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仮面ライダー・映画・音楽に関する感想と考察。

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感想『仮面ライダージオウ』はなぜ王道から外れた記念作になったのか

先日、『仮面ライダージオウ』のテレビ放送は最終回を迎えた。
2019年4月の明仁上皇の生前退位を受けて、今作は「平成仮面ライダー20作品目」でありながら「平成最後の仮面ライダー」になり、記念作としての立ち位置を手に入れることとなった。
そんな『仮面ライダージオウ』がこの1年間でいったい何を目指し、何を成し遂げたのかを、この記事で探求していきたい。


ちなみに、『仮面ライダージオウ』は「東映特撮ファンクラブ」で視聴することができる。


仮面ライダージオウ Blu-ray COLLECTION 1


この記事には、『仮面ライダージオウ』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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「ライダー」なカメン


今作が時間モノであることから、仮面ライダージオウ・ゲイツ・ウォズのスーツは、時計を模したデザインになっている。
ジオウは針時計、ゲイツはデジタル時計、ウォズはスマートウォッチと、それぞれ分かりやすいモチーフが取り入れられている。
仮面部分に針やブランドロゴを配置したり、胴体に向かってバックルを伸ばしたりして、一目で腕時計だと分かる秀逸なデザインだ。


しかし、初見でほとんどの人は、マスクの複眼部分にある「ライダー」や「らいだー」の文字に目が奪われてしまったのではないだろうか。
というのも、複眼にある文字のインパクトはかなり大きいからだ。
このデザインになった理由として、今作のプロデューサーである武部氏はインタビューで以下のように説明している。

――ここ数年の平成仮面ライダーはデザイン面で「仮面ライダーっぽくない」という違和感が熱心なファンの間で話題になりつつ、放送されてみると「動いている姿はカッコいい」「やっぱり仮面ライダーだ」という評価に変わることが多い気がします。その点、ジオウの場合は顔に「カメンライダー」と書いていますし、どこからどうみても仮面ライダー以外の何物でもないという「やや強引な説得力」が大きなインパクトを与えていました。あの「顔や武器などに文字を配置する」というアイデアはどこから来ているのでしょうか?

時計って小さいですし、強そうなモチーフじゃないでしょう。ライオンとか戦車とか、強そうなものって他にもっとありますからね。そこで、もっと強いインパクトを与えたいということになり「顔にライダーという文字を入れてしまおう」という案が出たんです。

『仮面ライダージオウ』最初の企画は「ロボットに乗って戦う仮面ライダー」 - 東映・武部Pが語る人気ヒーローに絶対必要なもの (1) | マイナビニュース


『平成仮面ライダーシリーズ』の歴史は、挑戦の歴史である。
数多くの「挑戦」の中で、世の中の人々がファーストインプレッションで「挑戦」だと感じ取ることができるのが、やはり毎年のライダーのモチーフだろう。
昭和の系譜のデザインであるクウガ・アギトの次に、騎士をモチーフにした龍騎の前代未聞のデザインで世間を驚かせた。
そして『仮面ライダー龍騎』以降、仮面ライダーのモチーフへの挑戦は加速していった。
ライダーなのにもかかわらず電車に乗って戦う桃太郎がモチーフの電王。
バーコードがモチーフであるマゼンタ色のディケイド。
右半身と左半身の色が異なる「はんぶんこ怪人」のダブル。
宇宙服を身にまとい、頭部がロケットの形のフォーゼ。
頭にミカンを被った戦国武将がモチーフの鎧武。
目玉や髪の毛があり、短パンを履いているかのように見えるゲームモチーフのエグゼイド。
とにかく、平成仮面ライダーはその個性的なモチーフやデザインで人々の想像を超え続けてきた。
だが、同時にその挑戦は必ずしも歓迎されるわけでなく、新作が出ると人々から「仮面ライダーらしくない」と言われることもあった。


ジオウの仮面に「カメン」「ライダー」という文字があるのも、そういった声に対する一種の反撃だととらえることもできる。
いくらジオウの奇抜なデザインを批判しても、仮面に「カメンライダー」と書いてあるのであればそれはどこからどう見ても仮面ライダーだ。
「ライダー」の文字が仮面に入っている挑戦的なデザインを通して、自分が「ライダー」であることを堂々と世の中に訴えかけていると考えることもできる。


