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仮面ライダー・映画・音楽に関する感想と考察。

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感想 『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』という怪作はなぜ生まれてしまったのか

2019年7月26日、私は『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』の公開初日に、朝イチの回を観てきた。
前作『仮面ライダー平成ジェネレーションズForever』は試写会がなく、公開当日までサプライズレジェンドゲストの登場が伏せられていた。
一部のインタビューで、今作でも何かしらのサプライズがあることが示唆されていた。

――冬の映画では、歴代平成仮面ライダー19人がそれぞれの得意技を披露し、見せ場たっぷりに活躍していましたが、今回も歴代仮面ライダーの大集合を期待してもいいでしょうか。そして、ジオウに続く新たな仮面ライダーとして先日発表があった『仮面ライダーゼロワン』の"初お目見え"があるかどうかも気になります。

すでに仮面ライダーマッハ/詩島剛(演:稲葉友)の登場は発表されていますけれど、他にも意外な仮面ライダーが姿を見せるかもしれません。詳しくは公開日まで言えませんが、仮面ライダーを本気出して"復活"させると、ここまでやるぞ、ということだけは申し上げておきます(笑)。そして、毎年夏のお楽しみですので、ファンのみなさんへの"お土産"として新たな仮面ライダーの姿もお見せできると思いますよ。

『仮面ライダージオウ』田崎竜太監督、映画は「平成仮面ライダーを総括する意味での最終回」 (1) | マイナビニュース


というわけで、ネタバレを踏む前に映画を観てやろう!と考えて、できる限り早く観に行った。
そんな私が今作を観て感じたことを思うがままに書きつつ、なぜこのような怪作が出来上がったのかを分析していきたい。


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この記事には、映画『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』や『仮面ライダージオウ』、その他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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最後の継承


今作は、何者かが『仮面ライダードライブ』のクリム・スタインベルトの祖先だと思われる織田信長の歴史に干渉することでドライブとマッハを歴史から抹消しようと目論んでいることを受けて、クリムがソウゴたちに助けを求めるところから始まる。
そして、ソウゴたちは仮面ライダーマッハである詩島剛に出会い、共に戦うことになる。


『仮面ライダージオウ』テレビ本編では、『EP39 2007: デンライナー・クラッシュ!』で電王ライドウォッチがソウゴの手に渡ったのを機にライドウォッチは一応全て揃った。
しかし、ゲイツがオーマジオウから未来で奪ったためソウゴの手元にあったドライブライドウォッチのみ、真の意味で「継承」されていなかった。
そんなわけで、最後まで継承が残されたドライブライドウォッチがジオウの物語における「鍵」となることを多くの人が期待した。


ところが、実際に今作を観ると、ドライブの継承が最後まで残された理由や、わざわざ今回の劇場版でフィーチャーした理由が見当たらなかった
恐らく出演可能なキャストが揃うまで待ったりした結果、たまたま「ドライブ編」が最後まで残ってしまったのだろう。
そして、クリムを演じるクリス・ペプラーが明智光秀の末裔であるという理由で織田信長と共演させるというメタにもつながって今作の脚本は生まれたのだろう。
『仮面ライダージオウ』という作品の「レジェンドから逃げない」というスタンスによる影響ではあると思うし、仕方ないと割り切るしかないのかもしれない。
ただ、今作でのドライブ勢の客演は代替可能なものになってしまっていたため、ドライブでないといけなかった正当な理由がこじ付けでもされなかったのが少し残念だ。




ところで、『仮面ライダージオウ』がテレビ本編でレジェンドと関わってきた理由は大きく分けて二つあると私は個人的に考える。


一つは、ソウゴがレジェンドたちの考えや価値観に触れ、王として成長していくためである
アナザーライダーの誕生によってレジェンドたちの変身能力は奪われるが、変身できない「ただの人間」となったレジェンドと関わることでソウゴは一人の人間であるレジェンドたちの考えや価値観に触れることができる。
それらに触れていきながらそれぞれのライダーのライドウォッチを手に入れることで、レジェンドの力を真の意味で「継承」していった。


そしてもう一つは、過去作で描き切れなかった内容を補完することで、その作品を本当に終わらせるためである
例えば、『仮面ライダー剣』の最終話で休戦状態となったバトルファイトに終止符を打った「剣編」や、『仮面ライダー響鬼』で”響鬼”を襲名することができなかった桐谷京介が響鬼に変身した「響鬼編」などがこの分かりやすい例だ。


