってバイクは、1971年に『仮面ライダー』を観ていた子供たちにとってのバイクほど身近でカッコいい乗り物ではなかった。
バイクの販売台数の減少*1などが、その背景にあるだろう。
そして代わりに、2004年に九州新幹線が開業したり、2007年7月にN700系が運行を開始したりと、何かと注目を浴びていた“電車”が、2007年を生きる子供たちにとって一番身近でカッコいい乗り物になったのだろう。
白倉氏は、今作の乗り物が“電車”になったことについては以下のように述べている。

『仮面ライダー』がうけたのは、当時の子供にとって1番かっこいい乗り物は"バイク"だったから。1番かっこいい乗り物に乗るヒーローが『仮面ライダー』だった。じゃあ今の子供にとってバイクがそうかっていうと、必ずしもそうとは言い切れない。じゃあ今の子供にとって1番の乗り物は何?"電車"だ。つまり、これこそが本当に仮面ライダーの精神を正しく受け継いでいるものなんだというのはどうだろうと監督と笑いながら話していました。

超!人気シリーズの登場 | 東映[東映マイスター]


よって、今作の乗り物が“電車”になったことは、仮面ライダーをずっと観てきた人たちにとっては衝撃的だったかもしれないが、2007年を生きる子供たちのことを考えると至って自然なことだったのかもしれない




そんな“電車”のモチーフは、スーツデザインからベルトまで至るところに組み込まれている。


電王が変身に使用するデンオウベルトとライダーパスは、当時都市部で浸透し始めたSuicaなどの非接触型ICカードを模している。

一方で、ゼロノスが変身に使用するゼロノスベルトとゼロノスカードは、デンオウベルトとは対照的に、当時はまだ主流であった磁気乗車券を模している。
一度使ったら終わりの磁気乗車券の特徴が、「変身回数の制限」「記憶を消耗する」といったゼロノスのデメリットとして物語にも非常に上手いこと活かされた。


また、電車のミュージックホーンのようなメロディが変身ベルトに待機音として取り入れられた。
それまでの変身ベルトは、効果音や台詞などが発されることはあったものの、メロディが取り入れられることはなかった。
よって、デンオウベルトやゼロノスベルトがメロディを取り入れたこと自体新鮮だった。
そのようなメロディは、玩具版のベルトで子供たちが楽しく遊ぶうえでも大きな役割を果たしたと考えることができる
そしてこれを皮切りに、『仮面ライダーW』のダブルドライバーや『仮面ライダーOOO』のオーズドライバーなど、後の平成二期シリーズの変身ベルトでも、メロディが多用されるようになった。


このように、“電車”モチーフは、玩具として発売される変身ベルトにも分かりやすく組み込まれたことで、そのプレイバリュー向上にも繋がったと感じる。




一方で、わざわざ「仮面ライダー」の象徴であるバイクを置き換えてまでしてライダーの乗り物を“電車”にするからには、単なるモチーフに留まらせるわけにはいかず、デンライナーは物語上ではそれなりの役割を果たす必要があった。
そこで、デンライナーは過去へタイムトラベルするためのタイムマシーンとなった。
白倉氏は、『仮面ライダー電王』が時間モノになった経緯について、以下のように述べている。

そして「仮面ライダー電王」の話題では、タイムトラベルものになった経緯が説明された。白倉は「電車で行き着く先をどこにするか。長石多可男監督に撮ってもらいたかったので、さいたまスーパーアリーナとか、監督の好きなロケ場所を使いたかったんですよ。そうなるとMAXでも10年前くらいの過去か、精神世界か、パラレルワールド、選択肢は3つくらいでした」と話し、「精神世界は後に『ウィザード』で、パラレルワールドは後に『ディケイド』で使ったんですけど(笑)」と続ける。

白倉伸一郎×小林靖子「仮面ライダーアマゾンズ」残酷すぎてNGとなった伏線とは - 映画ナタリー

このようにして、『仮面ライダー電王』は、時の列車デンライナーに乗り、未来からの侵略者イマジンと戦う物語になった。


実は、このような「時間モノ」は今作が初めてではなく、過去には『仮面ライダー龍騎』のタイムベントや『仮面ライダーカブト』のハイパークロックアップなどがあったように、物語内でタイムトラベルやタイムパラドックスを扱ったという前例はある。
しかし、メインのテーマに「時間」を据えた作品は今作が初めてだ。


『ドラえもん』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『ターミネーター』、『インターステラー』など、様々な作品がタイムトラベルを題材にしている。
ただ、タイムトラベルは実在しないため、作品や製作者によってその解釈が異なり、どの作品でもタイムトラベルのロジックは異なる。
そこで、『仮面ライダー電王』は「時間=人の記憶」という『仮面ライダー電王』なりの解釈を加えた。
「時間=人の記憶」というこの解釈は、(先ほどの引用で白倉氏が述べていたように)「10年前くらいの過去」にしかタイムトラベルできない、という製作側の都合があったために設けられたと考えることができる。
『平成仮面ライダーシリーズ』は、東京近辺で撮影をする必要があるうえ、決して高くはないテレビ番組の予算でやりくりしないといけない。
そのため、当然制約も多く、撮影当時の日本とは大きくかけ離れた時間を描くのは難しい。
だからこそ「時間=人の記憶」という解釈を加え、契約者の記憶に残っている時代にしか時間移動することができない、という制限を製作陣が自らかけたことで、2007年~2008年の日本に割と近い過去しか表現する必要がなくなった。
そして、明らかに時間移動をしたと分かるような表現ができないため、季節や天候の変化などの描写方法を積極的に用いることで現在との差別化を図る努力は見られた。


考えてみると、電車がタイムマシーンになったことで、割と分かりやすいタイムトラベルの演出につながったと考える。
というのも、レール上を走って過去・現在・未来を行き来しているため、レールを通して「時間」という概念を視覚的に分かりやすく表現することが可能となったからだ。
たとえば、『33話 タイムトラブラー・コハナ』で登場した「分岐点」によって、未来が枝分かれしていることを表現したりした。
更には、時間移動先の日付をチケットに表記することで、時間移動をしていることがより分かりやすくなった。


「時間」というのは、最先端の物理学ですら解明されていないことが多い、非常に複雑な概念だ。
そのうえ、人生経験の浅い子供たちにとって非常に曖昧な概念である「記憶」が加わった『仮面ライダー電王』のタイムトラベルのロジックは、子供たちにとっては非常に複雑だ。
よって、子供たちも慣れ親しんている電車のチケットやレールと言った要素を取り入れることで、タイムトラベルが視聴者に分かるように工夫が凝らされた


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入れ替わる“仮面“

『仮面ライダーシリーズ』を特徴づける要素として、「変身」がある。
その「変身」という言葉は、人間態のヒーローが仮面を被り仮面ライダーに姿を変える様を表す言葉として広く知られている。
ただ、『仮面ライダー電王』は、単に姿を変えるだけでなく、心までもが「変身」するヒーローの姿を描いた。

強烈なカラーのイマジン

モモタロス、ウラタロス、キンタロス、リュウタロス、ジーク、デネブという善玉のイマジンが二人に憑依することで、良太郎や優斗の“仮面”が入れ替わる。

電王やゼロノスと共闘するイマジンたちには、イマジンの姿・ライダーの姿・(良太郎や優斗などの) 人間に憑依した姿、という主に三つの姿がある。
イマジンの姿やライダーの姿だと大きく見た目が変わるのでまだ識別できるが、人間に憑依した姿だと差別化を図るのは非常に困難だ。
特に、野上良太郎の場合だと4体のイマジンが憑いているので、野上良太郎を演じる佐藤健さんは (素の状態を含めると) 5つのキャラクターを演じ分けないといけない。
なので、どのイマジンが憑依しているのかを分かりやすくするために、イマジンたちはまるで漫画やアニメのキャラクターであるかのような極端なキャラクターになった
イケイケな戦い好きのモモタロス、女好きでナンパ師のウラタロス、マイペースな関西弁のキンタロス、子供っぽい無邪気なダンサーのリュウタロスなど、それぞれのイマジンに明確なカラーがある。
今作の脚本家である小林靖子さんも、あるインタビューで以下のように語っている。

司会「キャラクターの色付けっていうか… モモタロスはこんなキャラとか、ウラタロスはこんなキャラとか… その辺りは… どこに寄ったんですか?その、桃太郎から発想していったのか…?」
小林靖子「いや。取り敢えずモモタロスが決まって、で、順々に出ていくので、前と違うキャラ、前と違うキャラ、っていう…」
司会「あぁ。じゃあ、基点を一つ置いて、そこの辺、差をそれぞれ作っていく、っていう…」
小林靖子「そうですね。一人が… 佐藤健君が一人で演じるので、ちょっと極端と言うか、カラーが変わらないと分からないというところで極端にしてましたね。」

― 白倉信一郎プロデュース作品を振り返る。第1回 ゲスト: 小林靖子 (脚本家) ~Part6~


また、イマジンたちのキャラクターは、脚本家、俳優、スーツアクター、声優と数多くの人たちが携わって作り上げられている。
携わる色々な人たちによってイマジンたちは新しいキャラ付けもなされて、どんどんカラーが強烈になっていった、という部分も大きいだろう。
モモタロスのスーツアクターを担当した高岩成二さんも以下のインタビューで、アドリブで台詞が発生していったことについて述べている。

――現場に入ってから変わっていったことも多かったんですね
高岩:動きが変わるから、それに合わせて台本もちょくちょく変わっています。例えば、デネブ(味方陣営のイマジンの一人)のことを"おデブ"と言いだしたの僕なんですよ。デネブが初登場のときの会話で、"モモタロスなら聞き間違えるだろうな"と思って、ずっと言い間違えた体で演技をしていたんです。そしたらデネブのスーツアクターだった押川善文がそれに乗ってくれて、メインライターだった小林靖子さんも拾ってくださったんです。次第に台本に反映されていきましたね。それも監督は止めませんでした(笑) だから台本から外れたことをやっているわけじゃないんですけど、アドリブでどんどん台詞が増えていくんです。記録さんも僕の言ったことをちゃんとメモしておいてくれるんですよ。台本にない台詞は、声優の関俊彦さん(モモタロスの声を担当)にも伝えなければいけませんからね。

このように、様々な人たちによって肉付けされていった影響で、どんどん強烈なカラーになったとも言えよう。
加えて、アニメ畑で活躍する声優がイマジンの声を当てているのだから、アニメのようなカラーになるのは至って当然だ。