そして、レジェンドライダーと並び立っても負けず劣らずの挑戦的なビジュアルだ。
なので、レジェンドと共演しても「王」としてのオーラは保つことができたのは大きい。


ジオウのモチーフやデザインは、挑戦的なビジュアルを出し続けてきた『平成仮面ライダーシリーズ』の最後のライダーとしては非常に秀逸なものなのではなかろうか。

「今」を全力で生き抜く

『仮面ライダージオウ』は、常磐ソウゴが2068年にオーマジオウという「最低最悪の魔王」になることをEP01で告げられ、「最高最善の魔王」になって自身の未来を変えるために戦うのが『仮面ライダージオウ』の大筋だ。
そんなオーマジオウの誕生を阻止するために、オーマジオウと戦っていたレジスタンスのゲイツとツクヨミは2068年からやってきた。
一方で、常磐ソウゴがオーマジオウとして君臨する「正しい歴史」へとソウゴを導くために、ウォズも未来からやってきた。


しかし、ゲイツとツクヨミの行動にはタイムパラドックスがある。
というのは、仮にゲイツたちがオーマジオウの誕生を阻止することができたら、ゲイツたちが2018年に来るきっかけはそもそもなくなるからだ。
なので、『EP44 2019:アクアのよびごえ』で湊ミハルが言った通り、ゲイツたちが2018年にいることで逆にオーマジオウ誕生の未来が確定してしまう、ととらえてもいい。
そう考えると、「正しい歴史」を守ろうとするウォズの行動の方が理にかなっている。


だが、「最低最悪の魔王」になってしまう、というのはソウゴにとっては未来の出来事なので一つの可能性に過ぎない
なので、ソウゴ視点では「未来」などいくらでも変えることができる。
また、ゲイツたちにとっても2018年が「今」なのだから、「未来」はこれから創り上げていくものだ。
だからゲイツたちも、ソウゴが「最低最悪の魔王」にならない可能性を信じて、2018年でソウゴと共に戦う。


我々視聴者も、ソウゴが果たして本当にオーマジオウになる「未来」を迎えてしまうのか、とハラハラドキドキしながら今作を視聴することができた
最初は本当に「普通の高校生」として描かれていて、「最低最悪の魔王」になる気配などなかった。
それが、『EP06 ビューティ&ビースト2012』で人々を自分の思い通りに動かして王の素質を見せたり、『EP24 ベスト・フレンド2121』で未来創造能力を使ったりした。
徐々に強力になるソウゴを見て、もしかすると本当に「魔王」になるのではないだろうか、と思えるようにもなってきた。
そう思わせてくれたソウゴ役の奥野壮さんの演技もお見事で、ソウゴの器の底知れなさを非常に上手いバランス感で表現してくれた。


そして、実際に、ゲイツやツクヨミ、ウォズと出会ったことで、ソウゴは「最低最悪な魔王」になる未来を回避して「最高最善の魔王」になることができた。
つまり、「未来」から来たゲイツたちがソウゴの「今」に介入し、仲間として共に「今」を全力で生き抜いたからこそ、「未来」を変えることができた、という構図になっている。
仲間がいなかったせいで痛みを知らない「最低最悪の魔王」であるオーマジオウを、仲間の力を結集させたジオウトリニティで倒すことができたシーンが、「仲間」という存在の大きさを象徴的に表している。


『LAST 2019:アポカリプス』でソウゴが言っていた「時計の針はさ、未来にしか進まない」という言葉の通り、(たとえ未来から来たとしても) その人がその時いる時代が「今」だ。
だからこそ、「今」を全力に生き抜くことで、自身や周りの人々、時には世界すらの「未来」をも変えることができる
これは『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』で導き出した「平成仮面ライダーは瞬間瞬間を必死に生きてきた」という結論にも通ずる部分がある。


考えてみると、『平成仮面ライダーシリーズ』最後の作品である今作が「今」を全力で生き抜くことの大切さを説くのは、非常に理にかなっている。
というのも、『平成仮面ライダーシリーズ』は、それぞれの作品が放映された時代に合わせて一生懸命作られたおかげで20年間も続いてきたからだ。
『平成仮面ライダーシリーズ』の場合は一つの作品が一年間放送される。
しかし、それほど長いこと放映されると、当初の予定通りに作品を製作することはなかなか難しい。
スケジュールの問題や役者の演技の方向性、はたまた視聴者の人気などによって、当初の予定から変わることは多々ある。
しかし、そんな中でその時の視聴者が最高に楽しめるように製作してきたのが『平成仮面ライダーシリーズ』の大きな特徴であり、この手法は「ライブ感」と呼ばれシリーズの人気に貢献してきた。
なので、『平成仮面ライダーシリーズ』は「今」を大切にしてきたリアルタイム性が非常にあるシリーズと言えよう。