今作で剛がソウゴたちに助けを求める理由は、「ダチであるチェイスの歴史を守るため」である。
というのも、クリムの歴史を消してしまうとロイミュードも存在しなかったことになってしまうからだ。
「ダチを助けること」は剛が『仮面ライダードライブ』作中でチェイスから学んだことであり、それが今回の剛の動機になっていることには納得がいく。
しかし、今作の段階でソウゴはゲイツやウォズと既に友情を育んでいるため、剛のその姿を見て学ぶことは特段なかったとも言えよう。
もしもう少し早い段階でこの「ドライブ編」があったら、ソウゴたちがレジェンドから学ぶいい機会にもなったはずなので、その点が少し残念だ。


また、『仮面ライダードライブ』のテレビ本編を補完するような要素が今作にはほとんどなかったことも悔やまれる。
東映特撮ファンクラブで製作された『ドライブサーガ 仮面ライダーブレン』の最後で剛がチェイスの復活を試みていることが明かされたので、今作では『仮面ライダードライブ』のテレビ本編の続きとしてチェイスの復活を描くのかとてっきり思っていた。
だが、実際に今作は『仮面ライダーブレン』の物語とはほとんど繋がりがなく、チェイスの復活は果たされなかった。
ただ、テレビ本編の『EP47 2019: きえるウォッチ』でチェイスが復活することが先日判明した。

『仮面ライダージオウ』のテレビ本編でこそ、『仮面ライダードライブ』を補完したりしてくれることに私は期待したい。


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平成ライダーとは?

今作の大きな柱の一つとして、「平成ライダーとは?」という問いかけがある。


『仮面ライダー』から『仮面ライダーBLACK RX』を「昭和ライダー」、『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダージオウ』までを「平成ライダー」とまとめるようになった。
『仮面ライダーBLACK RX』と『仮面ライダークウガ』の放映の間に約10年程のブランクがあったことや、その二作品を境に作風が大きく変わったことを受けて、最初はファンの間で「昭和ライダー」や「平成ライダー」と非公式で括るようになった。
その区切り方がいつのまにかは公式でも採用されるようになり、『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat. スーパー戦隊』と言った映画が制作されたりするようになった。


そして20作目の平成仮面ライダーシリーズである『仮面ライダージオウ』の放送は、2019年春の上皇さまの生前退位と新元号「令和」の始まりと丁度重なった。
"平成"ライダーという区切りができてしまったのだから、当然『仮面ライダージオウ』は平成ライダーの最後を飾る作品となった。
そんな『仮面ライダージオウ』は、「平成ライダー」と呼ばれる『仮面ライダークウガ』以降にテレビで放送された仮面ライダーたちと出会い、その力を継承していく物語を一年間描いてきた。




そんな『平成仮面ライダーシリーズ』は、基本的に各作品の設定や世界観が独立しているのが大きな特徴だ。
よって、一年間の放送が終了すると次の作品で全く新たな設定や世界観の新しい仮面ライダーが登場する。


そこで、今作の敵であるクォーツァーは、平成ライダーの歴史を「美しくない」ものと称してそのリセットを試みる。
振り返ってみれば、この20年間の作品群を見ていると、作品毎の設定や世界観があまりにも異なるため、綺麗なまとまりはないし一貫性もない。
また、映画や派生作品でのクロスオーバーが全て正史だと仮定すると矛盾が生じる。
平成ライダーの主役ライダーが並んだ時、色やスーツデザインが全員異なるので、『スーパー戦隊シリーズ』の歴代レッドが並んだ時の画と比べると統一感もない。


それに対してソウゴは、たとえ凸凹で不揃いの物語であっても、その瞬間瞬間を必死に生きて戦ってきたことが大切なのだ、といういかにも彼らしい反論をする。
これは、これまでソウゴが「平成ライダーの力の継承」を通して、平成ライダー20作品の物語の登場人物や、その物語で描かれたテーマに触れてきたから言えることだろう。
ソウゴの「平成ライダーの力の継承」には、より良い未来を創る目的以外にも、平成ライダーたちの過去を肯定する意味合いもあったのだと考えると、なかなか感慨深い
レジェンドたちと心を通わせることで継承を進めてきたソウゴだからこそ、平成ライダーの歴史の肯定により説得力があるのだろう。