そして、イマジンたちのカラー分けの一環として、決め台詞も登場した。
『仮面ライダー響鬼』のヒビキの「鍛えてますから」のような口癖は前例としてはあったが、戦いの前に前後の会話とは関係なく唐突に発する決め台詞は『仮面ライダー電王』が平成仮面ライダーシリーズでは初めてだ。
「俺、参上!」はかっこつける派手好きなモモタロスの性格を、「僕に釣られてみる?」は言葉巧みに相手を手玉に取るウラタロスの性格を、「泣けるで」や「俺の強さにお前が泣いた」はパワーがあるが人情に脆いキンタロスの性格を、「答えは聞いてない」は自分勝手で強引なリュウタロスの性格を、「降臨、満を持して」は高飛車なジークの性格を映し出している非常に秀逸な決め台詞だ。


これらの決め台詞のおかげで、どのイマジンが憑依しているのかを簡単に識別することが可能となった。
というのも、憑依や変身・フォームチェンジ直後にモモタロスたちは決め台詞を言うので、どのイマジンがいつ憑依しているのかが非常に分かりやすいからだ。
たとえば、良太郎が突然「俺、参上!」と言ったらモモタロスが憑依していると視聴者はすぐ分かる。





そんな中、記号的な表現を用いることなく5つの人格を演じ分けた佐藤健さんの力量はかなり凄い
人間に憑依する場合はイマジンやライダーの姿では直接的に見ることができない”表情”も加えつつ、イマジンたちの極端なキャラクターを自然に演技に落とし込まないといけない。
それを見事に成し遂げたおかげで、誰が見てもどのイマジンが憑依しているかが伝わるほどしっかりと差別化を図ることができていたうえ、イマジンたちに人間味も加わった (人間ではないが)。
また、佐藤さんがかなり楽しみながらイマジンたちを演じていることが伝わるので、視聴者側もかなり楽しんで憑依シーンを見ることができる。




時間移動などに関する複雑なロジックが分からなくても、イマジン同士の掛け合いや憑依劇などは十分に楽しむことができる点では、そんなイマジンたちの強烈なカラーは「わからない視聴者」が作品を楽しむうえでの重要な要素ともなった


そして、イマジンたちが今となっても大人気な理由も、彼らの強烈なカラーにあると考える。
だからこそ、佐藤健さんが芸能界で飛躍しても、イマジンだけで『仮面ライダー電王』の続編を様々な媒体で作ることができた。
例えば、テレビ本編終了後に電王をフィーチャーした映画が数多く作られた。

後者の『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』なんかは、佐藤健さんが演じる良太郎が出演することなく、『仮面ライダー電王』の続編として作られた。


更に、放送終了から12年経った今でもモモタロスたちが脚光を浴びることが多々ある。
テレビ本編終了後にも様々な媒体でモモタロスたちが活躍できているのは、製作陣の諸事情にあまり左右されることなく、声優さえいれば再演させることが可能である、といった彼らの特性が大きく影響しているだろう。
そして、彼らの分かりやすいキャラクターのおかげで、モモタロスたちは世代を超えて今日の子供たちからの人気を集めることができているのだろう。


だが、テレビ本編製作時に脚本家、俳優、スーツアクター、声優の尽力があったからこそ、イマジンというキャラクターが完成し、人気を集めることができたことは忘れてはならない。

”史上最弱”の主人公

第17話「あの人は今!も過去?」

イマジンに憑依されて共闘する必要性を付与するべく、今作の主人公である野上良太郎は体力がない、内気な、不運続きの主人公になった。
「一番強いのは俺」と豪語していた前作『仮面ライダーカブト』の主人公の天道総司とは対照的な主人公だ。
『仮面ライダー電王』の製作が発表された際、仮面ライダー電王は”史上最弱”の仮面ライダーと銘打たれていたほどで、この主人公の性格は当時かなり衝撃的だった。

www.oricon.co.jp


そして、今作を明るい作風にするべく、かなり極端なコメディ描写を使って良太郎が”最弱”である様を表現している
不良軍団にタコ殴りにされたり、怪人に取り憑かれたりして、ただでさえかなり不幸な目に遭うが、良太郎の場合は「ギネス級」に運が悪いので、自転車にこいでいたら自転車ごと木の上に飛ばされたりもする。


一方で、良太郎はそんな数々の不幸に巻き込まれながらも、根気強く立ち上がることができる精神的に強い人間として描かれている。
不運や不幸という言葉にはどうしても暗いイメージがあるが、良太郎にはそれらから立ち上がるメンタルがあるので、それら全ての出来事を笑いに昇華することができる。
野上良太郎を演じた佐藤健さんも、放送開始前のインタビューでこのように述べている。

佐藤は良太郎に共感し「つらいことがあっても、めげないで明るく生きていこうという、実は強い気持ちを持った子なんだと思っています」と話す。

ホント!?史上最弱、史上最年少の仮面ライダー誕生! | ORICON NEWS

そんな良太郎だからこそ、最初は暴走気味だったモモタロスたちを良太郎が上手くコントロールすることで、電王として時の運行を守るために戦うことができた
特に多くの人たちの印象に残ったのは、それまでモモタロスのことを怖がっていた良太郎が、『4話 鬼は外!僕はマジ』で泥棒に加担したモモタロスに「ごめんなさい」と言わせたシーンだろう。
私なんかは、このシーンで良太郎の芯の強さが垣間見えて、一気に彼のことが好きになってしまった。
それ以外にも、『10話 ハナに嵐の特異点』で消滅寸前のキンタロスを自分に入れることで救ったことはかなり勇気が要る行動だ。
そもそも、特異点だからと言って半強制的に電王に変身させられた良太郎が、『2話 ライド・オン・タイム』の時点で「やらなきゃいけないこと」だと納得して電王として戦う決意をしたのは、かなりの勇気と決断力がないとできないことだ。


“史上最弱”の主人公である良太郎にとってモモタロスたちの肉体的な強さや戦いのセンスが必要だったのと同時に、逆にモモタロスたちイマジンだけでは電王は決して成立することはできなかった。
モモタロスたちの強力な力が正しく使われるように良太郎が導くことで、電王はヒーローとして戦うことができている。
良太郎がいなくても、モモタロスたちがいなくても、「電王」というヒーローが生まれることはなかった。
そのような共依存の関係を描くうえでも、良太郎は精神的に強い主人公でないといけなかった。


このように、良太郎は“史上最弱”であると同時に精神的な強さを持つ主人公であったからこそ、ただのコメディリリーフになり下がることなく、『仮面ライダー電王』が「わからない視聴者」も楽しめるような明るい作品になる基盤を構築することができた




また、『仮面ライダー電王』といえば時間モノであることが取り沙汰されるが、実は「良太郎の成長」こそが物語の主軸である
最初は時間の複雑な仕組みを理解できずに「何だかよく分からないけど」時の運行を守っていたが、イマジンの悪業を目の当たりにするうちに、時の運行を守ることがいかに大切なことかに気づいて、それを確固たる意思にする。
それと同時に、最初は異なる価値観を持っていた仲間のイマジンたちや桜井侑斗との絆も育んでいく。


そんな良太郎は、「時の運行を守る」ことと「仲間を守る」ことを天秤にかけるように強いられる。
桜井侑斗が記憶を消費しながら戦っていたり、良太郎が電王として戦うことが仲間のイマジンの消滅をももたらしたりすることに気づく。
最初、良太郎はその両方を認めず、仲間の自己犠牲には否定的な態度を示す。
そんな仲間の自己犠牲を阻止するために代わりに良太郎は一人で強くなろうとする。
しかし、やはり自分が一人で戦うことに限界があることを知り、仲間の大切さを改めて感じる。
更に、仲間のイマジンも桜井侑斗も野上愛理も、みんな時の運行を守るために自己犠牲を払っていることに気づく。
同じ意思を共有しているからこそ、「時の運行を守る」という仲間の意思を尊重して自己犠牲を黙認し、共に全力で戦うことを決意することができたのだろう。
イマジンの悪業を見たり、仲間との絆を育んだりすることで、自己犠牲に対する否定的な姿勢を変えることができたのが、良太郎という主人公の作中における最大の成長であり、『仮面ライダー電王』という作品の骨組みにもなっている。
そう、『仮面ライダー電王』は良太郎がイマジンや大切な家族・仲間に囲まれて成長していく物語なのだ。

<電王>それは、『時の列車』に乗り、仮面ライダーとなった少年が、時の旅人として自分を見出し、電車を降りるまでの成長物語。

― 映画『仮面ライダー超電王&ディケイド 鬼が島の戦艦』映画チラシ

『仮面ライダー電王』の複雑な時間移動のロジックが分からない「わからない視聴者」であっても、良太郎という“史上最弱”の主人公が心身共に成長していく姿は非常に楽しめるようになっている


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賑やかな戦闘

良太郎にモモタロスたちが憑依するという設定ができたことで、今作の敵怪人であるイマジンが日本語を喋るようになった。


それまでの平成仮面ライダーシリーズは、怪人態で日本語を喋る怪人を極力避けてきた印象だ。
たとえば、『仮面ライダークウガ』のグロンギは独自の言語を話していたし、『仮面ライダー555』のオルフェノクや『仮面ライダーカブト』のワームは怪人が喋るたび人間態で話している演出があった。
また『仮面ライダーアギト』のアンノウンはほとんど無言だったが、終盤で突然ぎこちない日本語が少し話せるようになり結果的に得体のしれない不気味さが加わった。
人間態を持たないのにもかかわらずペラペラと日本語を喋る怪人が登場するのは、それまでの『平成仮面ライダーシリーズ』ではかなり珍しいことだったので、違和感を覚えた人もたくさんいただろう。


ただ、イマジンが日本語を喋ることによって、戦闘シーン中の会話が増えたことが前作からの大きな変化だ。
たとえば、お互いが挑発し合ったりするような、味方イマジンと敵イマジンの会話。
モモタロスとウラタロスのどちらが戦うかで揉めたりするような、味方イマジン同士の会話。
暴走するモモタロスを止めようと良太郎が叱るような、良太郎と味方イマジンの会話。
このように、多種多様な掛け合いが戦闘中に楽しめるようになった。
そしてその影響で、戦闘シーンがより賑やかでノリノリなものになり、「わからない視聴者」がより楽しめるようになった


また、『仮面ライダーアギト』以降のほぼ全ての作品でライダー同士が戦う「ライダーバトル」が展開されていたが、今作では二人ライダー制が導入されたことでライダーバトルがほぼない。
その分、「電王やゼロノス vs イマジン」という構図が毎回続いてしまうため、どうしても戦闘シーンの新鮮味がなくなる。
戦闘シーンを飽きずに観られるようするためにも、戦闘中の会話は大きな役割を担っていた


