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仮面ライダー・映画・音楽に関する感想と考察。

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感想『仮面ライダーゼロワン』の飛電或人はなぜアークワンに闇堕ちせざるを得なかったのか

『仮面ライダーゼロワン』は2020年8月30日に遂に最終話を迎えた。
人工知能を様々な側面から描いた今作は大きな話題を集めて、いい意味でも悪い意味でも毎週盛り上がりを見せていたと感じた。
だが、今作の中でも、『42話 ソコに悪意がある限り』で飛電或人が心に悪意を宿したことで仮面ライダーアークワンに変身した展開は、恐らく最も多くの視聴者を驚かせた展開だ。
そこでこの記事では、『仮面ライダーゼロワン』の物語を俯瞰したときに或人の闇堕ちはなぜ必要であったかを、振り返っていきたい。


ちなみに、『仮面ライダーゼロワン』は「東映特撮ファンクラブ」で視聴することができる。


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この記事には、『仮面ライダーゼロワン』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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或人は、其雄に本当の父親のように善意をもって育てられた影響で「ヒューマギアは人類の夢」であると信じ続けてきた。
また、『第3章』に入ってからは、シンギュラリティに達したヒューマギアたちに芽生えた“夢”を尊重するようにもなった。
しかし、或人の「ヒューマギアを信じる」という言葉からはヒューマギアの善意に対する盲信が見て取れた。


というのも、それまではヒューマギアがシンギュラリティに目覚めても原則的には善意をもって行動し、ヒューマギアの“夢”などもその製造目的に基づいた善意により生まれたものであるという前提が今作にはあったからだ。
たとえば、モデル型ヒューマギアであればその“夢”は「ランウェイを歩くことでヒューマギアの存在をアピールする」だったし、テニスコーチ型ヒューマギアであればその“夢“は「世界一のテニスコーチになること」だった。
ヒューマギアが悪意に目覚めたとしても、それは衛星アークによるハッキングの影響とされていて、そのような干渉がなければヒューマギアは善意により行動する存在である、と或人は思い込んでいる様子が示唆されていた。


しかし、ヒューマギアが人間からラーニングする存在である以上、人間の悪意に触れ続けて偏ったラーニングをしてしまったヒューマギアであれば自ずと人間に対する悪意を抱くことは当然問題として発生し得る。
実際、『28話 オレのラップが世界を変える!』に登場したラッパー型ヒューマギアのMCチェケラは、自身の意思で人間に対して悪意を抱く特異な例として登場していた。
よって、或人がヒューマギアの善意を信じる根拠は不十分である。


そもそも、今作の製作陣は人工知能を危険な存在として描くことは実際には望んでいなかったのだろう。
そのことについては、昨年に実施されたインタビューで今作の脚本家である高橋悠也氏も以下のように述べている。

高橋 そうですね。今回は、まず、AIが悪いものであるという表現はしたくないと思いました。ヒーロー番組なので、AIを敵として戦う展開はありますが、番組のテーマとしては、AIが人類を不幸にするという見えかたにならないよう、あくまで上手に付き合う方法や、手を取り合って新しい未来に向かっていくような物語を意識しました

親として子どもに伝えるべき人工知能のこと──『仮面ライダーゼロワン』から学ぶ、未来の子どもたちの仕事 | WIRED.jp

人工知能と共存する肯定的な未来を描くためにも、自身の意思で人間に対して悪意を抱く人工知能が生まれる可能性があるという問題に今作はしっかりとアプローチして解決するする必要があった


そして、その問題を滅亡迅雷.netの滅の悪意への目覚めによって今作は提示することになった。
或人が「父親型ヒューマギア (其雄) に育てられた」ことに対して滅が「父親型ヒューマギア」であるという対比などから、或人と滅が表裏一体の存在であることは今作の序盤から描かれ続けてきた。
また、仮面ライダー滅のスーツアクターに、平成仮面ライダーシリーズのほとんどの主役を演じてきた高岩成二さんが選ばれたことからも、当初からラスボス的な存在になることを想定していたと推察することができる。
そう考えると、滅は或人が乗り越えるべき最大の障壁としては非常に相応しい存在であると考える。


今作の序盤から「アークの意志のままに」行動し続けてきた滅もまた、アークの干渉により「人類滅亡」を掲げ続けてきた存在であった。
それまで従ってきたアークが天津垓という人間により人間の悪意を教え込まれていたことや、そんなアークの意志によりヒューマギアが滅びかけたことを考えると、第二のアークを生む原因となりかねない人間がヒューマギアにとっての脅威であるという認識を滅自身も持っていたことは推察できる。
よって、『41話 ナンジ、隣人と手をとれ!』でアークが破壊された後に、「人類滅亡」を心からの“夢”として掲げるようになったことはある意味当然だ。
このように、自身の意志で「人類滅亡」を望むようになった滅は、「人工知能との共存」を掲げる「善意をもってヒューマギアに接する人間」の或人とは対照的な「悪意をもって人間に接するヒューマギア」になった。


『42話 ソコに悪意がある限り』で、滅亡迅雷.netのヒューマギアである滅によって、或人の秘書を務めていたヒューマギアのイズは破壊されてしまう。
大切な存在であるイズを奪われたことに対する滅への「心」からの怒りを感じたことにより或人は仮面ライダーアークワンとなり、初めて自身の中に生まれたヒューマギアに対するどうしようもない悪意と向き合うことになった。


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或人の闇堕ちにより、それまでヒューマギアに善意をもって接してきた或人でさえ悪意に取り憑かれてしまう可能性が提示された。
つまり、「心」をもつ存在であれば誰にでも「心」の中に善意と悪意の両方を持つ。
だからこそ、「心」を持つ滅も悪意だけではなく善意も有していることを或人が信じる明確な根拠ができた。
その結果、或人の「ヒューマギアを信じる」という言葉がただの空虚なものではなく、根拠に基づいたものに変わることができた。
ヒューマギアの善意に対する「盲信」が「確信」へと変わるきっかけとなったことを考えると、或人の闇堕ちは『仮面ライダーゼロワン』における或人の成長にとっては必要不可欠であったと考えることができる