そしてもちろん、今作もそういった「ライブ感」に溢れる番組だ。
白倉氏によると、『仮面ライダージオウ』も当初のストーリーから大きく変わったところが何点かあるようだ。

夏映画に向けて、インタビューを受けることがあります。
「テレビのストーリー展開、当初考えてたのと変わったりしました?」とか聞かれて、

「ゲイツは4月に最大のライバルとなって王の座を争い、6月にはウォズが真の敵として立ちはだかり……」

みたいな展開を考えてたと答えると、「ええっ?!」と驚かれたりします。

ジオウ42 話:「2019: ミッシング・ワールド | 仮面ライダーWEB【公式】|東映


更には、今作におけるレジェンドの登場も非常に「ライブ感」によって支えられた要素だ。
『仮面ライダージオウ 補完計画』の『13.5話 ユーレイの先生』で言及されていた通り、レジェンドキャストのスケジュールの関係でレジェンドの登場順が前後することもあったことから、非常に「ライブ感」によって左右されていた部分らしい。
そのうえ、レジェンドの登場を発表する次回予告や公式Twitterのつぶやきで毎週一喜一憂できたのも、今作をリアルタイムで視聴していた人の特権とも言えるし、まさに「ライブ感」の現れだ。


このように、『仮面ライダージオウ』は、「今」楽しめるように非常に工夫された作品だった作品だったと言ってもいいだろう。
そして、そういった「ライブ感」によって支えられてきた『仮面ライダージオウ』、そして『平成仮面ライダーシリーズ』全体を総括する意味で、「今」を全力で生き抜くことの大切さを描くことは必然だったと考える。
そして、『仮面ライダージオウ』が「今」を全力で生き抜いたからこそ、『令和仮面ライダーシリーズ』という「未来」へバトンをつなぐことができ、「未来」を創ることができたのだ。


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「過去」のレジェンド


「仮面ライダーの記念作」と聞くと、平成仮面ライダー10作記念作品として2009年に放映された『仮面ライダーディケイド』をどうしても思い浮かべる。

『仮面ライダーディケイド』以前は、基本的には作品毎に設定や世界観が独立していて、作品間の仮面ライダーが交わることはほぼなかった。
そこで、「全てを破壊し、全てを繋げ!」というキャッチフレーズのもとで作られた『仮面ライダーディケイド』は、平成仮面ライダーの作品間の壁を壊し、それまでの9作品を繋げてしまった。
ただ、『仮面ライダーディケイド』は (電王の世界などの例外はあるものの) 基本的にはオリジナルの作品とは違うキャストや設定を用いて、各作品の世界をリ・イマジネーションとして描いた。


賛否両論はあったものの、『仮面ライダーディケイド』によるこの「破壊」は商業的には大成功で、過去作で活躍したライダーたちが「レジェンドライダー」と呼ばれ積極的にコンテンツとして扱われるようになった。
例えば、玩具においては、次作『仮面ライダーW』の変身アイテムであるガイアメモリのレジェンドライダー版が発売され、以降毎年のようにレジェンドライダーの玩具が作られるようになった。
また、冬の劇場版や春の劇場版でもレジェンドライダーたちが登場し、作品間のライダー同士の共闘や争いを楽しむことができる媒体も増えていった。
そして、冬の劇場版が『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ』シリーズになってからは、レジェンドライダーがオリジナルキャストによって演じられることに重きを置くようになり、ファンも自然とオリジナルキャストの再演に期待するようになった。


初めて過去作の復活を試みた『仮面ライダーディケイド』以降、「レジェンドライダー」は『平成仮面ライダーシリーズ』にとっては一つのコンテンツと呼べるくらい肥大化した。
そして、この10年近くでレジェンドライダーに関して多くのノウハウを蓄積してきたはずだ。
だからこそ、20作目記念作品の『仮面ライダージオウ』は、「レジェンドから逃げない」という『仮面ライダーディケイド』とは違うアプローチをとることができたのだ。

その1 レジェンドから逃げない!
→ 打合せ時のキーワードでした。
記念作ということだけに頼ってはいけない → 「ジオウ」の魅力、何より新しく、面白く! → でも、一言でいえば、「平成20作記念」 → 「ディケイド」と同じにはできない ・・と、ぐるぐるした結果、レジェンドから逃げずに正面から向き合うことにしました。

仮面ライダージオウ 第1話 キングダム2068 | 東映[テレビ]