このような『仮面ライダー電王』における人間と怪人の関わり合いがウケたからか、明確に意思があり、意思疎通が可能な怪人が以後の作品でも増えていった
『仮面ライダーOOO』のグリード、『仮面ライダーウィザード』のファントム、『仮面ライダードライブ』のロイミュード、『仮面ライダーゴースト』の眼魔、『仮面ライダーエグゼイド』のバグスターなどがその例だ。
そして、『仮面ライダーOOO』の火野映司とアンクや『仮面ライダーエグゼイド』の宝生恵夢とパラドなどで見られるように、仮面ライダーが怪人と共闘する展開も増えていった。
その影響で、人間という枠を超えたバディものをテーマに据える作品も増え、必然的に戦闘中の会話が増えるようにもなった。


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ゲスト中心の物語

それまでの『平成仮面ライダーシリーズ』では、『仮面ライダー龍騎』や『仮面ライダー555』などのように、三人以上の多数の仮面ライダーによる群像劇を描いた作品が主流だった。
一方で今作は、テレビ本編に登場する仮面ライダーを電王とゼロノスの二人のみに絞った。


そして、群集劇よりかは、二話ごとに新しいゲスト (契約者) を登場させて電王やゼロノスと関わる様子を描く「ゲスト中心」の構成になった
この構成により、二話で完結するショートストーリーの連続によって今作の物語が進行することになり、その二話の前後編で描かれる内容に関する基本フォーマットがある程度確立された。
前編では、イマジンと契約者は契約を結び、契約者と良太郎たちが何かしらの形で関わり合い、電王やゼロノスが現在でイマジンを倒そうとする。
そして後編では、イマジンが強引に契約者の望みを叶えて過去に飛び、そして電王やゼロノスも過去に飛んでイマジンを倒す。
この基本フォーマットが第一話から最終話までずっと維持されたのが今作の大きな特徴だ。


前後編の二話完結は新しいものではなくて、『平成仮面ライダーシリーズ』では『仮面ライダークウガ』から基本のフォーマットとしてあった。
このフォーマットが採用されてきたことに様々な要因が挙げられると思うが、監督が基本的には二話ごとに交代するという製作上の都合が大きく影響していると推察することができる。
なので、これまでの作品を見ていると、たしかに二話ごとにある程度物語の区切りがあることが分かる。
ただ、今作では二週間ごとに変わるゲストを中心とした起承転結のある物語が二週間にわたって描かれるようになり、二話ごとの区切りがより明確になったと感じる




この「ゲスト中心」の構成のおかげで、複雑な縦軸よりも横軸に比重を置くことができた
「愛理の天体望遠鏡の謎」「桜井さんをめぐる謎」「分岐点の鍵」などが関わる縦軸の物語は、タイムパラドックスなどに関わるものが多い。
そのような複雑すぎる壮大な物語についていけなくても、起承転結が明確な分かりやすい二話完結の物語を気軽に観ることができる。


ゲストの望みを中心に描かれたドラマは、どれも非常に魅力的なものばかりだ。
人間には誰しも、自分の人生に大きな影響を与えた過去の出来事はあるだろう。
ゲストが後悔していること、忘れたいこと、変えたいことを現在で深掘りすることで、過去の出来事を明らかにする、というアプローチは非常に面白い。


また、ゲストと良太郎たちの関わり合いは、一般市民を守るために戦う仮面ライダーの姿を効果的に映し出した。
ライダーバトルが根幹にあった『仮面ライダー龍騎』などで見られた従来の群集劇のフォーマットでは、(良いか悪いかは別として) どうしても内輪で物語が完結しがちだった。
それが、今作では契約者といった形でゲストを登場させることで、より広い世界と仮面ライダーとの繋がりを視聴者に実感させることができた。




そして、今作以降の作品でもこの「ゲスト中心」の構成が重宝された。
鳴海探偵事務所に来る依頼者をゲストに据えて探偵ものを展開した『仮面ライダーW』などがその代表例だ。

『仮面ライダーW』の場合は、二話ごとに一つの事件を扱いながら「仮面ライダーと“街”」の関係性を映し出すことができ、「ゲスト中心」の構成との相性が非常に良かったと感じた。


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結論

以下のインタビューで白倉氏は、『平成仮面ライダーシリーズ』の視聴者には「わかる視聴者」と「わからない視聴者」の2種類がいることを述べている。

— 非常に基本的なことですが、電王のメインターゲットは?
小学校低学年です。
— そのターゲットに、あのストーリーは理解できる?
コアターゲットには、わからないだろうと思っています。難しい話ですから(笑)。ターゲットを、私は2層に考えています。わかる視聴者と、わからない視聴者がいるのだと。そのために、まず、わからない層にでも楽しめる構図づくりを大切にします。それは、ライダーのキャラクターや対戦の面白さですね。その上に、わかる層に向けたストーリーを載せていきます。 さらに種明かしをすれば、脚本はかなり重層的につくりあげていますが、常にドラマのあちこちに「そんなこと、どうでもいいじゃない」と思える“ノリ”や勢いを持たせるように苦心している。「あまり難しいことは考えなくていいですよ」「そこは、楽しむべきところじゃないかもしれませんよ」というメッセージを発信して、実際、気にせずに楽しめるようにしている。実は、舞台裏では、作家も含めてみんなで小難しいこと考えているんですが(笑)、考えていないふりをしつづけているんです。 で、コアターゲットの小学校低学年の視聴者の方々は、話の難しいところを考えずに、物語の面白さを見事に理解してくれているわけです。

白倉伸一郎(Shinichiro Shirakura)氏: ポイントはリアルタイム性であり時代性 つまりは「今」でしかできないこと | クリエイターズステーション

『平成仮面ライダーシリーズ』は、「わかる視聴者」に向けてストーリーを作り込んでいることもあり、大人からも人気を博すことができた。
『仮面ライダー電王』もまた、「時間モノ」という難解なストーリーを扱い、子供に媚びることなく作られた。


とはいえ、「仮面ライダー」はあくまでも子供向けのコンテンツだ。
だからこそ、当たり前なことに聞こえるかもしれないが、子供たちにどれほど受け入れられるかがシリーズの命運を左右する。


よって、難解な時間モノのストーリーを描きつつ「わからない視聴者」である子供たちが楽しめるような作品にもするために、今作はキャラクターや戦闘にこだわる必要があった。
キャラクター面では、強烈なカラーのモモタロスたちによって掛け合いや憑依劇が楽しめるようになり、“史上最弱”の主人公である良太郎によって明るい作品となる基盤ができつつ彼の成長ストーリーも楽しめるようになっている。
そして戦闘面では、会話が増加したことでより賑やかでノリノリなものになり、飽きずに楽しめるようになった。
それに加えて、ゲスト中心の構成が生み出されたことで、より気軽に楽しめる作品になった。


これらの工夫によって、以下のインタビューで白倉氏が述べている通り、「訳分かんなくても良い」ような作品になったと言えよう。

司会「それが、今みたいな平成ライダーらしいネチネチって今仰られてましたけど… それがそういう意味では平成ライダーの中で頭抜けて明るいというかね。」
白倉「でもあれは時間旅行モノにしちゃった弊害… というか副作用ですよね。やっぱ難しいですよね、タイムトラベルモノって。難しすぎて訳分かんないんで。絶対お客さん訳分かんないから。訳分かんなくても良いっていうメッセージ… っていうか光線を発しないとダメだった。バカが作ってるからしょうがないんだよね、っていう風に見えるものにしなきゃいけないって言って、とにかく明るい、で、バカっぽい、っていうのにしないといけない。」

― 白倉信一郎プロデュース作品を振り返る。第1回 ゲスト: 小林靖子 (脚本家) ~Part6~

妥協することなく難解なストーリーを扱いながらも、そのストーリーを理解しなくても楽しめるように緻密に計算されていたからこそ、『仮面ライダー電王』は子供たちから絶大な人気を集めることができた


そして、『仮面ライダー電王』の作り方が後年の作品でもまるで呪縛のように引き継がれることになり、その後シリーズ全体に多大なる影響を及ぼした
だからこそ、今作は『平成仮面ライダーシリーズ』の分岐点となったと、今振り返ると思える。




iPhone/iPadの標準アプリのみでインスタ用に写真の枠加工をする方法を開発してみた (ショートカット、始めよう)

インスタグラムに縦長や横長の写真を投稿するとき、結構困ることが多い。
というのも、インスタは基本的に正方形の写真を投稿することを想定したアプリだからだ。
なので、多くの人たちは白枠などの枠加工をすることで、縦長や横長の写真を正方形になるように加工してから投稿する。
ただ、そういった加工には別のアプリが必要で、割と面倒臭い。


なので、iOSに搭載されている標準アプリのみでインスタ用に写真の枠加工ができるショートカットを開発してみた。
特徴は以下の通り。

  • 写真アプリからそのまま写真を加工できる
  • 枠の色を指定できる
  • 枠の大きさを指定できる
  • 加工後の写真を直接インスタグラムに投稿できる


このショートカットの入手方法や使い方をこの記事で紹介していきたい。
尚、このショートカットを正常に使用するようなにはiOS13以上のデバイスが必要だ。



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ショートカットの追加

STEP 1: 「ショートカット」アプリを入手

これから紹介する方法を使うためには、まずは「ショートカット」アプリが必要だ。
このアプリは、iOS13からは標準搭載のアプリだが、もしホーム画面から消していたら以下のリンクからアプリを入れ直して欲しい。

ショートカット

ショートカット

  • Apple
  • 仕事効率化
  • 無料

様々なショートカットを入れることでiPhoneやiPadをより便利にすることができるので、「ショートカット」アプリは入れていて損はない。

STEP 2: 信頼されていないショートカットを許可

私が開発したショートカットを「ショートカット」アプリに入れるには、信頼されていないショートカットを許可する必要がある。
以下の手順で、追加を許可してください。
「設定」アプリ→「ショートカット」→「信頼されていないショートカットを許可」をONに変更→「信頼されていないショートカットを許可しますか?」と聞かれたら「許可」を選択

STEP 3: ショートカットをダウンロード

そして、以下のリンクから私が開発した「インスタ用に写真の枠加工」のショートカットをダウンロードしよう。

ダウンロード

リンクをアクセスすると、「ショートカット」アプリに移り、「インスタ用に写真の枠加工」のショートカットが画面上に現れる。
画面最下部までスクロールし、「信頼されていないショートカットを追加」をタップしてください。