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或人は、それまではヒューマギアに対しては善意をもって接してきたため、悪意を知らない人間であったとも言えよう。
しかし、悪意を知らなければ滅の中の制御できない悪意に対してちゃんと向き合うことはできなかっただろう。
だからこそ、イズを奪われたことに対する滅への「心」からの怒りを感じることで、或人は悪意とはどういったものかを身をもって感じて、悪意のある「心」を理解する必要があった。


そもそも、『42話 ソコに悪意がある限り』で滅がイズを滅ぼしてしまったのは、自分には「心」など存在しないと頑なに信じてきたのにもかかわらず、人類滅亡を「心」から望んでいることをイズに指摘されてフラストレーションを覚えたからだ。
だが、そのようなフラストレーションを覚えたこと自体、滅の中には「心」という未知の概念に対する恐怖があったことの表れだ。
「恐怖」を感じたことは、つまりは滅の中には感情を覚える「心」があることの証だ。
更には、『43話 ソレが心』で悪意に取り憑かれてしまった或人が迅のことを誤って破壊してしまったせいで、滅も大切な存在を奪われてしまい、或人に対して「心」からの怒りを感じることになった。
結果的に、「心」を否定してきた滅が「心」から湧き上がる感情を覚えることで、自身の「心」と向き合わざるを得ない状況ができあがった。


このように、或人と滅は、大切な存在を奪われ、相手にとっての大切な存在も奪うという経験を同じくした。
そして、この経験により、大切な存在を奪われたときの「心」の痛みをお互いに教え合うことになった。
そのようにお互いの痛みを理解することができたからこそ、お互いにわかり合って悪意の連鎖を止めることができた。
そう考えると、或人と滅が本当の意味でわかり合うためにも、或人の闇堕ちは必要不可欠であったと感じる


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「心」をもつ存在であれば誰にでも「心」の中に善意と悪意の両方を持つからこそ、「心」を持つ人工知能にもその両方がある。
だからこそ、ラーニングをする人工知能とは「心」を教え合うことで、お互いに悪意を乗り越えることができる強い「心」を持つ存在へと成長できる。
そのようなことを、シンギュラリティに達した人工知能との共存の可能性として今作は提示してくれたと感じた。
よって、或人が闇堕ちして、或人と滅がお互いに悪意を乗り越える展開を今作にクライマックスに持ってきたのは、今作として「人工知能と共存する未来」の可能性を提示するためにも必要不可欠だったと感じる
意外性のある展開によって視聴者を惹きつけつつ、人工知能の課題に対する『仮面ライダーゼロワン』ならではの答えを描くことに繋がった点では、私は或人の闇堕ちは非常に意義のあるものに思えた。


勿論、或人の闇堕ちには若干の唐突感はあったし、その後の展開にも急展開がかなり多かったと感じる。
その原因として、COVID−19の影響で話数が短縮になったことが大きいと言えよう。


COVID−19の影響がなければもう少し納得感のある筋運びになったのでは、という残念な気持ちはたしかにある。
だが、『仮面ライダーゼロワン』は、製作陣や俳優が未曾有の危機の中で様々な困難を乗り越えて何とか綺麗に完結させてくれた作品であることは事実だ。
だからこそ、彼らの並々ならぬ努力によって完成した今作の最終章の魅力が、この記事を通して少しでも多くの人たちに伝わって欲しいと切実に思う。





▼他の記事▼

感想『仮面ライダーゼロワン』の“お仕事五番勝負”はなぜつまらないと言われているのか

絶賛放映中の令和1作目の仮面ライダー、『仮面ライダーゼロワン』。
人工知能搭載人型ロボである「ヒューマギア」が人々の仕事をサポートする世の中を描き、そのヒューマギアを開発・派遣する「飛電インテリジェンス」の社長である飛電或人を主人公に据えた非常に意欲的な作品だ。


そんな今作の1話から16話にかけて放映された第一章「滅亡迅雷.net編」では、人間の絶滅を掲げるヒューマギアのテロリスト集団である滅亡迅雷.netとの攻防を描いた。
一方で、17話から29話にかけて放映された第二章「ZAIA“お仕事勝負”編」では、飛電或人が代表取締役社長を務める飛電インテリジェンスと、天津垓が日本支社長を務めるZAIAエンタープライズとの対立にフォーカスした。
そして、天津垓が提案した“お仕事五番勝負”は、飛電インテリジェンスが用意したヒューマギアと、ZAIAエンタープライズが販売するザイアスペックを装着した人間が、様々なお仕事で対決する勝負だ。


そんな“お仕事五番勝負”に対する視聴者からの批判が最近特に目立つ。
この記事では、このような批判がなぜ起こっていて、果たしてこれらは的を射ているのかを、考察していきたい。


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この記事には、『仮面ライダーゼロワン』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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脅威に対する悪意

第1章では、ヒューマギアが実際の職場で活躍している姿を描いた。
一方で、第2章で行われた“お仕事五番勝負”では、人間とヒューマギアが対決をするという構図により、人工知能の弱点がより明確になった


一回戦の「生け花対決」では、「心」を持たないヒューマギアが、人間の心の機微が出る生け花の仕事で勝負する姿を描いた。
二回戦の「家売り対決」では、「暮らしの経験」を持たないヒューマギアが、暮らしの空間を提案する家売りの仕事で勝負する姿を描いた。
三回戦の「裁判対決」では、「正義感」を持たないヒューマギアが、人間の人生を左右する裁判の仕事で勝負する姿を描いた。
四回戦の「消防士対決」では、「命」を持たないヒューマギアが、人々の命を救う仕事で勝負する姿を描いた。
五回戦の「演説対決」では、「参政権」を持たないヒューマギアが、ヒューマギア自治都市構想の住民投票に向けて演説で対決する姿を描いた。