ただ、レジェンドといった「過去」の存在を復活させた今作は、皮肉なことに「過去」への固執を否定している
それは、『EP43 2019:ツクヨミ・コンフィデンシャル』でソウゴが「過去のことしか見ていない」加古川飛流を否定したことから分かる。
また、白倉氏は以下のようなコメントもしている。

なぜオーマジオウは魔王なのか。平成ライダーの王だからだ。
ソウゴ初変身の像を取り巻くライダーたちのモニュメント。あれはある種の墓標。五十年後まで、とっくに忘れ去られてしかるべき平成ライダーたちの記憶を、世界の中心に据えつづけようと、オーマジオウはたったひとり、戦いつづけているのだと。
それは善か、悪か?
悪にはちがいない。たとえどんなに輝かしくても、過去を理想化することは、現在をおとしめ、未来を否定することだから。
だから、オーマジオウはサイテーサイアクの魔王なのだと。

ジオウ50 話:「※ | 仮面ライダーWEB【公式】|東映


レジェンドの復活を望む者たちの多くは「あの頃のあのライダーの活躍をもう一度見たい」と考えているだろう。
もう一度「あの頃」に戻れる喜びから、『仮面ライダーディケイド』以降確立されてきた「レジェンド」といった概念や、彼らが登場する冬の劇場版が人気を博した。
ただ、「レジェンド」への固執は、「今」や「未来」の否定をも意味する。


だからこそ今作は、「レジェンド」といった「過去の存在」の描き方に非常にこだわっているように感じた。
レジェンドたちの登場方法が大きく変わった「剣編」の前と後を分けて、『仮面ライダージオウ』がレジェンドを復活させた意義を考察していきたい。

ifストーリー

『仮面ライダージオウ』の世界観では、「同じライダーの力は同じ時間には共存できない」というルールが存在する。
よって、過去でアナザーライダーが生成されることで、オリジナルのライダーが仮面ライダーとして戦ってきた歴史がアナザーライダーによって置き換えられる。
つまり、オリジナルのライダーではなく、あたかもアナザーライダーが現代に至るまでその仮面ライダーとして戦ってきたかのように歴史が改変されてしまう。
そして、ジオウがそのライダーのライドウォッチを継承してアナザーライダーを倒すと、そもそもそのライダーが存在しなかった歴史へと変わってしまう。


この流れだけ見ていると、『仮面ライダージオウ』という作品が過去作を改変し、その歴史を丸ごとなかったことにして消してしまっている
というか、無自覚ながらもジオウやゲイツもその行為に加担してしまっている。
では、ライダーの力を継承するだけでなく、なぜ今作はレジェンドたちの歴史までもを抹消してしまったのだろう?
平成ライダーのレジェンドたちの「過去」の歴史を消すことによって、新たな時代の「未来」の仮面ライダーに座を譲る、という作業を平成最後の仮面ライダーである『仮面ライダージオウ』で行おうとしたのだろう。
つまり、今作は、令和が始まる前に平成ライダーたちの歴史に終止符を打ち、平成仮面ライダーシリーズを強制的に終了させることが当初の目的の一つとしてあったのではないか、とも考えることができる。
実際に、レジェンドキャストたちもそのような気持ちで撮影に挑んだという話はある。

その他のレジェンドライダーの方たちとはそれほど大したお話をする機会がなかったのですが、「鎧武編」の第11、12話に出演されていた葛葉紘汰役の佐野岳さんからは、こんなお話をいただいたんです。紘汰からソウゴが「ライドウォッチ」を受け取るシーンのとき「これは、俺にとって卒業式みたいなものだから(このシーンは)重いぞ。これらのライドウォッチを全員ぶん受け取らなければいけないんだから、重要な責任なんだよ」って……。そこから、それぞれのレジェンドからライドウォッチを受け取るときの「重み」みたいなものを感じるようになりましたね。

『仮面ライダージオウ』奥野壮、ライドウォッチは卒業の証 - レジェンドライダーに託された責任の重み (2) | マイナビニュース


なので、平成ライダーたちにとって『仮面ライダージオウ』という作品は「卒業式」的な役割を果たしていたのかもしれない。
というか、過激な言い方をすると、今作は平成ライダーにとっての「墓場」なのかもしれない。
そして、ソウゴやゲイツがライダーたちから力だけでなく歴史を奪うことで、『仮面ライダージオウ』の物語が成立していたのだ。