「マイショートカットに追加されました」というダイアログが出てきたら、ショートカットの追加は完了だ。


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ショートカットの使い方

STEP 1: ショートカットを起動

まずは、ショートカットを起動しよう。
このショートカットを起動する方法は二つある。

「ショートカット」アプリから開く場合

「ショートカット」アプリで「マイショートカット」の画面を開いてください。
そして、そのまま「インスタ用に写真の枠加工」のショートカットをタップ


すると、写真ライブラリの画面が出てくるので、加工したい写真を選択してください

写真アプリから開く場合

加工したい写真を既に「写真」アプリで開いている場合は、「共有」アイコンをタップ


そして、リストに出てくる「インスタ用に写真の枠加工」ボタンをタップ

STEP 2: 枠の色を選択

次に、枠の色を選択してください。

リストに表示されている30色以上の色から好きな色を選択できる。

STEP 3: 枠の大きさを指定

次に、枠の中に表示する写真の大きさを選択してください。


因みに、「フィット」「やや小さめ」「小さめ」はそれぞれ以下のようになる。

STEP 4: 画像を保存するかどうか

次に、今回加工した画像を保存するかどうかを選択してください。


インスタに載せるだけの場合、次のステップでこのショートカットが画像をインスタに載せてくれるので、別にこのステップで保存していなくてもいい。
後から別の用途で画像を使いたい場合などは是非保存しておこう。

STEP 5: インスタに投稿

最後に、ショートカットが自動的にインスタの画面に遷移する。
この画面で「フィード」をタップして、加工後の画像をインスタに投稿してください。


これで、枠加工をした写真をインスタに投稿することができる。


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最後に

「ショートカット」アプリには本当にたくさんの使い道があります。
当ブログでは、「ショートカット、始めよう」と題するシリーズで、私が自作した様々なショートカットを紹介しています。
これからも、様々な効率化を図るためのショートカットを紹介していく予定です。
是非よろしくお願いします。




感想『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』はなぜ天才的に構成されたミステリーなのか

2020年1月に、ライアン・ジョンソン監督による映画『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』が公開された。
ジョンソン氏といえば、世界中のスター・ウォーズファンの間で賛否両論を呼んだ『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』の監督及び脚本家をも務めた。
今作でもジョンソン氏は、監督を務めながら、原作などが存在しない完全にオリジナルの脚本を執筆した。
2017年に公開された『オリエント急行殺人事件』などの近年製作された多くのミステリー映画には原作があり、展開や結末について予め知った状態で観てしまった。
なので、どうなるのかが分からずで観るミステリー映画は、私にとっては結構久しぶりだった。


そして、私は今作を初めて観た時に様々な急展開にかなり驚かされつつ、純粋に一本の映画として楽しめた。
それは、従来のフーダニットに意外な捻りを加えたジョンソン氏の天才的な構成力のおかげだったと私は強く感じた。


この記事では、今作がどのように見事に構成されたミステリー映画なのかを、私の感想を交えながら考察していきたい。
言うまでもないが、勿論ネタバレは含まれているので、記事を読む際は注意していただきたい。


ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密(字幕版)


この記事には、映画『ナイブズ・アウト / 名探偵と刃の館の秘密』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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フーダニットの弊害

今作は、とある犯罪事件において「誰が犯人なのか」を探偵と一緒に推理する作品のジャンルである「フーダニット (whodunit)」に分類される。
風変わりな探偵が登場し、カントリーハウスを舞台にした謎を解き、最後に意外な犯人が暴かれる、といったフーダニットの基本フォーマットが確立されている。


ただ、フーダニットの構成は最後の答え合わせに向かって物語が進行していくため、観客が感情的に物語に入り込むことができないような構造になっている、という欠点がある。
探偵と一緒に事件の真相を推理していく快感や最後の答え合わせによる満足感などの感情はたしかに味わえる。
だが、観客はどうしても傍観者として事件の様子を眺めながら最後の答え合わせを待ち構えてしまうため、真の意味で感情的に物語に入り込むことができない。
これについては、ジョンソン氏がとあるインタビューで以下のように語っている。

But I do kind of fundamentally agree with Hitchcock's take on the genre, which was that it is all based on a surprise at the end, which is kind of the cheapest coin. He was very much a proponent of suspense as opposed to mystery. And there is something about the way that that, as an engine, drives a movie that I do agree with. Different kinds of mysteries have attempted this in different ways, and Agatha Christie would always put some different engine, other than just whodunnit, into each of her books. The challenge is basically creating a compelling story so you are not just waiting for the reveal at the end. So that you are actually caught up in something emotionally.

和訳: ただ、フーダニットというジャンルが最後のサプライズありきだというヒッチコックの考えに私は根本的には同意している。彼はミステリーよりもサスペンスを支持していた。そしてそのサスペンス要素がエンジンとなり映画を動かすことにも私は同意する。色んなミステリーがこれを様々な方法で試みてきて、アガサー・クリスティーなんかは自身が執筆した本に必ずフーダニット以外のエンジンを入れていた。観客が最後の謎解きを待ち望むだけにならないような、そして、感情的に何かにハマっていられるような感心できる物語を作ることがチャレンジだった。


‘Knives Out’ Director Rian Johnson on Tackling a Whodunnit – The Hollywood Reporter, 和訳は引用者による

つまり、フーダニットというジャンルの中で観客が感情的に物語に入り込むことができる作品を作ることが、今作を制作するうえでのジョンソン氏の課題だったと考えることができる。


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純粋なマルタ

前述したようなフーダニットの弊害を克服するべく、ジョンソン氏は「誰が犯人なのか」の答え合わせを今作の中盤に持ってきた
しかも、マルタが間違った薬を投与してしまったせいでハーランの命を奪ってしまい、その犯行を隠すためにハーランと一緒に隠蔽しようとした、という真相にブランより先に我々観客が辿り着くという、フーダニットにしては非常に特殊な展開になった。
我々観客は意外にも早い段階で答えを知ってしまった (と思い込んでいる) ため、以後誰が犯人なのかを謎解きをする必要がなくなる。
勿論、「誰がブランに著名で依頼したのか」という謎は依然と残ったままではあるが、この段階では「誰が犯人なのか」という問題は既に解決していたかのように思われる。


そして今度は、 「嘘をつくと吐いてしまう」マルタが自身の犯行をブランや刑事らから隠蔽する姿をハラハラしながら応援することに観客の意識が自然と向くようになっている
このようにマルタに感情移入できるのは、マルタが本当に良心的で純粋な人間であることを我々が知っているからだ。
「嘘をつくと吐いてしまう」症状はユーモラスな設定ではあるが、正にマルタの純粋さの象徴にもなっている。
また、ハーランのことを本気で心配するマルタの姿もそうだし、マルタのことを庇うためにハーランが隠蔽工作に加担するほどマルタがいい娘であることも、事件の回想から我々に伝わっていた。
だからこそ、自分の車が写っている防犯カメラの映像が流れるのを阻止しようとしたり、泥に残っていた足跡をブランの目の前で消そうとしたり、証拠品をブランが見ていない隙に投げて隠滅しようとしたりするマルタの様子は滑稽でありながらも可愛らしく思えたし、我々は応援したくなった。
このように今作は、「誰が犯人なのか」を探偵と共に推理することが醍醐味の従来のフーダニットとは真逆で、「誰が犯人なのか」を探偵に知られて欲しくない、という感情を観客に芽生えさせる




尚且つ、答え合わせを中盤に持ってきたことで、従来のフーダニットにある「謎解きのワクワク感」を新鮮な形で提供することに成功したとも感じる。
というのも、事件の全貌を分かり切ったと我々が油断しているところに、事件には裏があることが明らかになるからだ。
つまり、フーダニットが解決されたと思い込んでいたところに、新たなフーダニットが再び浮かび上がる


一つ目の新たなフーダニットは、「I know what you did」と書かれた手紙をマルタの家に送ったのは誰か、といった謎だ。
そして二つ目の新たなフーダニットは、手紙の送り主であった家政婦のフランの命を奪おうとしたのは誰か、といった謎だ。
我々は犯人であるマルタ視点でこれまで物語を観てきたため、これらのフーダニットに対するマルタの驚きやハラハラ感を追体験することができる
尚且つ、我々が応援しているマルタがもしかすると犯人ではない可能性も浮上するため、余計に新たなフーダニットを解明したい気持ちがそそられる


中盤に一度答え合わせを持ってきて我々を油断させることで、その後に浮き上がった新たなフーダニットをより新鮮に感じさせてくれたことに、私は非常に感心した。




犯人であるマルタに感情移入ができるような構成にすることで、観客が物語に入り込むことができるようなフーダニット作品に仕上げたことが、今作の秀逸な点だと感じた。

自分勝手で排他的な家族

そして、ハーランに親身になっていた利他的なマルタとは対照的に描かれていたのが、ハーランの家族だ。


フーダニットの真犯人であったランサムは勿論、“クソ”である。
葬式には出席しなかったのにもかかわらずハーランの遺言書の開封に出席したことこそが、その自分勝手な性格を正に表している。
更には、マルタの「嘘をつくと吐いてしまう」症状を利用して色々と聞き出したり、そもそもマルタにハーランの事件の罪を着せようとしたりと、非常にタチの悪い人間であることが我々にも伝わる。
だからこそ、真犯人がランサムであることが発覚したときに、犯人が分かった驚きとともに、“クズ”が負けたことにどこか清々しさを感じることができた。


一方で、ランサム以外のスロンビー家のみんなも、実は決して性格が良くはない。
“クソ”なランサムが家族みんなのことを“クソ”と連呼した例のシーンがそれを象徴する。
そんな彼らの醜い様が、話が進んでいくとともにますます露呈していくのが非常に面白い。


ブランの捜査で証言しているときにスロンビー家は自身が自立した成功者であることを度々強調するが、証言の最中に差し込まれる回想を通して、彼らの証言がウソであることが判明する。
リチャードが浮気がハーランにバレてそのことを妻に明かすと言われていたこと、ハーランがメーガンの学費を着服していたことがハーランにバレて援助を打ち切られたこと、ウォルターがハーランによって出版社からクビになると告げられていたこと。
実は、彼らは全然自立した人間ではなく、ハーランが築いた成功や財産を利用して自分勝手に生きる人たちだったことが分かる。


そして、スロンビー家の身勝手さは、彼らが移民問題について語るとあるシーンでも露呈する。
そのシーンで、アメリカ国籍を手に入れることがどれほど難しいことかについて無知なリチャードは、移民たちはアメリカへ合法的な手段で入国する必要があると主張する。
それに対してジョニは、移民の子供たちが檻に入れられている現状を嘆く。
だが、皮肉なことに、リチャードはハーランのおかげで会社を持って生活ができているし、ジョニはハーランが渡してくれる子供の学費を着服して生活している。
つまり、この二人の生き方は自分たちの政治的主張とは完全に矛盾していて、その主張がただの薄っぺらい綺麗事であることが分かる。


また、スロンビー家のマルタに対する接し方からも、その身勝手さは伝わってくる。
例えば、まるでマルタが召使いであるかのように、リチャードが食べ終わった空いた皿をマルタに手渡すシーンがある。
マルタがエクアドル人、パラグアイ人、ウルグアイ人、ブラジル人のどれであるのかを誰も覚えていないことからも、南アメリカが全部一緒であると思い込んでいる彼らの無関心さを表している。
口ではマルタのことを「家族同然」と言いながらも、実はマルタがスロンビー家にとってはどうでもいい存在であることが分かる。