そして、それらの仕事の中で、ヒューマギア側に欠けているところを補いながら活躍していく様を描いた。
「生け花対決」の一輪サクヨは、生け花の知識やその極意をラーニングすることで、まるで心があるかのように生け花を生けた。
「家売り対決」の住田スマイルは、不動産のビッグデータと個人情報を照らし合わせることで、顧客のニーズに合わせた精度の高い住宅情報を紹介した。
「裁判対決」の弁護士ビンゴは、相手の表情などを分析して嘘をついているかどうかを判断することで、被告人の冤罪を晴らした。
「消防士対決」の119之助は、スキャナーによって要救助者の負傷度合いを判断したり、命を持たないことを活かして自己犠牲を払ったりすることで、火災に巻き込まれた人々の命を救った。
「演説対決」のMCチェケラは、ヒューマギアならではの能力を見せることはなかったものの、得意のラップを通してヒューマギアが人間の仲間であることを街頭演説で主張した。
このように、「心」「暮らしの経験」「正義感」「命」「参政権」といったヒューマギアが持たないものを必要とする仕事の中でヒューマギアがどのように活躍していくかを”お仕事五番勝負“のそれぞれの対決で描いた。
そして、弱点をかかえる仕事でもヒューマギアが能力面では人間に拮抗していることが判明した。


その影響で、人間がヒューマギアに対して悪意を向け始めたことが、第1章の諸々の展開と比べたときの大きな特徴だと言えよう。


その悪意の向け方として、人間がレイダーになりヒューマギア側の勝負を阻害することが多々あった。
「生け花対決」と「家売り対決」では、仕事を失う脅威に怯える人間側の代表である立花蓮太郎や新屋敷達巳。
「裁判対決」では、ヒューマギアに冤罪が晴らされて自分の検挙率が下がることを恐れた刑事の鳴沢益治。
「消防士対決」では、ヒューマギア側が負けるように仕向けようとしたZAIAの開発部主任の京極大穀。
人間がヒューマギアに悪意を向けレイダーになったのは、ヒューマギアが弱点をかかえる仕事でも人間と同等かそれ以上の成果を残せているからこそである


人間は、自分の立場や状況、更には仕事そのものまでもを脅かす存在に対して悪意を向けるきらいがある。
人工知能搭載人型ロボであるヒューマギアも、或人が主張してきたような「夢のマシン」であると同時に、現代の人々にとっては一つの「脅威」だ
人間の仕事を人間以上にこなすことができる人工知能が登場する未来は、現実世界でも十分にあり得ることである。
また、以下の記事で記載されているように、人工知能によって代替される可能性のある仕事は非常に多いため、人間が仕事を失う可能性も危惧されている。


『仮面ライダーシリーズ』は、その時代の人々にとっての「脅威」を敵側に配置したり、物語の構造そのものに盛り込んだりすることが多々ある。
たとえば、『仮面ライダー龍騎』では、アメリカの同時多発テロ事件を受けて異なる価値観を持つ13人のライダーが各々の「正義」のためにお互いの命を奪い合うライダーバトルを物語の根幹に据えたり。
『仮面ライダー鎧武』では、東日本大震災を受けて「理由のない悪意」であるヘルヘイムを怪人であるインベスの発生源であったり。
そして、人工知能の進歩がめざましい今、現代人にとっては人工知能も「脅威」なのかもしれない。


だからこそ、ヒューマギアのことを「脅威」とみなす人間がヒューマギアに対して向ける悪意を描くことは、今作では避けては通れない道だった。
そして、人間の悪意を描くうえでは、人間がヒューマギアと直接対決することでその脅威としての側面を実感することができる“お仕事五番勝負”という構造は非常に好都合だったと言えよう。


更には、ヒューマギアがマギア化していたのも、結局そのような人間の悪意が原因だったことが“お仕事五番勝負”を通して描かれた。
というのも、レイダーに変身した人間側に襲われたことや、垓に挑発されたことが、ヒューマギアのマギア化につながっていたからだ。
このことから、人間からラーニングするヒューマギアが「有罪」か「無罪」かは、人間のヒューマギアとの向き合い方次第であることが分かる。
“お仕事五番勝負“が、人間がヒューマギアのことを脅威に感じて直接悪意を向けるような構造だったからこそ、人間のヒューマギアとの向き合い方の大切さを強調することができていたと感じる。


このようなテーマ性の都合上、大体の人間がヒューマギアに対して好意的に接していた第1章とは対照的に、“お仕事五番勝負”では悪意を持つ人間が増えた。
ただ、我々視聴者も第1章で既にヒューマギアに対して好意的な印象を抱いているため、ヒューマギアに対して悪意を向けてくる人間側に対してどうしてもフラストレーションを感じざるをえなくなった。


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垓の不正行為


“お仕事五番勝負”を提案した側なのにもかかわらず、垓は、対戦相手のヒューマギアのマギア化を誘発することで勝負を乱し続けた。
「生け花対決」と「家売り勝負」では、垓に脅迫されたZAIA側の対戦相手の人間に悪意を向けられたせいで、一輪サクヨや住田スマイル、最強匠親方は負のシンギュラリティに達し、アークとの無線接続によりマギアになってしまう。
「裁判勝負」と「消防士対決」では、シンギュラリティの兆候を見せた弁護士ビンゴや119之助のことを垓が危険視し、ゼツメライザーを無理矢理装着してマギアにさせる。
「演説対決」では、MCチェケラが垓に挑発され、自らの意思でゼツメライザーを装着してマギアになる。


このように、ZAIA側の反則行為が横行していたことにより、勝負はフェアプレイではなくなった。
更に、一回戦で不正を行った立花蓮太郎のことを糾弾したこともあり、垓の行動に一貫性がないように思えることもあった。