様々な考えや価値観を持って戦ってきたレジェンドたちの姿を見てソウゴやゲイツが成長していくのが、『仮面ライダージオウ』の序盤の大まかな構造だ。
そして、その考えや価値観という部分にフォーカスするために、レジェンドたちからライダーの歴史を剥奪し、一人の人間として描いた。
ライダーでないレジェンドたちが何を考えどのような決断を下すのか、というifストーリーを今作は築いている。

他のレジェンドにしても、仮面ライダーに「変身」して敵と「戦う」という要素をなくしたとき、現実に生きていたらどんなことをしていたのだろうかと、元の作品をひとつひとつ掘り下げて、人物像を築いていく作業を行っています。それはもう、スタッフ一同が歴代平成仮面ライダーの各作品を徹底的に見つめ直して、とてつもないこだわりの上でやっています。

『仮面ライダージオウ』白倉伸一郎Pが振り返る『ジオウ』序盤展開のこだわりと、映画に込めた「ファンへの感謝」 (1) | マイナビニュース

永夢や飛彩という人間からライダーという要素を引いたら、何が残る?
残るのは人間です。
ライダーであろうがなかろうが、永夢は永夢だし、飛彩は飛彩。
敵が出たから駆けつけて変身するのは、ジオウでもゲイツでもできる。アナザーエグゼイドやエグゼイドアーマーみたいに、ニセエグゼイドはつくれる。でも、ニセ永夢やニセ飛彩はありえない。永夢や飛彩を演じることは、他の誰にもできない。それは何なのか?
ここでいうifの世界とは、より《本物》でなければいけないということなのです。

ジオウ4 話:「ノーコンティニュー2016 | 仮面ライダーWEB【公式】|東映


このような設定になっていることから、レジェンドたちの「力」を継承するだけでなく、考えや価値観という精神的な部分も継承することにも重きを置いていることが分かる。
ソウゴたちの成長という「未来」のために、「過去」のライダーたちの考えや価値観という部分にフォーカスするのは必然だったと感じるし、レジェンドを登場させる意義としてもかなり納得がいくものだ。


レジェンドという我々に既に馴染みがあるキャラクターだからこそifストーリーに説得力が出るので、オリジナルキャストでのレジェンド再演は必須だったと言えよう。
とはいえ、今作の設定上レジェンドは変身できないので、ifストーリーを十分楽しむためには元のレジェンドの姿を知っている必要がある。
現代の子供たちが知っているレジェンドの都合上、主に平成二期シリーズのレジェンドたちが今作の序盤で取り上げられ、ifストーリーの対象となった。

最終回の先

『仮面ライダージオウ』の「剣編」以後、レジェンドの登場方法が明らかに変わっていった。


まずは、「剣編」以降では平成一期のレジェンドたちをメインで扱うこととなった点だ。
今作の序盤で平成二期のレジェンドをメインで登場させてきたため、後半で残った平成一期のレジェンドにフォーカスするのは必然だった。
ただ、現代の子供たちにとって平成一期のレジェンドたちは知らない存在なので、それまでの様なifストーリーよりかはレジェンドがライダーに変身できるようなストーリーにする必要があった。
また、平成二期をフューチャーしてきた従来の構成だとレジェンドたちが活躍した時代までタイムトラベルする必要性があったが、レジェンドキャストに10年以上も前の姿を演じてもらうことにはやはり違和感がある。
よって、「剣編」を境にアナザーライダーが2019年に誕生するようになり、それ故レジェンドたちの歴史も今作で消えることはなくなり、基本的にはタイムトラベルをせずに2019年のみで物語が進行するようになった。


ただ、レジェンドの歴史を維持したまま2019年現在の物語を描くことになったため、「剣編」以後は各々のレジェンドの作品の最終話後の話として機能していた
そして、オリジナルの作品では描き切れなかった内容を補完することで、その作品を真の意味で終わらせる役割を果たしていたと解釈することもできる。
例えば、『仮面ライダー剣』の最終話の時点では休戦状態であったバトルファイトが、今作の「剣編」では完全に終わり剣崎と始が再び平和な生活を送ることができるようになった。
また、主人公ライダーに対する憧れがどこか心の中にあった『仮面ライダー響鬼』や『仮面ライダーカブト』の登場人物が今作の「響鬼編」や「カブト編」で漸く主人公ライダーに変身することができた。
言ってしまえば中途半端に終わってしまっていた各作品の物語を本当の意味で終わらせたので、違う形ではあれど、序盤とは同様に「剣編」以後も平成ライダーの「墓場」として機能していた