メタ的な話で言えば、物語が凸凹で不揃いなのは『平成仮面ライダーシリーズ』が”挑戦”の歴史を歩んできたからだ
既存の”仮面ライダー象”を破壊した『仮面ライダークウガ』に始め、シリーズ存続の危機に陥ていた『仮面ライダーアギト』から『仮面ライダーカブト』、初めてクロスオーバーを試みた『仮面ライダー電王』と『仮面ライダーキバ』、10年間の平成ライダーを破壊して繋げた『仮面ライダーディケイド』、ある程度フォーマットを確立させた『仮面ライダーW』から『仮面ライダーウィザード』、そこから抜け出そうとした『仮面ライダー鎧武』から『仮面ライダーエグゼイド』、時間帯変更への対策を強いられた『仮面ライダービルド』、そして平成ライダーの最後を飾る役目を担った『仮面ライダージオウ』。
どの作品も、その時代の子供たちを楽しませるために製作陣が必死に挑戦を続け、色々なテーマを扱ってきたのだ。
その挑戦の全てが成功だったとは限らないが、一つひとつの挑戦の積み重ねのおかげで『平成仮面ライダーシリーズ』が20年間続くことができた。
だから、その道のりが凸凹で不揃いだったのは当然のことだし、仮に保守的な”舗装された”作品だったらシリーズはこれほど続けなかったかもしれない。
そして、令和ライダー以降の『仮面ライダーシリーズ』も挑戦を続けていく必要がある。
だからこそ、平成が終わり令和が始まるこのタイミングで、平成ライダーの挑戦を肯定する必要があったと考えていいだろう。




ところで、『仮面ライダージオウ』のテレビ本編は、凸凹で不揃いな平成ライダーを一つの作品で強引にまとめようとした作品だと考えることができる。
『平成仮面ライダーシリーズ』の設定や世界観がバラバラだったため、『昭和仮面ライダーシリーズ』のように過去ライダーが現行ライダーを特訓したり助けたりする場面はクロスオーバー映画以外では原則的にはなかった。
よって、「全国規模・世界規模で事件が起きているのに過去作の仮面ライダーは一体今何をしてるんだ」と言った疑問が生じることもあった。
なので、この『仮面ライダージオウ』という作品はそのような矛盾を解消しようとして、「実はタイムジャッカーやライドウォッチの仕業でそれぞれの仮面ライダーシリーズの設定や世界観が消滅していて、そのおかげで毎年新しい設定や世界観の仮面ライダーが始まっていた」、と言った理由付けをしようとした。
加えて、各作品を基本的には二話ずつで扱い、作品のテーマや価値観をギュッと凝縮して、それを常磐ソウゴたちが継承していった。
そう、後付けで平成ライダーの物語の整合性を取ろうとしつつ、各作品のテーマを一つの作品に集約しようとしていたことを考えると、『仮面ライダージオウ』はまさに「平成ライダーのまとめ」的な役割を担っている。


とはいえ、『仮面ライダージオウ』が行った「平成ライダーのまとめ」は果たして本当にやるべきだったのだろうか、という疑問はある。
『仮面ライダージオウ』はオリジナルの作品尊重して描いてきたが、それでも各作品の設定や世界観を紹介しつつ、その作品が50話程かけて描いてきた物語の中で生まれた考えや価値観をたったの二話に凝縮することにはかなり無理がある。
加えて、オリジナルキャストのゲスト出演などにもかなりの制約があるため、思い通りのシナリオを必ずしも書けるわけではないという「大人の事情」もある。
『仮面ライダージオウ』は「平成ライダーのまとめ」という無理難題な課題に真っ向から向き合ってきたが、色々と惜しい部分があったことは事実だ。


そして今作は、そんな『仮面ライダージオウ』がまとめようとした「平成ライダー」の定義そのものにも疑問を呈している
というのも、たしかに『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダージオウ』までの間にテレビ朝日系で放送された作品は20作品ではあるが、その他にも平成の間に製作された作品はたくさんあるからだ。
例えば、今作に登場した劇場版限定ライダーたちも平成に製作されたライダーでありながら「平成ライダー」の定義から惜しくも外されてしまったライダーをモチーフにしていて、バールクス (BARLCKX) は『仮面ライダーBLACK RX』、ゾンジス (ZONJIS) は『仮面ライダーJ』『仮面ライダーZO』『真・仮面ライダー』、ザモナス (ZAMONAS) は『仮面ライダーアマゾンズ』をモチーフにしている (名前もそれぞれのモチーフライダーのアナグラムになっている)。