だが、そもそも、 天津垓が“お仕事五番勝負”を仕掛けたのは、ZAIAエンタープライズの利益の追求と、飛電インテリジェンスの獲得が目的であったと考えると、垓のそのような行為にも合点がいく。
ヒューマギアとの対決はZAIAスペックの販促になり、飛電インテリジェンスを手に入れることにもつながるため、垓にとって“お仕事五番勝負”への勝利は必須だ。
だからこそ、ZAIAエンタプライズの評判を下げるような手段を使わずに勝負に勝てさえすればいいのだ。
人間の悪意に反応してヒューマギアがマギアになってしまう現象は、垓や世間からしてみればヒューマギアの脆弱性である。
ヒューマギアの負のシンギュラリティを誘発したり、意思を持つヒューマギアにゼツメライザーを装着したりしたのは、ヒューマギアのそんな欠陥を上手く利用した行為と捉えることができる。
そして、ライバル企業の商品であるヒューマギアの評判を落とすことが、相対的にZAIAの評価向上にもつながる。


「ZAIAエンタープライズの利益の追求」と「飛電インテリジェンスの獲得」を目的に行動していたのだと考えると、勝負にフェアプレイで挑まなかったことも当然だし、垓の行動には一貫性があることが分かる。


「人類は人工知能と共存すべき」という飛電或人や飛電インテリジェンスの主張が、第1章からはブレずに描かれ続けた。
一方で、「人工知能は人類の進化に利用するべき」という垓やZAIAエンタープライズの主張が第2章で描かれた。
この両者の主張の違いは、それぞれの会社の商品であるヒューマギアとザイアスペックの性質の違いにも明確に現れている。
そして、それらの主義主張がぶつかり合い、どちらが正しいのかを証明する場として、垓は“お仕事五番勝負”を持ちかけたはずだ。


だが、そんな両者の主義主張の対立を競うことはあくまでも勝負の表面上の目的であり、実際には垓が自身の真の目的を達成するために勝負を利用したに過ぎず、或人もまんまとそれに乗せられてしまっていた
だからこそ、不正を働いてまでして動く垓に対する苛立ちが生まれ、それに振り回される或人に対しても不満を感じてしまった。


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「お決まり」の流れ

そんな“お仕事五番勝負”の様子は、合計で10話にわたって描かれた。
しかし、その構成自体は非常にワンパターンだったと私は強く感じる。


その大きな原因として、“お仕事五番勝負“中の「お決まり」の流れが確立されてしまったことが挙げられる。
つまり、二話ごとに登場するヒューマギアと仕事こそは違うものの、非常に似たような流れの物語が五回も続いた。


以下が、“お仕事五番勝負”の各勝負の大まかな流れだ。
飛電インテリジェンス側の人間とZAIAエンタープライズ側のヒューマギアが対決。
ヒューマギアに対する悪意を持った人間がレイダーに変身してヒューマギアを攻撃。
シンギュラリティに達したヒューマギアはマギアに変身。
そんなヒューマギアの危険性を垓が主張。
(「演説対決」以外では) 最終的に人間とヒューマギアが和解。


ただでさえ“お仕事五番勝負”という比較的狭い世界の中で物語が展開されているのにもかかわらずこのような「お決まり」の流れができてしまったからこそ、意外性がなくなり、面白みもなくなったのだろう。


更に、一話に一体のヒューマギアとその仕事にフィーチャーする一話完結の方式の第1章とは違い、“お仕事五番勝負”では二話完結で行うようになったことも原因に挙げられる。
二話にわたって展開される「お決まり」の流れの勝負が五回もあったため、結果的に“お仕事五番勝負”が10話も続き、飽きにつながった。


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結論


なぜ“お仕事五番勝負”はつまらなかったのか?
その理由を端的にまとめると、10話にわたり5回も繰り返される「お決まり」の流れの中で、我々が好感を持つヒューマギアに対して人間が悪意を向け続け、更には主人公である飛電或人が我々が嫌う天津垓の掌で踊らされ続ける話を観続けないといけなかったからだ。
そして、その勝負の結果或人側が負けてしまったのだから、“お仕事五番勝負”だけにフィーチャーすると、我々はカタルシスを感じるどころか、フラストレーションが溜まる一方だ。


たしかに、「人工知能の欠点」や「脅威に対して人間が向ける悪意」といった面白い題材はあった。
だが、あまりにも我々がフラストレーションを感じる要素が多かったため、”お仕事勝負“はもう少し短くてもよかったのかもしれない。


色々とつらつらと述べてきたが、私は『仮面ライダーゼロワン』が描こうとしているテーマそのものは時代に即していると思うし非常に楽しんで観ている。
だからこそ、私は第3章での挽回に期待したい。




感想『仮面ライダー電王』はなぜシリーズ史上最大の分岐点となったのか

『仮面ライダー電王』は、『平成仮面ライダーシリーズ』の8作目として、2007年から2008年まで放送された作品だ。


前作『仮面ライダーカブト』までは、『平成仮面ライダーシリーズ』はコンテンツとして非常に不安定で、いつシリーズが終わってもおかしくない状態にあった。
例えば、以下のページに掲載されてある表を見て分かる通り、『仮面ライダーカブト』までは玩具の売上は衰退する一方だった。

それが、今作の成功がきっかけで勢いを取り戻すことができて、『平成仮面ライダーシリーズ』が20年も続く長寿番組になっていった。


また、10年以上も前の作品だが、今作は数多くのファンから今でも愛されている。
私も、小学生の頃に今作に出会い、それがきっかけで『平成仮面ライダーシリーズ』のファンになった。
そして、大人になった今でも年に一回は観るほど好きな作品だ。
勿論、私以外のたくさんのファンを生み、根強い人気を博した。