そもそも、平成一期仮面ライダーシリーズの頃は今では当たり前となった冬の劇場版や本編終了後のVシネマもなければ、シリーズ間のクロスオーバーもほとんど無かった。
平成一期シリーズにとって「最終回」は物語の完全なる終着点であった。
だから、10年以上、最終回で止まったままであった平成一期シリーズの物語が『仮面ライダージオウ』を機に再び動き始めた、と見なすことができる。


『仮面ライダージオウ』で当時のキャストによる正当な続編が製作されたことに素直に感激する人もいれば、勝手に登場人物の言動を解釈したり、勝手に物語を強制終了させたりしたことをよく思わない人もいるだろう。
例えば、『仮面ライダーカブト』のテレビ本編で仮面ライダーガタックへの初変身を果たした際に「俺は俺にしかなれない」と言い放った加賀美新が、「カブト編」で仮面ライダーカブトに変身したことは多くのファンによる批判の対象になった。
というのも、平成一期シリーズは10年以上も前の作品であるため、放送終了後からファンたちは作品の登場人物やその言動などを勝手に解釈し、作品内で描き切られなかった部分を補完してきたからだ。
そこで、ファンと『仮面ライダージオウ』との間で解釈違いが生じてしまうのはある意味当然のことなのかもしれない。


だが、『仮面ライダージオウ』が提示した平成一期シリーズの最終回後は、「公式」の中でもかなり「公式」な解釈である、と私は考える。
まず、『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダー剣』『仮面ライダーカブト』『仮面ライダー電王』『仮面ライダーキバ』はどれも白倉氏か武部氏のどちらかがプロデュースした作品であり、今作も両者が手掛けている。
『仮面ライダージオウ スピンオフ RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』や「キバ編」に関しては、当時の脚本家の井上敏樹氏までもを起用した。
また、『仮面ライダー響鬼』は、前半は高寺プロデューサーで後半は白倉プロデューサーが担当した作品だが、「響鬼編」では桐矢京介という『仮面ライダー響鬼』の後半を代表する人物にフィーチャーした。
このように、『仮面ライダージオウ』で平成一期を扱った回は当時のプロデューサーや脚本家の解釈によって製作されたため、各作品にとってかなり一次創作的なものであると納得せざるを得ない。
逆に、「クウガ編」がなかったのは、『仮面ライダークウガ』のプロデューサーである高寺氏が不在である中、第三者の勝手な解釈によって当時の物語のその後を描くことを防ぐためだったと考えることもできる。


しかし、このようにレジェンドライダーの物語の最終回後を描くことは、必然的にレジェンドたちが中心の筋書きになってしまう。
このような筋書きが実現したのは、ジオウ・ゲイツ・ツクヨミ・ウォズたちの存在感が今作の序盤で十分に確立されたからだ
だからこそ、ジオウのライダーの活躍が霞むことなく、レジェンドたちと並び立って戦うことができた。
また、オリジナルの作品でおなじみの演出 (「アギト編」や「響鬼編」のBGM、「カブト編」のオープニングなど) を入れ込むことができたのも、『仮面ライダージオウ』という作品のフォーマットが十分に確立されていたからだ。


そういった意味でも、変身して戦う必要がある平成一期のライダーたちを後回しにして『仮面ライダージオウ』に登場させたのは合理的だ。


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ホンモノとニセモノ

レジェンドたちを通して「ホンモノとニセモノ」を描いているのが今作の大きな特徴の一つだと言える。




まずは、今作の敵であるアナザーライダーたちだ。
アナザーライダーは、レジェンドライダーたちの姿や能力を模した怪人だ。
頭部が仮面ではなく、目・鼻・口があって顔のような形状であるという点が仮面ライダーとは決定的に違い、不気味に思えてくる。


そんなアナザーライダーたちの変身者たちが、レジェンドと対になっているのもこれまた面白い。
例えば、一度きりの命を守り抜くドクターである仮面ライダーエグゼイドの宝生永夢とは対照的に、アナザーエグゼイドの変身者は病を患っている息子を蘇生させようと目論む父だ。
また、無欲である仮面ライダーオーズの火野映司とは対照的に、アナザーオーズの変身者である檀黎斗は支配欲に溺れる存在として描かれている。
このような「ホンモノとニセモノ」の対比があるからこそ、ホンモノのレジェンドがヒーローたる理由がより際立つ。