そんな彼らのチラチラと見え隠れしていた本性は、スロンビー家の特権的ステータスが揺さぶられたときに完全に露呈する。
ハーランの莫大な遺産を、家族である彼らではなくマルタが全て相続することを知ったシーンで、スロンビー家は揃ってマルタに対して卑劣な言葉を投げかける。
余裕がなくなったからこそ、綺麗事や偽の優しさで取り繕うことをやめ、マルタのことを外敵とみなすようになる。


このスロンビー家の姿は、正に現在の一部のアメリカ国民の移民に対する姿勢を映し出している。
キャプテン・アメリカ役で知られているクリス・エヴァンズが演じるランサムが、移民であるマルタの命を奪おうとして失敗したシーンなんかは正に、アメリカの白人が移民に刃を向けるという構図になるように狙って演出されている。

だから、今作におけるスロンビー家は、現代社会に対する風刺であるとも見なすことができる。


そんな風刺を盛り込みながらも、スロンビー家の自分勝手で排他的な性格を絶妙なバランス感で描くことで、我々がスロンビー家のことを嫌いになるように見事に構成されている。
そして、スロンビー家から敵視されたり排除されたりと散々な目に遭っているマルタのことを、逆にますます応援できるようになっている。




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結論

フーダニット作品を鑑賞している側の人間は、作品の登場人物に感情移入することよりも、どうしても謎解きを優先させてしまいがちだ。
そんな中、観客が物語に感情的に入り込むことができるような筋運びでフーダニットを描いたことが、今作の一番素敵なところだと私は感じた。


中盤にフーダニットの答え合わせを持ってきたり、「嘘をつくと吐いてしまう」症状を患わせたりすることで、マルタのことを我々は自然と応援できた。
また、スロンビー家の“クソ”さを、彼らの政治的主張などを絡めた会話やマルタに対するさり気ない接し方を通して見事に表現したことで、スロンビー家のことを嫌いになりつつ、マルタのことをますます応援したくなった。
そして、更に、マルタのことを応援していたからこそ、最後に真犯人が明かされたときにカタルシスを感じることができた。


このようにフーダニットで感情移入させることは決して簡単なことではないし、ジョンソン氏が非常に巧妙に構成を練ったからこそ得られた効果だと感じる。
元々ジョンソン氏は「視聴者の期待を超える」ことに非常に執着している監督だ。
これは『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』では特に顕著だったと感じる。
ジャンルの限界を超えて我々観客の期待を超え、ハラハラとワクワクで溢れる作品ができあがったのは、そんなジョンソン氏の執念が今作でも活きたからこそだったのかもしれない。




感想『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』はなぜ駆け足な展開になったのか

2019年12月に、J・J・エイブラムス監督による『スター・ウォーズシリーズ』の最終作『エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』が遂に公開された。


『スター・ウォーズシリーズ』を振り返ってみると、その歴史は40年以上にも及ぶ。
1977年にジョージ・ルーカス監督が製作した『エピソード4/新たなる希望』が大ヒットして以降、1980年の『エピソード5/帝国の逆襲』と1983年の『エピソード6/ジェダイの帰還』を含む三部作のシリーズとして、ルーク・スカイウォーカーがダース・ベイダーに立ち向かう姿を描いた。
上記三部作 (オリジナル・トリロジー) の前日譚にあたるプリクエル・トリロジーも製作され、1995年の『エピソード1/ファントム・メナス』、2002年の『エピソード2/クローンの攻撃』、2005年の『エピソード3/シスの復讐』の三作を通して、アナキン・スカイウォーカーが暗黒卿ダース・ベイダーになるまでの経緯を描いた。


2012年にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収して以降、オリジナル・トリロジーの後日譚としてシークエル・トリロジーが製作された。
2015年に公開されたその一作目である『エピソード7/フォースの覚醒』はJ・J・エイブラムス監督が製作し、二作目である『エピソード8/最後のジェダイ』はライアン・ジョンソン監督が製作した。


『エピソード7』はレイやカイロ・レン、フィン、ポー、スノークといった新たな登場人物を紹介しつつ、観客の興味を引き立てるべく数多くの謎を提示した。

そんな中、次作の『エピソード8』はほぼ全ての謎に対する答えを提示してしまった。

例えば、『エピソード7』で謎として提示されたレイの両親の正体や、『エピソード7』では明かされなかったカイロ・レンの闇落ちの経緯は、両方共『エピソード8』ではしっかりと答えられた。


そして、シークエル・トリロジーの最終作であり『スター・ウォーズシリーズ』そのものの最終作である今作の監督に、エイブラムス氏が再び抜擢された。
そんな今作を観た私は、展開が非常に駆け足であるように感じた。
なぜそのように感じてしまったのかを、これまでの三部作やその製作の背景を振り返りながら考察していきたい。


スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け (通常版) (字幕版)


この記事には、映画『スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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ベンの救済

アナキンやルークらスカイウォーカー一族が重大な決断を下すうえで、家族の存在が常に鍵となってきた。
アナキンは、『エピソード2』で母シミが命を落としたことへの復讐としてタスキン・レイダーの命を奪ったことでダークサイドへと引き寄せられ始め、更に『エピソード3』で後に妻となるパドメを救うためにダークサイドに堕ちてダース・シディアスの弟子となった。
『エピソード6』では、ルークは父であるダース・ベイダーをライトサイドへと引き戻そうと必死に良心に呼びかけた。
そして、そんなダース・ベイダーは愛する息子のルークを救うためにダース・シディアスの命を奪い、ジェダイに戻った。
このように、「家族」の存在がアナキンやルークにとっていかに大切だったかが分かる。


『エピソード7』からのシークエル・トリロジーでも、スカイウォーカー一族にとっての家族という存在の大きさが一貫してテーマとなっている。
アナキンの孫でファースト・オーダーの幹部でもあるカイロ・レンことベン・ソロを、ライトサイドとダークサイドの間で彷徨うスカイウォーカー一族の一員として、敵側に配置して描いた。
そんなベンが、叔父さんのルークに命を奪いかけられたことをきっかけにダークサイドに堕ちたことを『エピソード8』は描いた。
そんなカイロ・レンの感情はかなり不安定で、それはプラズマの刃が不安定な彼のクロスガード・ライトセイバーにも表れている。

このように、人間臭くてどこか憎めないカイロ・レンが、個人的にはシークエル・トリロジーの大きな見どころだったと感じている。


『エピソード7』や『エピソード8』では、カイロ・レンにとって「家族」が大きな弱点であることが描かれた。
どれほど家族のことを「過去」とみなして葬ろうとしても、家族とはそう簡単に自分を切り離せない。
ハンの命を奪ったことがカイロ・レンの心が更に乱れたり、レイアへの攻撃を躊躇ったりしてしまったことが、それを象徴している。


そして今作でも、家族の存在がカイロ・レンの決断に大きな影響を与えた。
今作では、母レイアが命を落としたことと、父ハンの幻覚の説得により、ベンは改心して再びライトサイドに戻った。
レイアが自分の命をかけてまでしてカイロ・レンを引き戻したのは、『スター・ウォーズシリーズ』という家族を巡る物語の主要キャラクターの最期としては納得がいく。
また、家族の愛がカイロ・レンの決断に大きな影響を与えた意味では、『エピソード7』や『エピソード8』からカイロ・レンの人物像は一貫していた印象だ。




一方で、シークエル・トリロジー全体を俯瞰すると、今回のカイロ・レンの改心までの道筋が少しぎこちなく思える。
というのも、前作の『エピソード8』はカイロ・レンがシークエル・トリロジーの最後の敵 (ラスボス) となるような方向で製作されたからだ。
『エピソード8』で、それまでカイロ・レンのことを支配していたスノークを、カイロ・レンとレイが倒してしまった。
更には、カイロ・レンはスノークの代わりに自らがファースト・オーダーの最高指導者となって銀河系を支配しようと企んでいることも明らかになった。
このようなことから、『エピソード8』はカイロ・レンが『エピソード9』におけるラスボスになるためのお膳立てをしていたように思えた。


ただ、エイブラムス氏をはじめとする今作の製作陣は、『エピソード7』の製作段階からカイロ・レンは最終的に改心する人物として描く構想があったのだろう。
今作の脚本を共同執筆したクリス・テリオも、インタビューで以下のように述べている。

We felt that right from the beginning, when J.J. established Kylo Ren in Episode VII, there was a war going on inside him and that he had been corrupted by something bigger than himself and had made bad choices along the way. J.J. and I felt we needed to find a way in which he could be redeemed, and that gets tricky at the end of Episode VIII because Snoke is gone. The biggest bad guy in the galaxy at that moment seemingly is Kylo Ren. There needed to be an antagonist that the good guys could be fighting, and that’s when we really tried to laser in on who had been the great source of evil behind all of this for so long.

和訳: エイブラムス氏が『エピソード7』でカイロ・レンのキャラクターを確立させたときからずっと、彼の心の中には葛藤があり、自分より強大な何かの影響で落ちぶれてしまい、そのせいで間違った選択をしてきたのだと感じていた。私とエイブラムス氏は、彼を救う方法を見つけ出す必要があったが、『エピソード8』の最後でスノークがいなくなったのでそれが難しくなってしまった。その時点では、銀河系最大の悪はカイロ・レンになってしまっていた。良い奴らが戦うべき敵が必要だったため、これまでずっと誰が悪の源だったのかを集中して考える必要があった。


‘Star Wars’ Screenwriter Chris Terrio on Ending the 42-year ‘Skywalker’ Saga – Awardsdaily, 和訳は引用者による


だからこそ、カイロ・レンがシークエル・トリロジーのラスボスとなるように描かれた『エピソード8』の展開は、今作の製作陣にとっては都合が悪かったのだろう。
よって、ファースト・オーダーの最高指導者であるカイロ・レンが改心しても戦うべき相手が残るように、今作では急遽パルパティーンを復活させたり、ファースト・オーダーの上をいくファイナル・オーダーを作ったりしたのだと推察できる。
そして、ラスボスになるべき存在として確立されていた状態と、カイロ・レンが改心するというエイブラムス氏の当初の構想の間のギャップを埋めるために、今作は非常に駆け足で進行したのだろう。