更に、今作の成功は後年の作品に多大なる影響をもたらすこととなった。
シリーズ全体を俯瞰したときに今作が非常に重要な立ち位置にあったことが、『平成仮面ライダーシリーズ』の歴史を振り返ると分かる。
ということで、この記事では、なぜシリーズに大きな影響をもたらすことができたのかと、具体的にシリーズにどのような影響をもたらしたのかを探求していきたい。


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この記事には、『仮面ライダー電王』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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“仮面”と“ライダー”の再検討

『仮面ライダー電王』は、シリーズの基礎である“仮面”と“ライダー”という二つの要素を再検討することで、「仮面ライダー」に対する新しいアプローチを試みた
今作のチーフプロデューサーを務めた白倉伸一郎氏は、とあるインタビューで以下のように述べている。

白倉「『仮面』と『ライダー』ですね。理屈っぽく言うと。」
司会「なるほど。『仮面ライダー』を分解して。」
白倉「そう。変身すると心も変わる、ってやつと、ライダーってバイクじゃなくて電車、ってやつ。」

― 白倉信一郎プロデュース作品を振り返る。第1回 ゲスト: 小林靖子 (脚本家) ~Part5~

“仮面”の部分は、主人公である野上良太郎がイマジンに憑依されることで人格が変わる、という設定になった。
そして、“ライダー”の部分は、従来のようにバイクではなく電車に乗るヒーロー、という設定になった。

電車に乗る“ライダー”

初代仮面ライダーの頃から、“バイク”に乗るヒーローであることが「仮面ライダー」の大きな特徴としてあった。
だが、今作のプロデューサーを務めた白倉信一郎氏も以下のように言及している通り、様々な法規制によって公道でバイクアクションを撮影することが難しくなったようだ。


加えて、2007年を生きる子供たちにとってバイクは、1971年に『仮面ライダー』を観ていた子供たちにとってのバイクほど身近でカッコいい乗り物ではなかった。
バイクの販売台数の減少*1などが、その背景にあるだろう。
そして代わりに、2004年に九州新幹線が開業したり、2007年7月にN700系が運行を開始したりと、何かと注目を浴びていた“電車”が、2007年を生きる子供たちにとって一番身近でカッコいい乗り物になったのだろう。
白倉氏は、今作の乗り物が“電車”になったことについては以下のように述べている。

『仮面ライダー』がうけたのは、当時の子供にとって1番かっこいい乗り物は"バイク"だったから。1番かっこいい乗り物に乗るヒーローが『仮面ライダー』だった。じゃあ今の子供にとってバイクがそうかっていうと、必ずしもそうとは言い切れない。じゃあ今の子供にとって1番の乗り物は何?"電車"だ。つまり、これこそが本当に仮面ライダーの精神を正しく受け継いでいるものなんだというのはどうだろうと監督と笑いながら話していました。

超!人気シリーズの登場 | 東映[東映マイスター]


よって、今作の乗り物が“電車”になったことは、仮面ライダーをずっと観てきた人たちにとっては衝撃的だったかもしれないが、2007年を生きる子供たちのことを考えると至って自然なことだったのかもしれない




そんな“電車”のモチーフは、スーツデザインからベルトまで至るところに組み込まれている。


電王が変身に使用するデンオウベルトとライダーパスは、当時都市部で浸透し始めたSuicaなどの非接触型ICカードを模している。

一方で、ゼロノスが変身に使用するゼロノスベルトとゼロノスカードは、デンオウベルトとは対照的に、当時はまだ主流であった磁気乗車券を模している。
一度使ったら終わりの磁気乗車券の特徴が、「変身回数の制限」「記憶を消耗する」といったゼロノスのデメリットとして物語にも非常に上手いこと活かされた。


また、電車のミュージックホーンのようなメロディが変身ベルトに待機音として取り入れられた。
それまでの変身ベルトは、効果音や台詞などが発されることはあったものの、メロディが取り入れられることはなかった。
よって、デンオウベルトやゼロノスベルトがメロディを取り入れたこと自体新鮮だった。
そのようなメロディは、玩具版のベルトで子供たちが楽しく遊ぶうえでも大きな役割を果たしたと考えることができる
そしてこれを皮切りに、『仮面ライダーW』のダブルドライバーや『仮面ライダーOOO』のオーズドライバーなど、後の平成二期シリーズの変身ベルトでも、メロディが多用されるようになった。


このように、“電車”モチーフは、玩具として発売される変身ベルトにも分かりやすく組み込まれたことで、そのプレイバリュー向上にも繋がったと感じる。




一方で、わざわざ「仮面ライダー」の象徴であるバイクを置き換えてまでしてライダーの乗り物を“電車”にするからには、単なるモチーフに留まらせるわけにはいかず、デンライナーは物語上ではそれなりの役割を果たす必要があった。
そこで、デンライナーは過去へタイムトラベルするためのタイムマシーンとなった。
白倉氏は、『仮面ライダー電王』が時間モノになった経緯について、以下のように述べている。

そして「仮面ライダー電王」の話題では、タイムトラベルものになった経緯が説明された。白倉は「電車で行き着く先をどこにするか。長石多可男監督に撮ってもらいたかったので、さいたまスーパーアリーナとか、監督の好きなロケ場所を使いたかったんですよ。そうなるとMAXでも10年前くらいの過去か、精神世界か、パラレルワールド、選択肢は3つくらいでした」と話し、「精神世界は後に『ウィザード』で、パラレルワールドは後に『ディケイド』で使ったんですけど(笑)」と続ける。

白倉伸一郎×小林靖子「仮面ライダーアマゾンズ」残酷すぎてNGとなった伏線とは - 映画ナタリー

このようにして、『仮面ライダー電王』は、時の列車デンライナーに乗り、未来からの侵略者イマジンと戦う物語になった。


実は、このような「時間モノ」は今作が初めてではなく、過去には『仮面ライダー龍騎』のタイムベントや『仮面ライダーカブト』のハイパークロックアップなどがあったように、物語内でタイムトラベルやタイムパラドックスを扱ったという前例はある。
しかし、メインのテーマに「時間」を据えた作品は今作が初めてだ。