そして、もう一つの「ニセモノ」と言えば、ジオウやゲイツのライダーアーマーがある。


ジオウたちは、レジェンドからライドウォッチを継承することによってその力を継承する。
しかし、仮面ライダーディケイドなどとは違い、ジオウたちはそっくりそのままレジェンドライダーに変身することはできない。
代わりに、ジオウやゲイツの基本スーツの上からレジェンドライダーのスーツを模したライダーアーマーを身につける。


ただ、力を継承しているとは言えど、「ホンモノ」のレジェンドライダーたちからしたら当然ライダーアーマーは「ニセモノ」だ。
例えば、仮面ライダービルドでお馴染みの宙に浮く数式が、ジオウビルドアーマーだとソウゴの学力を反映するかのように「よくわからない式」「記号だらけ」などの文字に置き換わっていることから、ホンモノとの違いは明確だ。
また、仮面ライダーエグゼイドの「Hit!」の攻撃エフェクトが、ジオウエグゼイドアーマーだと「ヒット!」に変わっているのも、ニセモノだからだと言えよう。
だから、たとえレジェンド本人から力を継承したのだとしても、そのレジェンドそのものになることはできず、あくまでも「ニセモノ」のままであるのだ。




このように、「ホンモノ」のレジェンドを出演させながらも、アナザーライダーやライダーアーマーと言った「ニセモノ」同士の戦いを描いているのは、『仮面ライダージオウ』の大きな特徴と言える。
そして、これらの「ニセモノ」の比較対象がいたからこそ、「ホンモノ」のレジェンドライダー一人ひとりの考えや価値観がより明確になった

時空のロジック

仮面ライダージオウは、「時空を超え、過去と未来をしろしめす時の王者」であり、時計をモチーフにしたライダーだ。
そんな『仮面ライダージオウ』という作品には当然、「時間」や「時空」といった要素が絡んでくる。


劇場版でのクロスオーバーは度外視すると、『平成仮面ライダーシリーズ』は基本的に各作品の設定や世界観が独立している。
なので、各作品レジェンドが同じ世界に存在していると仮定すると、矛盾が生じてしまう。
そこで、『仮面ライダージオウ』はそのような矛盾を解消しようと、アナザーライダーやライドウォッチによる過去改変のロジックを持ち込んだ。
このことについては白倉氏もツイートで言及している。

『仮面ライダージオウ』の序盤では、レジェンドが活躍していた時代にタイムジャッカーが行ってアナザーライダーを生成していた。
そして、アナザーライダーと戦うためにジオウたちがタイムマジーンでレジェンドが活躍していた時代へ行くのが基本構造だった。
アナザーライダーの誕生でレジェンドの歴史が置き換わったり、更にライドウォッチの継承で歴史そのものが消えたりすることで、時間が改変されていった。
この仕組みを理解するには、白倉氏の言葉で言う「縦のパラレル」の概念を理解する必要がある。

ただ、『平成仮面ライダーシリーズ』の視聴者なら尚更「縦のパラレル」を理解するのに苦労する。
その原因の一つとして、『平成仮面ライダーシリーズ』を観てきた人たちには「横のパラレル」の方が馴染みがあることが挙げられる。
『仮面ライダーディケイド』の「九つの世界」にはじめ、『仮面ライダー 平成ジェネレーションズFINAL』の「エグゼイドたちの世界」と「ビルドの世界」、『仮面ライダービルド』最終話のA・B・C世界などが「横のパラレル」の例だ。
だからか、因果律による「縦のパラレル」が出てきたときに、多くの視聴者がそれを「横のパラレル」として考えてしまって頭を抱えてしまったのだろう。
少なくとも『仮面ライダーディケイド』のテレビ本編ではオーロラカーテンで「横のパラレル」の世界を行き渡った門矢士が、今作に客演して「縦のパラレル」の世界を行き来していたことも、複雑さに寄与しているのだろう。


とにかく、「時間モノ」は非常に複雑だ。
以下のインタビューからも分かる通り、製作陣は今作の設定を非常に練ってきたのにもかかわらず、そういった設定が表に出ることで作品の面白さがなくなる、と考えていたようだ。

白倉「ホワイトボードを使って練りに練って、これでいいだろうという設定を、1回できたらそれを壊すところからもう1回、始めなきゃいけない。その設定が表に出ちゃうとあまり面白くないので、この設定、1回忘れて、どうしたら面白くなるのかっていうことを、また全然別の次元で考えて、じゃあどうやって帳尻合わせるんだ、って」
—気が遠くなる作業。
白倉「そうなんです」
田﨑「ホワイトボードで図解しないと理解できないことを、ドラマを見ながらのお客さんは理解できるとは思えないですからね。こっちとしては、しっかり背骨は作っておかないと、みたいなところもある」