そして、最終決戦では、東映特撮ファンクラブでスピンオフが製作された仮面ライダーブレン、SMAPの稲垣吾郎さんが『50時間テレビ』で演じた仮面ライダーG、『舞台 仮面ライダー斬月』の仮面ライダー斬月カチドキアームズ、auビデオパスでオリジナルコンテンツとして製作された仮面戦隊ゴライダー、漫画版の仮面ライダークウガまでもが登場して戦いに参加した。
これらのネット・舞台・漫画等の様々なメディアでの展開も含めて、全て『仮面ライダーシリーズ』がその時代時代に合わせて模索を続けてきた挑戦とも言うことができる。


もっと言うと、今作のサプライズゲスト枠の木梨猛も、フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナーとして製作された東映非公認の仮面ライダーのパロディ『仮面ノリダー』の登場人物だ。
パロディとはいえ、本家への愛が溢れる真面目に製作されたパロディとしても知られている。
しかし、今作で木梨が「ライダーとして認められなかった」と嘆く場面があったように、当初は無断パロディである『仮面ノリダー』のことを『仮面ライダー』の製作陣は良く思っていなかった、という背景がある。
そんな木梨までもを今作に登場させて「平成」の時代を築き上げてきたレジェンドの一員と認めたことで、「仮面ライダー」というコンテンツの幅広さと無限の可能性を改めて実感させてくれた




こう振り返ってみると、「平成」という時代の「仮面ライダー」は挑戦の連続だと言えよう。
その挑戦の結果、クォーツァーが主張する通り、平成ライダーはかなりカオスな状態になってしまった。
「平成ライダーとは?」と聞かれても、明確な定義など存在しないし、その模索自体が無意味だ。
だからこそ、そんな挑戦の数々を「平成ライダー」と一括りにしてまとめることはできないし、まとめること自体ナンセンスなのだろう
「平成ライダーの舗装」のために書かれた「逢魔降臨歴」をウォズが破り捨てるシーンこそが、「平成ライダーのまとめ」の否定の象徴ととらえることができる。
「『仮面ライダージオウ』で平成ライダーをまとめようとしたけど、平成ライダーの魅力が多すぎて無理だったわ!」と言った製作陣の盛大な開き直りを今作で爆発させたかのように私は感じた。
私はこの結論にかなりの衝撃を受けたが、よくよく考えてみると、平成ライダーの最終作である『仮面ライダージオウ』の集大成であり、「平成仮面ライダー、最終章」と銘打たれた今作におけるこれ以上納得のいく結論はきっとなかったのだと感じる
平成ライダーの挑戦の連続によって生じたカオスは肯定する必要があったし、そのカオスは決してまとめることはできないのだからだ。


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替え玉の王


ISSA演じるクォーツァーのリーダーが常磐SOUGOであり、我々が知る主人公の常磐ソウゴはライドウォッチを代わりに集めるために王として仕立て上げられた存在にすぎないということが、今作で衝撃の事実として明かされた。


メタ的な話をすると、常磐ソウゴという存在は、「平成ライダーのまとめ」を行い、ライドウォッチを集めるために製作陣によって作り上げられた存在だ。
というのも、レジェンドの力を継承するためと、平成二期では定番となった小物玩具を販促するために、ライドウォッチ集めが必要だからだ。
時には強引な継承の仕方もあったが (ダブルライドウォッチの継承が特にその例として挙げられることが多い)、それでも全ライドウォッチを集めることを使命に課せられたソウゴは今作までにそれを成し遂げた。
そういう意味では、常磐SOUGO率いるクォーツァーは製作陣 (白倉・武部プロデューサー) ととらえることもできるし、それによって作られた常磐ソウゴは製作陣の思惑通りに都合よく動かされていた駒だとも言えよう。
(ウォズが視聴者の存在を認識しているかのような描写が所々散りばめられていたことを考えると、クォーツァーを製作陣に重ねることは容易だ。)
製作陣がソウゴを人の好い人物に描いたのも、レジェンドたちがソウゴを信用してライドウォッチを託すようにさせるためだと考えることもできる。


だが、前項でも述べたように、『仮面ライダージオウ』が試みた「平成ライダーのまとめ」を今作は否定した。
そうなると、『仮面ライダージオウ』は、製作者の都合でライドウォッチ集めをさせられて、後付けで都合よくその行為を否定されてしまっただけになる。