『ドラえもん』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『ターミネーター』、『インターステラー』など、様々な作品がタイムトラベルを題材にしている。
ただ、タイムトラベルは実在しないため、作品や製作者によってその解釈が異なり、どの作品でもタイムトラベルのロジックは異なる。
そこで、『仮面ライダー電王』は「時間=人の記憶」という『仮面ライダー電王』なりの解釈を加えた。
「時間=人の記憶」というこの解釈は、(先ほどの引用で白倉氏が述べていたように)「10年前くらいの過去」にしかタイムトラベルできない、という製作側の都合があったために設けられたと考えることができる。
『平成仮面ライダーシリーズ』は、東京近辺で撮影をする必要があるうえ、決して高くはないテレビ番組の予算でやりくりしないといけない。
そのため、当然制約も多く、撮影当時の日本とは大きくかけ離れた時間を描くのは難しい。
だからこそ「時間=人の記憶」という解釈を加え、契約者の記憶に残っている時代にしか時間移動することができない、という制限を製作陣が自らかけたことで、2007年~2008年の日本に割と近い過去しか表現する必要がなくなった。
そして、明らかに時間移動をしたと分かるような表現ができないため、季節や天候の変化などの描写方法を積極的に用いることで現在との差別化を図る努力は見られた。


考えてみると、電車がタイムマシーンになったことで、割と分かりやすいタイムトラベルの演出につながったと考える。
というのも、レール上を走って過去・現在・未来を行き来しているため、レールを通して「時間」という概念を視覚的に分かりやすく表現することが可能となったからだ。
たとえば、『33話 タイムトラブラー・コハナ』で登場した「分岐点」によって、未来が枝分かれしていることを表現したりした。
更には、時間移動先の日付をチケットに表記することで、時間移動をしていることがより分かりやすくなった。


「時間」というのは、最先端の物理学ですら解明されていないことが多い、非常に複雑な概念だ。
そのうえ、人生経験の浅い子供たちにとって非常に曖昧な概念である「記憶」が加わった『仮面ライダー電王』のタイムトラベルのロジックは、子供たちにとっては非常に複雑だ。
よって、子供たちも慣れ親しんている電車のチケットやレールと言った要素を取り入れることで、タイムトラベルが視聴者に分かるように工夫が凝らされた


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入れ替わる“仮面“

『仮面ライダーシリーズ』を特徴づける要素として、「変身」がある。
その「変身」という言葉は、人間態のヒーローが仮面を被り仮面ライダーに姿を変える様を表す言葉として広く知られている。
ただ、『仮面ライダー電王』は、単に姿を変えるだけでなく、心までもが「変身」するヒーローの姿を描いた。

強烈なカラーのイマジン

モモタロス、ウラタロス、キンタロス、リュウタロス、ジーク、デネブという善玉のイマジンが二人に憑依することで、良太郎や優斗の“仮面”が入れ替わる。

電王やゼロノスと共闘するイマジンたちには、イマジンの姿・ライダーの姿・(良太郎や優斗などの) 人間に憑依した姿、という主に三つの姿がある。
イマジンの姿やライダーの姿だと大きく見た目が変わるのでまだ識別できるが、人間に憑依した姿だと差別化を図るのは非常に困難だ。
特に、野上良太郎の場合だと4体のイマジンが憑いているので、野上良太郎を演じる佐藤健さんは (素の状態を含めると) 5つのキャラクターを演じ分けないといけない。
なので、どのイマジンが憑依しているのかを分かりやすくするために、イマジンたちはまるで漫画やアニメのキャラクターであるかのような極端なキャラクターになった
イケイケな戦い好きのモモタロス、女好きでナンパ師のウラタロス、マイペースな関西弁のキンタロス、子供っぽい無邪気なダンサーのリュウタロスなど、それぞれのイマジンに明確なカラーがある。
今作の脚本家である小林靖子さんも、あるインタビューで以下のように語っている。

司会「キャラクターの色付けっていうか… モモタロスはこんなキャラとか、ウラタロスはこんなキャラとか… その辺りは… どこに寄ったんですか?その、桃太郎から発想していったのか…?」
小林靖子「いや。取り敢えずモモタロスが決まって、で、順々に出ていくので、前と違うキャラ、前と違うキャラ、っていう…」
司会「あぁ。じゃあ、基点を一つ置いて、そこの辺、差をそれぞれ作っていく、っていう…」
小林靖子「そうですね。一人が… 佐藤健君が一人で演じるので、ちょっと極端と言うか、カラーが変わらないと分からないというところで極端にしてましたね。」

― 白倉信一郎プロデュース作品を振り返る。第1回 ゲスト: 小林靖子 (脚本家) ~Part6~


また、イマジンたちのキャラクターは、脚本家、俳優、スーツアクター、声優と数多くの人たちが携わって作り上げられている。
携わる色々な人たちによってイマジンたちは新しいキャラ付けもなされて、どんどんカラーが強烈になっていった、という部分も大きいだろう。
モモタロスのスーツアクターを担当した高岩成二さんも以下のインタビューで、アドリブで台詞が発生していったことについて述べている。

――現場に入ってから変わっていったことも多かったんですね
高岩:動きが変わるから、それに合わせて台本もちょくちょく変わっています。例えば、デネブ(味方陣営のイマジンの一人)のことを"おデブ"と言いだしたの僕なんですよ。デネブが初登場のときの会話で、"モモタロスなら聞き間違えるだろうな"と思って、ずっと言い間違えた体で演技をしていたんです。そしたらデネブのスーツアクターだった押川善文がそれに乗ってくれて、メインライターだった小林靖子さんも拾ってくださったんです。次第に台本に反映されていきましたね。それも監督は止めませんでした(笑) だから台本から外れたことをやっているわけじゃないんですけど、アドリブでどんどん台詞が増えていくんです。記録さんも僕の言ったことをちゃんとメモしておいてくれるんですよ。台本にない台詞は、声優の関俊彦さん(モモタロスの声を担当)にも伝えなければいけませんからね。