— スポーツ報知「平成仮面ライダー特別号」 23面


だから、時空のロジックに関する説明は、テレビ本編ではほぼすっ飛ばしている。
「縦のパラレル」云々を説明してもメインターゲットの子供たちにとっては理解できないほど複雑だ。
だからこそ、設定の説明に時間を割かずに、レジェンドとの交流や、ソウゴが仲間を獲得していく展開などのよりアツくなる展開を重視したのは、割と合理的な判断だ
数多くの謎が残っているのにもかかわらず、終盤になっても大道克己やチェイスなどのレジェンドを出演させたのも、そのような記念作ならではの面白さを重視するのスタンスがあったからだろう。


ただ、今作の「背骨」となっている設定があまりにも説明されていなかったことも事実だ。
例えば、時空転移システムの仕組みやアナザーライダー・ライドウォッチによる過去改変に関する説明が非常にさっぱりしていたし、「剣編」以降レジェンドが変身できたり記憶を保持していたりした理由は明言されていない。
時空に関する多くの謎は作中では「時空の歪み」といったあやふやな表現で解決されていたことも否めない。
東映特撮ファンクラブで配信されている『仮面ライダージオウ 補完計画』や白倉氏のTwitter、東映の公式サイトなど、設定に関する補足説明をしてくれる媒体は確かにあるが、それらも完全な「答え」を提供してくれず、最終話の放映が終わった今でも多くの謎が残る。
その辺はどのように補完されていくのかには今後期待していきたい。


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結論

平成12年の『仮面ライダークウガ』から20作連続で製作されてきた『仮面ライダーシリーズ』は、ファンから『平成仮面ライダーシリーズ』と名付けられ、いつの間にかその呼称は公式のものとなった。
そんな中、『平成仮面ライダーシリーズ』20作目であり最終作でもある『仮面ライダージオウ』は、「過去」の19作品を総括し、そして、次の時代である「未来」へと繋ぐ役割を課せられた。


そんな『仮面ライダージオウ』は、『平成仮面ライダーシリーズ』19作品が築いた「過去」を受け継いでいる。
というのも、「過去」の平成ライダーたちが築き上げてきた物の集積があってこそ、『平成仮面ライダーシリーズ』がここまで続くことができ、「今」の『仮面ライダージオウ』が生まれることができたからだ。
ジオウの奇抜なデザインや、「ライブ感」を重視する作りは、シリーズが「過去」に培ってきたことを「今」に繋いだ例だ。


そして、『仮面ライダージオウ』は、平成を生き抜いたレジェンドを何人も復活させることで、「過去」の存在に「今」を与えた。
だが、「過去」を理想化することは「悪」である、というのが今作の認識であるため、「過去」にとらわれずに「今」から「未来」へと向かっていく必要があった。
よって、「過去」のレジェンドたちはライダーとして再び活躍するために復活したわけではなく、あくまでも「今」のライダーであるソウゴたちに考えや価値観を継承させるために登場した
だからこそ、変身できない設定のレジェンドがいたり、「ニセモノ」といった比較対象を配置したりした。
そして、継承が終わると、「未来」へと繋げるために「過去」のレジェンドたちの物語が消されたり終わらされたりした。
そのように、「過去」の意思が「今」や「未来」へと受け継がれていった。


そう、『仮面ライダージオウ』は決して「過去」を理想化しなかった。
代わりに、「今」や「未来」を「最高最善」の形に創り上げるための指標として「過去」を捉えた
このように「今」から「未来」へと向かっていくことは、平成最後の仮面ライダーとしての欠かせない使命だった。
というのも、「平成」といった「過去」にとらわれていたら、永遠に「令和」へと向かっていくことができなかったからだ。


結果的に今作は「ピンチに立ち向かうために共闘する歴代ヒーローたち」と言った従来のクロスオーバー形式からは程遠い作品となった。
そういった意味では、『仮面ライダージオウ』は王道から外れた記念作だ。
だが、『仮面ライダージオウ』という作品は、主人公のソウゴと同じように、「今」を全力で生き、常に未来を向いていた作品だった
だからこそ、製作陣や視聴者が前向きに『令和仮面ライダーシリーズ』へと進めるきっかけにもなったと言えよう。
よって『仮面ライダージオウ』は、『平成仮面ライダーシリーズ』だけではなく、『仮面ライダーシリーズ』そのものにとって重大な通過点になったと感じる。
令和ではどのような仮面ライダーが待ち受けているのだろうか。




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