そこで今作は、「王になりたい」という動機はクォーツァーたちによって植え付けられたものではなく、実はソウゴは最初から王になりたいと思っていたのだと明かした。
ソウゴはライドウォッチを集めるために製作陣によって生み出された存在だったが、今作が「平成ライダーのまとめ」を否定したことによってソウゴの存在意義そのものがメタ的に揺らいでしまった。
だからこそ、ソウゴがライドウォッチを集めていたのは「平成ライダーのまとめ」をするためではなく、思うがままに生きて「王になりたい」という望みをかなえるためだった、と描く必要があったのだろう
でないと、今作は『仮面ライダージオウ』が一年間紡いできた物語そのものを否定してしまうことになるからだ。


よくよく考えると、「王になりたい」というソウゴの動機があったおかげで、『仮面ライダージオウ』という作品はただライドウォッチを集めるだけの番組ではなく、物語を持った作品として成り立っていた
そういう意味でも、「王になりたい」ソウゴの物語を肯定するのは、『仮面ライダージオウ』の物語を肯定するためには必要不可欠なプロセスだったと言えよう。


このように、『仮面ライダージオウ』の物語そのものも肯定してくれた点では、今作は『仮面ライダージオウ』の一つの到達点として見ると非常に腑に落ちる作品となっている。


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結論

『平成仮面ライダーシリーズ』は、20年間コンテンツとしてあり続け、時代を生きる多くの人たちに愛されてきた。
決して平たんな道のりではなかったが、その時代の諸条件に合わせながら、より多くの人々を楽しませるために必死にコンテンツとして生き続けてきた。


1年間放送する番組だったとしても、必ずしも計画があるわけではないし、仮に計画があったとしてもそれが変更されることは多々ある。
そのような勢い任せの作り方が「ライブ感」と呼ばれ、シリーズに長らく携わってきた白倉プロデューサーが主となってこの手法でシリーズを盛り上げ続けてきた。
このライブ感のおかげで、このシリーズは20年間も続くことができたのかもしれない。


『仮面ライダージオウ』の根幹となったレジェンドは、メタ的に左右されることが多い要素であったため、非常にライブ感任せな部分が多かった。
というのも、『平成仮面ライダーシリーズ』から羽ばたき、国内外で活躍しているレジェンドキャストが多い中、『仮面ライダージオウ』に誰がどのタイミングで出演できるかが限られてくるからだ。
だから、『平成仮面ライダーシリーズ』にしては珍しいことにライドウォッチ継承のタイミングが玩具の発売日とズレることも多かった。
ドライブライドウォッチなんかは、『仮面ライダージオウ』放送開始の序盤に玩具が発売されて、継承が最後まで残ってしまった結果、約一年後の今作で漸く継承された。
そういったレジェンドキャストの都合などによってドライブの継承が今作で行われたのも、ライブ感による影響とも言えよう。


また、今作は、「平成ライダーのまとめ」を否定することで、「時代を駆け抜けた」平成ライダーたちの数々の挑戦によって生じた凸凹を全力で肯定した。
だがよく考えると、『仮面ライダージオウ』という作品は一年間かけて「平成ライダーのまとめ」を試みたのだから、今作の主張とは矛盾が生じてしまう。
仮に『仮面ライダージオウ』の番組開始当初から今回の夏劇場版まで計画していたら、『仮面ライダージオウ』という番組は最初から「平成ライダーのまとめ」など試みなかっただろう。
しかし、「平成ライダーのまとめ」という無理難題を一年かけて試みたからこそ、今作で「平成ライダーのまとめ」などできないと悟ることもできたし、また、「思うがままに生きる」といういかにもソウゴらしい結論に辿りつけたのだ。
今作でこのような結論を導き出したことこそ、正に「ライブ感」である。


そういう意味では、今作は『仮面ライダージオウ』や『平成仮面ライダーシリーズ』全般のライブ感の象徴でもあり、そのライブ感の産物でもあると言えよう


『平成仮面ライダーシリーズ』を好きになってから毎週、次の日曜日がたまらなく楽しみになるようなワクワク感を提供し続けてくれた。
そう言ったワクワクは製作陣のライブ感を意識した作りのおかげで感じられたものに違いない。
そして、こういった楽しみ方は平成という時代にリアルタイムで『平成仮面ライダーシリーズ』を追いかけていたからこそできたことだろう。


今作は、そんなライブ感を全面的に肯定することができたからこそ最高に破天荒で何でもありな作品になることができたと思うし、シリーズの最後を飾るに相応しいインパクトの強さを残してくれたと感じる。
だからこそ、「平成」を締めくくる上でこれ以上の完成形はないのではなかろうか、と言った満足感を味わうことができた。
『平成仮面ライダーシリーズ』の20年間の挑戦を支え続けてきたライブ感が、次の時代にも引き継がれることに期待したい。




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