このように、様々な人たちによって肉付けされていった影響で、どんどん強烈なカラーになったとも言えよう。
加えて、アニメ畑で活躍する声優がイマジンの声を当てているのだから、アニメのようなカラーになるのは至って当然だ。




そして、イマジンたちのカラー分けの一環として、決め台詞も登場した。
『仮面ライダー響鬼』のヒビキの「鍛えてますから」のような口癖は前例としてはあったが、戦いの前に前後の会話とは関係なく唐突に発する決め台詞は『仮面ライダー電王』が平成仮面ライダーシリーズでは初めてだ。
「俺、参上!」はかっこつける派手好きなモモタロスの性格を、「僕に釣られてみる?」は言葉巧みに相手を手玉に取るウラタロスの性格を、「泣けるで」や「俺の強さにお前が泣いた」はパワーがあるが人情に脆いキンタロスの性格を、「答えは聞いてない」は自分勝手で強引なリュウタロスの性格を、「降臨、満を持して」は高飛車なジークの性格を映し出している非常に秀逸な決め台詞だ。


これらの決め台詞のおかげで、どのイマジンが憑依しているのかを簡単に識別することが可能となった。
というのも、憑依や変身・フォームチェンジ直後にモモタロスたちは決め台詞を言うので、どのイマジンがいつ憑依しているのかが非常に分かりやすいからだ。
たとえば、良太郎が突然「俺、参上!」と言ったらモモタロスが憑依していると視聴者はすぐ分かる。





そんな中、記号的な表現を用いることなく5つの人格を演じ分けた佐藤健さんの力量はかなり凄い
人間に憑依する場合はイマジンやライダーの姿では直接的に見ることができない”表情”も加えつつ、イマジンたちの極端なキャラクターを自然に演技に落とし込まないといけない。
それを見事に成し遂げたおかげで、誰が見てもどのイマジンが憑依しているかが伝わるほどしっかりと差別化を図ることができていたうえ、イマジンたちに人間味も加わった (人間ではないが)。
また、佐藤さんがかなり楽しみながらイマジンたちを演じていることが伝わるので、視聴者側もかなり楽しんで憑依シーンを見ることができる。




時間移動などに関する複雑なロジックが分からなくても、イマジン同士の掛け合いや憑依劇などは十分に楽しむことができる点では、そんなイマジンたちの強烈なカラーは「わからない視聴者」が作品を楽しむうえでの重要な要素ともなった


そして、イマジンたちが今となっても大人気な理由も、彼らの強烈なカラーにあると考える。
だからこそ、佐藤健さんが芸能界で飛躍しても、イマジンだけで『仮面ライダー電王』の続編を様々な媒体で作ることができた。
例えば、テレビ本編終了後に電王をフィーチャーした映画が数多く作られた。

後者の『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』なんかは、佐藤健さんが演じる良太郎が出演することなく、『仮面ライダー電王』の続編として作られた。


更に、放送終了から12年経った今でもモモタロスたちが脚光を浴びることが多々ある。
テレビ本編終了後にも様々な媒体でモモタロスたちが活躍できているのは、製作陣の諸事情にあまり左右されることなく、声優さえいれば再演させることが可能である、といった彼らの特性が大きく影響しているだろう。
そして、彼らの分かりやすいキャラクターのおかげで、モモタロスたちは世代を超えて今日の子供たちからの人気を集めることができているのだろう。


だが、テレビ本編製作時に脚本家、俳優、スーツアクター、声優の尽力があったからこそ、イマジンというキャラクターが完成し、人気を集めることができたことは忘れてはならない。

”史上最弱”の主人公

第17話「あの人は今!も過去?」

イマジンに憑依されて共闘する必要性を付与するべく、今作の主人公である野上良太郎は体力がない、内気な、不運続きの主人公になった。
「一番強いのは俺」と豪語していた前作『仮面ライダーカブト』の主人公の天道総司とは対照的な主人公だ。
『仮面ライダー電王』の製作が発表された際、仮面ライダー電王は”史上最弱”の仮面ライダーと銘打たれていたほどで、この主人公の性格は当時かなり衝撃的だった。

www.oricon.co.jp


そして、今作を明るい作風にするべく、かなり極端なコメディ描写を使って良太郎が”最弱”である様を表現している
不良軍団にタコ殴りにされたり、怪人に取り憑かれたりして、ただでさえかなり不幸な目に遭うが、良太郎の場合は「ギネス級」に運が悪いので、自転車にこいでいたら自転車ごと木の上に飛ばされたりもする。


一方で、良太郎はそんな数々の不幸に巻き込まれながらも、根気強く立ち上がることができる精神的に強い人間として描かれている。
不運や不幸という言葉にはどうしても暗いイメージがあるが、良太郎にはそれらから立ち上がるメンタルがあるので、それら全ての出来事を笑いに昇華することができる。
野上良太郎を演じた佐藤健さんも、放送開始前のインタビューでこのように述べている。

佐藤は良太郎に共感し「つらいことがあっても、めげないで明るく生きていこうという、実は強い気持ちを持った子なんだと思っています」と話す。

ホント!?史上最弱、史上最年少の仮面ライダー誕生! | ORICON NEWS

そんな良太郎だからこそ、最初は暴走気味だったモモタロスたちを良太郎が上手くコントロールすることで、電王として時の運行を守るために戦うことができた
特に多くの人たちの印象に残ったのは、それまでモモタロスのことを怖がっていた良太郎が、『4話 鬼は外!僕はマジ』で泥棒に加担したモモタロスに「ごめんなさい」と言わせたシーンだろう。
私なんかは、このシーンで良太郎の芯の強さが垣間見えて、一気に彼のことが好きになってしまった。
それ以外にも、『10話 ハナに嵐の特異点』で消滅寸前のキンタロスを自分に入れることで救ったことはかなり勇気が要る行動だ。
そもそも、特異点だからと言って半強制的に電王に変身させられた良太郎が、『2話 ライド・オン・タイム』の時点で「やらなきゃいけないこと」だと納得して電王として戦う決意をしたのは、かなりの勇気と決断力がないとできないことだ。