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レイのファミリーネーム

シークエル・トリロジーにおける最も大きな謎の一つは、レイの出自だったといっても過言ではないだろう。
『エピソード7』時点では、レイのファミリーネームが作中では明かされなかったうえ、訓練を受ける前からフォースの技能を使うことができたため、ファンの間ではレイが誰か既存のキャラクターの子孫ではないのかと様々な憶測が飛び交っていた。
ただ、『エピソード8』では、そのような憶測に反し、レイの両親は「何者でもない」人たちだったことが明かされ、謎が解けたと思われていた。
これにより、オリジナル・トリロジーやプリクエル・トリロジーとは打って変わり、シークエル・トリロジーの主人公はスカイウォーカー一族とは無縁の存在といった設定になった。


個人的には、レイが「何者でもない」という、『エピソード8』が提示した答えは結構好きだった。
というのも、既存の有名なキャラクターたちの血筋から『スター・ウォーズシリーズ』を解放し、「誰でも銀河系を救う物語の中心になれる」ことを描くアプローチが非常に斬新だと感じたからだ。
つまり、『スター・ウォーズシリーズ』が「“選ばれし”スカイウォーカー一族の物語」から「血筋に縛られない物語」へと変わることができた。
このアプローチのおかげで、シークエル・トリロジーの存在意義がメタ的にも見出されたようにも感じられた。


一方で、今作でエイブラムス氏は、実はレイがパルパティーンの孫であることを明かした。
エイブラムス氏が『エピソード7』を製作していた時点で、レイ・パルパティーンの構想が実は『エピソード7』製作当初から既にあったことが推察できる。
コルサント出身の人たちが使うイギリス訛りの英語でレイが話していることや、『エピソード7』で使われた「レイのテーマ」というBGMが『エピソード6』で使われた「帝国軍皇帝」というパルパティーンのBGMに似ていたことが、その証拠だ。
ただ、『エピソード8』でジョンソン氏はそういったエイブラムス氏の構想を引き継ぐことなく、観客の「期待を裏切る」予想外の答えを提示した。
そして、以下のインタビューからも分かる通り、エイブラムス氏はジョンソン氏の『エピソード8』におけるアプローチに懸念を示していたようだ。

Abrams praised “The Last Jedi” for being “full of surprises and subversion and all sorts of bold choices.”
“On the other hand,” he added, “it’s a bit of a meta approach to the story. I don’t think that people go to ‘Star Wars’ to be told, ‘This doesn’t matter.’”

和訳: エイブラムスは、「驚きを与え、既成概念を破壊し、色々な勇敢な選択をした」として『最後のジェダイ』を称賛している。
「ただ、これは物語に対するメタ的なアプローチでもある。人々は、『これは重要じゃないよ』と言われるために『スター・ウォーズ』を観る訳ではないと思う」とも付け加えた。


Will ‘Star Wars’ Stick the Landing? J.J. Abrams Will Try - The New York Times, 和訳は引用者による


だからこそ、レイの出自に関する問題は『エピソード8』で解決されていたはずだったのにもかかわらず、『エピソード9』でエイブラムス氏は、当初の構想を実現させるためにレイに新たな出自を付与したのだろう。
レイが異常なくらいフォースを使い込ませていたことを考えるとレイが史上最も強大なシス卿と血縁的つながりがあることは何ら不自然ではないし、寧ろ『エピソード8』が提示した「何者でもない」という答えより説得力がある。


そして、レイの出自が変わっても、『エピソード8』で描いた「誰でも銀河系を救う物語の中心になれる」という『エピソード8』で描いたテーマに関しても、今作でもしっかりと引き継がれていた印象だ
今作では、自身が「悪」であるパルパティーンと血縁的につながっていることを知ったレイが、ダークサイドへの誘惑を断ち切って「善」のために戦った。
これは、たとえどれほど先祖が「悪」だとしても自分の意思次第で「善」のために戦うことができることを表している。
『エピソード8』のテーマに即しつつ、更に新しい解釈を付与してくれた点では、このアプローチもまた非常に面白い。


また、最終的にレイ・パルパティーンがレイ・スカイウォーカーを名乗ったのは、シリーズ最終作と銘打たれた今作の着地点として非常に理にかなっている
というのも、シリーズの原点を辿ると、やはり『スター・ウォーズシリーズ』はずっとスカイウォーカー一族の物語だったからだ。
『エピソード1』から『エピソード3』は、“選ばれし者”としてクワイ=ガン・ジンやオビワン・ケノービらによってジェダイ騎士へと育て上げられたアナキン・スカイウォーカーが、暗黒卿ダース・ベイダーへと変貌を遂げた経緯を描いた。
そして、『エピソード4』から『エピソード6』は、そんなダース・ベイダーと戦った息子のルーク・スカイウォーカーが、アナキンをライトサイドへと引き戻すまでを描いた。
このように、『スター・ウォーズシリーズ』は「遠い昔、はるか彼方の銀河系」の中でも、スカイウォーカー一族であるアナキンやルークたちが活躍した時代や場所に着目して描いてきた。


ルークやレイア、ベンは全員亡くなってしまったことで、今作の最終シーン時点ではスカイウォーカーの血筋が途絶えてしまっている。
そこで、レイアやルークとの関わりを通して、レイ・パルパティーンが代わりにスカイウォーカー一族の精神を受け継いだ。
「レイ・スカイウォーカー」と名乗る最後のシーンは、スカイウォーカー一族の精神が血筋を超えて継承されたことを表している
血筋にかかわらず自分の生き方は自分自身の意思で決められることを伝える、非常にパワフルなシーンだったと感じる。




ただ、よくよく考えると、レイがスカイウォーカーのファミリーネームを名乗ったことには違和感がある。
というのも、「パルパティーン」のファミリーネームは、暗黒卿のシーヴ・パルパティーンだけでなく、レイの両親との血縁をも表しているものだからだ
『エピソード8』では、レイの両親は、飲み代のためにレイのことを売った飲んだくれとして描かれていた。
一方で、今作では、レイをパルパティーンから守るために「何者でもない」人たちを装い敢えてレイを手放した人たちであったことが明かされた。
今回明かされたレイの両親の真相が本当なのであれば、レイが「パルパティーン」のファミリーネームを捨てたことにより、自分を守ってくれた両親との関係性を捨てたことになった。
そのことに気づいてしまうと、観客側はレイが「レイ・スカイウォーカー」と名乗ったことに首を傾げてしまう。


レイが「何者でもない」と明かされた『エピソード8』の状態と、レイが実はパルパティーン一族であったというエイブラムス氏の当初の構想との間のギャップを埋めるために、レイの両親がレイのことを守ってくれたという設定を後付けする必要があったのだろう。
ただ、レイの両親に関するこの話は、今作の中盤で一回持ち出したきりで、それ以降はまるで登場人物や製作陣がそれを忘れてしまったかのように物語が急速に進行してしまった。
そして、結果的に一つの作品内であるのにもかかわらず整合性が取れない状態を作ってしまった。


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死者の口が開いた!

ジョンソン氏が製作した『エピソード8』では、スノークも倒され、レイの出自を含め『エピソード7』で提示されたほぼ全ての謎が解明された。
これは、エイブラムス氏が思い描いていた物語へと繋げるためには非常に都合が悪い状況だったはずに違いない。
そこで、今作でシーヴ・パルパティーンを復活させることで、その両方の問題を解決しようと試みたのだろう。

よって、シークエル・トリロジーでこれまで暗躍していた黒幕であり、レイの出自を握る鍵としても登場した。


パルパティーンの復活について、エイブラムス氏はとあるインタビューで以下のように語っている。

When did you decide to bring Palpatine back? Was this discussed during The Force Awakens? Or was this more because Snoke is gone?

Well, when you look at this as nine chapters of a story, perhaps the weirder thing would be if Palpatine didn’t return. You just look at what he talks about, who he is, how important he is, what the story is — strangely, his absence entirely from the third trilogy would be conspicuous. It would be very weird. That’s not to say there was a bible and we knew what happens at every step. But when Larry Kasdan and I worked on The Force Awakens, we didn’t do it in a vacuum. We very purposely looked at what came before. We chose to tell a story that touches upon specific things and themes and ideas that we’ve seen before, to begin a new story. But we examined all that came before to ask where does this feel like it’s going?
So there were discussions about that at the time.

和訳: パルパティーンを復活させることはいつ決めたのですか?これは『フォースの覚醒』から考えられていたことですか?それとも、スノークがいなくなったから復活させたのですか?

9章で構成された一つの物語として見たとき、パルパティーンが戻ってこなかった方がおかしい。パルパティーンが何を考え、誰であり、どれほど重要な存在で、この物語そのものが何であるかを鑑みると、シークエル・トリロジーに彼が全くいないのはおかしい。いないとかなり不自然になるだろう。ある決定的な物語があり、何が起こるかを全て分かりきっていったとまでは言わない。だが、私とラリー・カスダンが『フォースの覚醒』を制作していたとき、私たちは別に隔絶された状態でやっていたわけではない。私たちは、それまでの作品を検討していった。新しい物語を始めるために、私たちは以前見たことがあるような特定の物事やテーマ、アイディアを扱う物語を描くことにした。だが、我々はそれまでの作品を分析し、この物語はどこへ向かいそうかを考えていった。
だから、それ (パルパティーンの復活) についてはその時から検討していた。


JJ Abrams Interview: ‘The Rise of Skywalker’ And Return Of Palpatine, 和訳は引用者による


考えてみれば、パルパティーンがラスボスになる展開は割と理に適っている。
というのも、『スター・ウォーズシリーズ』は、スカイウォーカー一族の物語であるのと同時に、パルパティーンの物語でもあるからだ。
『エピソード4』から『エピソード6』のオリジナル・トリロジーは暗黒卿の最高権力者としてのパルパティーンの君臨と転落を描き、『エピソード1』から『エピソード3』のプリクエル・トリロジーはパルパティーンが銀河皇帝へと登り詰める様を描いた。
ルークやアナキンらほどの出番はなかったものの、常に『スター・ウォーズ』の戦いの根幹にいたパルパティーンの存在感は確かなものだった。


ただ、シークエル・トリロジーにおいてもパルパティーンが最後の敵として君臨したことに、やはり唐突感は否めない
そもそも、『エピソード6』でアナキンが犠牲となってパルパティーンを倒したはずなのに、なぜ今作では復活しているのかが説明されていない。
それどころか、パルパティーンの復活が今作のオープニングクロールの説明でいきなり明かされたことに非常に驚いた。
実はカイロ・レンの脳内の声はパルパティーンの仕業だったと明かしたりして、何とかパルパティーンをシークエル・トリロジーの本筋ににねじ込もうとする努力は見えた。
だが、『エピソード7』や『エピソード8』でパルパティーンの暗躍を示唆せず、今作でもパルパティーンの復活をほとんど描かずに急ぎ足で物語を進めた。


結果的には、エイブラムス氏が思い通りのシナリオを描くために急遽復活させられたように見えて仕方がなかった。
実は、『ジュラシック・ワールド』なども監督したコリン・トレベロウ氏が当初今作の監督になる予定だったが、ルーカスフィルムの首脳陣とは「異なるビジョン」を持っていたため、2017年9月に降板が発表された*1
そんなトレベロウ氏は、以下のインタビューでこのように述べていた。

"Bringing back the Emperor was an idea JJ brought to the table when he came on board," Trevorrow says. "It’s honestly something I never considered. I commend him for it. This was a tough story to unlock, and he found the key."

和訳: 「皇帝の復活は、エイブラムスが抜擢された時に彼が出したアイデアだ。私はそれまでそのアイデアを検討したこともなかったので、彼のことを称賛したい。解くことが困難な問題に対する答えを彼が見つけたのだ。」


Star Wars: Colin Trevorrow On His Rise Of Skywalker Writing Credit And His Last Jedi Contribution – Exclusive | Movies | Empire, 和訳は引用者による

つまり、『エピソード8』の撮影が終了した2016年7月*2時点では、パルパティーンの復活まだ予定されていなかったことが分かる。
よって、今作でどうにか物語を綺麗に終わらせるために、エイブラムス氏が急遽パルパティーンの復活を決定したことが推察できるため、唐突に見えるのもある意味当然だ。


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結論

『スター・ウォーズシリーズ』ほどの知名度と人気が高いシリーズに、世界中の人々が納得するエンディングを作ることほど困難なことはなかったに違いない。
特に、前作『エピソード8』の評判が芳しくなかっただけに、エイブラムス氏はかなりのプレッシャーを感じていただろう。


そんな中、『スター・ウォーズシリーズ』の普遍的なテーマをしっかりと尊重しつつ、今日の世の中に合わせた新たなテーマをブレることなく一貫して描いた点においては、私はシークエル・トリロジーや今作に感謝を示したい。
テーマ的な部分に関しては、恐らくエイブラムス氏とジョンソン氏の間ではしっかりと引き継がれていたことが見て分かる。
そして、私自身もこのトリロジーを観終わった頃には描かれたテーマに非常に納得できた。


だが、シークエル・トリロジーの筋運びに関しては一貫性はなく、それが特に今作で露わになっている。
私はやはり、本筋に関して明確な計画がないままリレー形式で次作の監督や脚本家に物語の続きを委ねるといった、シークエル・トリロジーの製作体制に問題があった感じる
ジョンソン氏によって残された『エピソード8』後の状態と、エイブラムス氏が思い描いていたシークエル・トリロジーの筋運びの構想との間に大きなギャップがあったのだろう。
そして、その大きなギャップをたった一本の映画で埋める必要があったため、今作に急な展開が多いと感じてしまったのだろう


ルーカスフィルムに、二人の監督のゴールに対する認識を統一するリーダーシップがあれば、もう少しスムーズな筋運びになっていたのかもしれない。
『スター・ウォーズシリーズ』が大好きで、今作のことも待望していた一ファンとして、そこが残念で仕方がない。




感想『ジョーカー』はどのように「理解できない」悪役に理解をもたらしたのか

2019年で恐らく最も話題になった映画といえば、やはりトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』だ。


バットマンの敵であり、アメコミ史上最も有名な悪役であるジョーカーの単独作品だ。
ジョーカーは、邪悪なユーモアで残虐な犯罪を犯すヴィランとして我々に馴染みがある。
ゲーム感覚で笑いながら人の命を奪うところから、その狂った様が見て取れる。
その不気味な性格を見事に表現した映画として、『ダークナイト』が割と記憶に新しい。

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このような過去にジョーカーを描いた作品を観る限り、ジョーカーは我々には理解できないほど狂ってしまった存在だ。
今作は、これまでの作品で出自や背景がほとんど明かされなかったジョーカーに納得できる出自を付与するという難題を課されてしまった作品だ。


そんな今作は、国内外でかなりの人気を博していて、興行成績も非常に順調だ。

一方で、物議を醸している映画である点でもかなりの話題作だ。
というのも、今作が現実でも暴力を助長する「危険な映画」である、といった声もあるからだ。


良くも悪くも話題になっている今作を、普段はあまりアメコミ映画を観ない私も公開直後に観に行った。
なので、その感想を述べつつ、どのようなアプローチでジョーカーに出自を付与したのかを考察していきたい。


この記事では、マーティン・スコセッシ監督による二つの名作映画『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』についても触れていくことについては留意しておいてほしい。
というのも、今作はこの二作から色濃く影響を受けていることを、フィリップス監督が公言しているからだ。

He talked about the origins of his origin movie, how originally he pitched a whole new label to Warner Bros called DC Black, but instead zeroed in on turning out his vision of Joker, one that he essentially wanted to make because he felt you could get to do smart, dark 70’s/80’s style thrillers in today’s franchise oriented studio world by taking one of those characters and putting them in another milieu aping movies like Taxi Driver and The King Of Comedy rather than what was being done with other DC movies.

和訳: 彼 (トッド・フィリップス監督) は元々「DC Black」と呼ばれる新たなレーベルをワーナーブラザーズで立ち上げようとしたが、代わりに『ジョーカー』を製作することになった。というのも、昨今のフランチャイズ志向の映画界のキャラクターを『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』のような作品に似た世界の中で描くことで、70年代・80年代風のスマートで暗いスリラー作品を製作できると考えたからだ。それが、ジョーカーの出自を描く映画を製作した経緯だ。


[WATCH] Todd Phillips Talks ‘Joker’ And Director’s Career — Behind The Lens – Deadline, 和訳は引用者による


よって、この記事には今作だけではなく、『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』に関するネタバレも含まれている。


ジョーカー(字幕版)


この記事には、映画『ジョーカー』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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都会の中の孤独

恐らく、『ジョーカー』を観に行ったほとんどの人は、ジョーカーがどんなヴィランなのかは知っていただろう。
なので、今作には、”ジョーカー”という結果よりかは、”一人の人間がジョーカーに至るまでの経緯”で観客を惹きつける構成にする必要があった。


そんなジョーカーに変貌してしまった人間を描くべく、荒れ果てたゴッサムシティに生きるアーサー・フレックを主人公に据えた。
アーサーは、大道芸人として働きながら母親の介護をし、”発作的に笑いを起こす病気”を患いながらも、母の「どんな時も笑顔で」という言葉を信じて「人々を楽しませる」ために行動する人間だ。


しかし、ゴッサムシティはアーサーの「人々を楽しませる」ための行動、ましてやアーサー自身の存在すらをも認めてくれない
例えば、些細なところで言うと、自動ドアに認識されずに、立ち往生してしまったり。
大道芸人として人々を笑わせようとしたら、不良少年たちに邪魔されてボコボコにされたり。
自分の悩みや苦しみを打ち明ける場所となっていた社会福祉プログラムのカウンセリングが、市の財政難により打ち切られたり。
電車の中で変顔をして子供を笑わせようとしたら、その子供の母親に怒られたり。
母ペニーに寄り添いながら頑張って介護していたら、実はペニーがアーサーを騙していたことが判明したり。
とにかく、社会がアーサーの行動や存在そのものを認めてくれないため、アーサーはどんどん社会から孤立していくようになる。




『タクシードライバー』の主人公トラヴィス・ビックルも、アーサーと同じく社会からの孤立で悩んでいた人間だ。

そんなトラヴィスは、帰還兵でありながら不眠症を患っていたせいで、社会での居場所を失くし、更には周囲からズレた”普通でない”感覚を持つようになった人物として描かれている。
そして、”普通でない”感覚を持つからこそ社会に上手く適応できずに結果的に孤独になってしまう。
トラヴィスがベツィという女性をデートで卑猥な映画に連れて行き、それに腹を立てたベツィにフラれてしまうシーンなどは、まさにトラヴィスの社会からのズレを表している。


今作でも、アーサーは周囲から見たら”普通でない”せいで社会から孤立していることが描かれている。
アーサーの場合は、”発作的に笑いを起こす病気”を患っていることが、社会とのズレの原因となっている。
コメディを見ているときにアーサーの笑いのツボが周囲とはズレていることを描くシーンなどが、その一例だ。


ただ、『タクシードライバー』のトラヴィスに寄り添おうとしてくれる人は一定数いたものの、アーサーの周りにいる人々のアーサーに対する態度はかなり酷だ。
アーサーの人生においては、一番大切にしてくれるはずの両親さえもが彼に寄り添ってくれなかったのだ。
そう考えると、今作は、孤独という社会問題をより悲劇的なものとして描いている。




「孤独」は多くの人々が直面している現実であり、世界的にかなり問題視されている。
例えば、イギリスでは「孤独担当大臣」が新設されたことからも、その問題の深刻さが見て取れる。

人間関係が希薄になりがちな都市でそのような現象が特に見られ、日本では東京などの大都会でも「孤独」が問題となっている。
例えば、以下のリンク先の記事からも分かる通り、孤独死が全国的にも年々増加傾向にあり、特に東京23区では問題になっている。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/3123.php


「孤独」という問題は、現代社会に生きる多くの人にとっては決して他人事ではないだろう。
だからこそ、アーサーのような孤独の中で生きる人の境遇に理解を示すことができる。


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嘲笑われる「バケモノ」

『タクシードライバー』との大きな違いの一つは、アーサーの精神疾患そのものがゴッサムシティの人々から疎外される原因になっている点だ。
電車の中で発作的に笑い始めたときに、同じ車両にいた証券マンたちに痛い目に遭わされたり。
自身のコメディショー中に発作的に笑い始めた映像が、テレビ番組「マレー・フランクリン・ショー」で滑稽にされたり。
なので、アーサーは誰にも受け入れられず、結局社会からは「バケモノ」として拒絶されてしまう。


アーサー自身は“普通でない”状態から抜け出し、”普通”になろうと努力していることが伺える。
例えば、社会福祉プログラムのカウンセリングで処方薬を増やすようにも要求するシーンが、それを表している。
ただ、カウンセリングが打ち切られたことで薬を処方してもらえなくなり、その”普通”になろうとする努力までもが認められなくなった。


そんなアーサーが自分のネタ手帳に書いた以下の言葉が映し出されるシーンがある。

The worst part of having a mental illness is people expect you to behave as you don't.

和訳: まるで精神疾患を患っていないかのように行動することを求られるのが、精神疾患を患うことの最も嫌な点だ。


― 映画『ジョーカー』(2019), 和訳は引用者による


この言葉は、冷酷な社会の中で生きるアーサーがコントロールできない病気と向き合いながら味わっている閉塞感を表している。
”普通でない”ことが認められないゴッサムシティで生きないといけないアーサーの人生は正に悲劇だ。




世界では、精神疾患が増加していることもあり、近年その問題は更に注目されるようになってきた。

しかし、やはり精神疾患の問題には十分な対策が講じられている世の中になっているとは言いにくい。
その結果、精神疾患を患った人に関する事件は、世界中で今もなお後を絶たない。
日本でも、障がい者の少年を父親が檻に監禁していたという事件が最近話題になった。


このように、支援体制が不十分であったり、一人ひとりの精神疾患への理解が欠如していたりすることは、ゴッサムシティだけでなく現代社会にも通ずる部分だ
そして、精神疾患だけでなく、世間一般で言う”普通”とは違う人に対する差別や偏見がまだまだ我々の現代社会には根付いている。
だからこそ、精神疾患の影響で社会から疎外されているアーサーの悲劇的な人生に、我々は理解を示すことができる。


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承認欲求の渇望

人間は、「孤独」に対して苦痛を感じる仕組みを持つ生き物だ。

古代から、人間が敵と戦い自らの生存を担保していくためには、何より、他者(仲間)との結びつきが必要だった。敵を倒すために共に戦う。食べ物を共に確保し、分け合う。そのつながりから放り出され、孤立することはすなわち「死」を意味していた。「孤独」は、のどの渇きや空腹、身体的な痛みと同じ脳の回路によって処理され、同等、もしくはそれ以上の苦痛をもたらす。

そのつらさを避けようと、水を飲んだり、食べ物を口にしたりするように、孤独な人も「苦痛」から逃れるために、自らつながりを求めるようになる。これが人を孤独から遠ざける、本能的なディフェンスメカニズム(防御機能)の基本的な仕組みだ。


無差別殺傷を引き起こす絶望的孤独の正体 世界一孤独な国を作った我々の責任 (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)


そんなアーサーは、孤独から逃れるために社会からの承認を求め、それが結果的にアーサーのジョーカーへの変貌の鍵にもなった。


『タクシードライバー』の主人公トラヴィスと、『キング・オブ・コメディ』の主人公パプキンも、承認欲求に渇望する人たちである点では今作と共通している。
『キング・オブ・コメディ』で、主人公のルパート・パプキンは、憧れのテレビ番組「ザ・ジェリー・ラングフォード・ショー」に出演するために、ジェリー・ラングフォードを誘拐してしまう。

このシーンは、社会的な罪を犯してまでして名声を手に入れたかった、承認欲求に渇望する男の姿を映し出している。


アーサーは、自身の孤独を埋めようとして「世間 (社会) からの承認」に対する憧れがどんどん肥大化する。
例えば、自分がショーで観客を笑わせたり、ソフィーに愛されたりする姿を妄想していたのは、現実世界では満たされない承認欲求を、アーサーの脳は妄想を生み出すことで必死に満たそうとしていた、ととらえることができる。
また、アーサーがマレー・フランクリンに憧れていることからも、名声への執着心も見えてくる。


面白いことに、『キング・オブ・コメディ』で「ザ・ジェリー・ラングフォード・ショー」の司会者に憧れていたルパート・パプキンを演じたロバート・デ・ニーロさんが、今作では今度はアーサーに憧れられるマレー・フランクリンを演じている。
このキャスティングは意図的なものであったと、今作のフィリップス監督も認めている。

フィリップス監督は「トークショーのホストが30年くらいその番組をやっているように感じさせたかった。その役のキャスティングで僕と脚本を一緒に書いたスコット・シルバーの夢はロバート・デ・ニーロだった。理由の一つはマーレイがロバートだから。そして少し『キング・オブ・コメディ』とのつながりがあるんだ」と、マーレイはロバート自身のように誰からも憧れられる存在で、さらに1982年の映画『キング・オブ・コメディ』でロバートが演じたコメディアン志望の男性へのオマージュでもあると明かす。


https://www.excite.co.jp/news/article/Dramanavi_045835/


同じくロバート・デ・ニーロが演じる『タクシードライバー』のトラヴィスは、暴力によって社会に自分の存在を知らしめそうとした。
というのも、社会が敵であったトラヴィスにとって、その社会の象徴でもある「クズ」どもを排除することがトラヴィスなりの自己主張だったからだ。


今作におけるアーサーも、結果的に暴力でしか承認欲求を満たせなかった人間だ。
電車の中で証券マンたちの命を奪ってしまった事件は、そんなアーサーの承認欲求を満たすきっかけとなる。
というのも、アーサーが起こした事件は、富裕層への復讐として貧困層に称賛され、社会に”混乱”を巻き起こす社会問題となったからだ。
アーサーとしては、ただ自分のことをからかう人間を排除したに過ぎないものの、結果的にアーサーへの間接的な承認につながったことに変わりない。
更に、「マレー・フランクリン・ショー」でマレーの命を奪ったことで、アーサーという人間が直接的に脚光を浴びることができた。
マレーがアーサーのことをからかってきたことが発端となったこの出来事が、更なる”混乱”を巻き起こし、ゴッサムシティは更に荒れてしまった。


自分がこの世に存在しているかどうかが分からなくなるほど社会に拒絶されてきたアーサーが、”混乱”を巻き起こしてその社会を破壊しようとした結果、初めて社会的に気づかれる存在となった
そして、得られた承認に快感を覚えてしまったからこそ、反社会的な存在としてのジョーカーは生まれてしまった


ゴッサムシティの貧困層も、アーサーと同様に承認を求める人たちであることが描かれている。
裕福な上流階層の人たちに、自分たちの困窮状態に気づいてもらおうするが、上流階層はその現状を無視し続ける。
その象徴として、上流階層のウェイン一家は、街中でデモが起きている間に平気で映画『ゾロ』を鑑賞していたシーンがある。
ゴッサムシティの貧困層は暴徒と化することで漸く上流階層たちに気づかれるようになるが、更なる承認を求め続けた結果、最終的には終盤のような”混乱”を巻き起こすことになる。
つまり、社会の一員として見なされ続けなかった貧困層が、”混乱”を巻き起こしてその社会を破壊しようとした結果、初めて社会的に気づかれる存在となった


ゴッサムシティの人々がアーサーを社会から排除しながら、皮肉なことに同じゴッサムシティの人々が社会を破壊するアーサーの言動を称賛したからこそ、ジョーカーが生まれてしまった。
つまり、ジョーカーは「ゴッサムシティが生んだ悪」と解釈することができる。


勿論、人の命を奪う行為は決して許されるべきではないし、如何なる理由であれ肯定してはならない。
ただ、承認欲求は誰にでもある感情だからこそ、そのせいで歪んでしまったアーサーのことが観客にはなんとなく理解できる
SNSの登場により、誰でも簡単に発信できる場が生まれた今の時代だからこそ、余計に我々には分かる。
たしかに、やり方次第では自分が発信したことを世界中に広めることもでき、承認欲求を満たすための手段としては非常に魅力的だ。
だが、誰でも簡単に発信できる場だからこそ、近年問題視されている「バカッター」や「バカスタグラム」のような、承認欲求を満たすために反社会的行動を起こしてしまう現象が起こってしまう。

だから、特に今日を生きる我々にとって、ジョーカーへの変貌の裏にあったアーサーの心境を読み解くことは難儀ではない。


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結論

映画『キング・オブ・コメディ』のラストで、主人公のルパートがテレビ番組「ザ・ジェリー・ラングフォード・ショー」で自分自身の悲劇的な人生を面白おかしく語ることで番組視聴者からの笑いを誘発したシーンがある。
これは、自分から見たら悲劇的な人生が、他者から見たら喜劇であることを表している。
正に、「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇」というチャップリンの有名な言葉通りだ。
そして今作も、ゴッサムシティの人々から喜劇と見なされ揶揄われるアーサーが、その裏で苦しむ悲劇的な人生を描いている。


今作では我々観客は終始アーサー視点でアーサーの「悲劇」の物語を「主観」に近い立場で体験してきた
アーサーが登場しないシーンが今作にはほぼないことからもそれが分かる。
そのうえ、アーサー視点で語られた今作の出来事の、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでがアーサーの妄想なのかを、我々観客が明確に断定することは難しい。
このように、我々はアーサーの妄想や、その妄想から覚める瞬間をもアーサーの視点で追体験するため、余計アーサーの「悲劇」を「主観」で味わっている気持ちになることができる。
よって、我々はまるでアーサーの気持ちになってその「悲劇」を理解したかのように物語に没入することができた。


そのうえ、孤独や精神疾患、承認欲求といった、アーサーが今作で抱えている問題は、どれも現代にも通ずるものだ。
だからこそ、我々は余計にアーサーの気持ちを理解できたかのような気持ちになってしまう。


しかし、どれほど「主観」に近い立場で「悲劇」を味わったとしても、結局我々は完全にアーサーの気持ちを理解することはできない。
というのも、我々が今作を鑑賞する際に一番近くで見ているはずのアーサーの肝心の感情を、我々は知る術がないからだ。
”発作的に笑いを起こす病気”を患っていたり、ピエロのメイクをしていたり、アーサーのその時の感情が分からない場面が多い。
だからこそ、我々観客は自分をアーサーの立場に置き換えて、アーサーの感情を推察するしかない。
そう考えると、「主観」でアーサーのことを理解できたつもりでいるだけであって、実は我々もゴッサムシティの人々と同様、あくまでも「客観」でアーサーを眺めているだけに過ぎない


我々がアーサーの「悲劇」を追体験したとしても、それを通してアーサーが何を感じたり思ったりしたかを理解することができない。
だから、アーサーがどこで、どのタイミングで、なぜジョーカーになったのかは、結局鑑賞後にも我々には分からない。
また、アーサーがどのような思考に基づいて行動するのかも我々には分からない。
それが、最後のアーサーの「理解できないさ」という言葉につながる。


メディアは、犯罪が起きるとその犯人の思考を解明しようとすることが多い。
犯人の思考が理解できないと怖いし落ち着かない、と言った考えを持つ人が多少いるからこそだ。
2008年に発生した秋葉原通り魔事件の犯人なんかも、その犯罪を理由づけるために「容姿へのコンプレックス」「非正規雇用」「オタク」などの分かりやすいレッテルをメディアは貼った。
ただ、犯人は自身の著書でそれらを否定している。

メディアが貼るレッテルは、結局ただの第三者の勝手な思い込みであって、実際には犯人のことを全く理解できていない。
結局、自分のことを理解できるのは自分自身だけだ。


今作がジョーカーの出自を描く作品だと知り、「理解できない」ジョーカーを何とか理解しよう、と思って劇場に足を運んだ人が多いはずだ。
だが、我々は今作を観て、アーサーのことを理解している気になれても、実際には真の意味では理解することができなかった
これはもちろん、製作陣が意図したことであったはずだ。
アーサーの「悲劇」を徹底的にアーサーの主観で描くことで、観客を「理解したつもり」にさせたことが、今作の最も巧妙な部分だったと感じる。
結局、アーサーがジョーカーになった理由は、アーサー自身にしか分からない




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