“史上最弱”の主人公である良太郎にとってモモタロスたちの肉体的な強さや戦いのセンスが必要だったのと同時に、逆にモモタロスたちイマジンだけでは電王は決して成立することはできなかった。
モモタロスたちの強力な力が正しく使われるように良太郎が導くことで、電王はヒーローとして戦うことができている。
良太郎がいなくても、モモタロスたちがいなくても、「電王」というヒーローが生まれることはなかった。
そのような共依存の関係を描くうえでも、良太郎は精神的に強い主人公でないといけなかった。


このように、良太郎は“史上最弱”であると同時に精神的な強さを持つ主人公であったからこそ、ただのコメディリリーフになり下がることなく、『仮面ライダー電王』が「わからない視聴者」も楽しめるような明るい作品になる基盤を構築することができた




また、『仮面ライダー電王』といえば時間モノであることが取り沙汰されるが、実は「良太郎の成長」こそが物語の主軸である
最初は時間の複雑な仕組みを理解できずに「何だかよく分からないけど」時の運行を守っていたが、イマジンの悪業を目の当たりにするうちに、時の運行を守ることがいかに大切なことかに気づいて、それを確固たる意思にする。
それと同時に、最初は異なる価値観を持っていた仲間のイマジンたちや桜井侑斗との絆も育んでいく。


そんな良太郎は、「時の運行を守る」ことと「仲間を守る」ことを天秤にかけるように強いられる。
桜井侑斗が記憶を消費しながら戦っていたり、良太郎が電王として戦うことが仲間のイマジンの消滅をももたらしたりすることに気づく。
最初、良太郎はその両方を認めず、仲間の自己犠牲には否定的な態度を示す。
そんな仲間の自己犠牲を阻止するために代わりに良太郎は一人で強くなろうとする。
しかし、やはり自分が一人で戦うことに限界があることを知り、仲間の大切さを改めて感じる。
更に、仲間のイマジンも桜井侑斗も野上愛理も、みんな時の運行を守るために自己犠牲を払っていることに気づく。
同じ意思を共有しているからこそ、「時の運行を守る」という仲間の意思を尊重して自己犠牲を黙認し、共に全力で戦うことを決意することができたのだろう。
イマジンの悪業を見たり、仲間との絆を育んだりすることで、自己犠牲に対する否定的な姿勢を変えることができたのが、良太郎という主人公の作中における最大の成長であり、『仮面ライダー電王』という作品の骨組みにもなっている。
そう、『仮面ライダー電王』は良太郎がイマジンや大切な家族・仲間に囲まれて成長していく物語なのだ。

<電王>それは、『時の列車』に乗り、仮面ライダーとなった少年が、時の旅人として自分を見出し、電車を降りるまでの成長物語。

― 映画『仮面ライダー超電王&ディケイド 鬼が島の戦艦』映画チラシ

『仮面ライダー電王』の複雑な時間移動のロジックが分からない「わからない視聴者」であっても、良太郎という“史上最弱”の主人公が心身共に成長していく姿は非常に楽しめるようになっている


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賑やかな戦闘

良太郎にモモタロスたちが憑依するという設定ができたことで、今作の敵怪人であるイマジンが日本語を喋るようになった。


それまでの平成仮面ライダーシリーズは、怪人態で日本語を喋る怪人を極力避けてきた印象だ。
たとえば、『仮面ライダークウガ』のグロンギは独自の言語を話していたし、『仮面ライダー555』のオルフェノクや『仮面ライダーカブト』のワームは怪人が喋るたび人間態で話している演出があった。
また『仮面ライダーアギト』のアンノウンはほとんど無言だったが、終盤で突然ぎこちない日本語が少し話せるようになり結果的に得体のしれない不気味さが加わった。
人間態を持たないのにもかかわらずペラペラと日本語を喋る怪人が登場するのは、それまでの『平成仮面ライダーシリーズ』ではかなり珍しいことだったので、違和感を覚えた人もたくさんいただろう。


ただ、イマジンが日本語を喋ることによって、戦闘シーン中の会話が増えたことが前作からの大きな変化だ。
たとえば、お互いが挑発し合ったりするような、味方イマジンと敵イマジンの会話。
モモタロスとウラタロスのどちらが戦うかで揉めたりするような、味方イマジン同士の会話。
暴走するモモタロスを止めようと良太郎が叱るような、良太郎と味方イマジンの会話。
このように、多種多様な掛け合いが戦闘中に楽しめるようになった。
そしてその影響で、戦闘シーンがより賑やかでノリノリなものになり、「わからない視聴者」がより楽しめるようになった


また、『仮面ライダーアギト』以降のほぼ全ての作品でライダー同士が戦う「ライダーバトル」が展開されていたが、今作では二人ライダー制が導入されたことでライダーバトルがほぼない。
その分、「電王やゼロノス vs イマジン」という構図が毎回続いてしまうため、どうしても戦闘シーンの新鮮味がなくなる。
戦闘シーンを飽きずに観られるようするためにも、戦闘中の会話は大きな役割を担っていた


このような『仮面ライダー電王』における人間と怪人の関わり合いがウケたからか、明確に意思があり、意思疎通が可能な怪人が以後の作品でも増えていった
『仮面ライダーOOO』のグリード、『仮面ライダーウィザード』のファントム、『仮面ライダードライブ』のロイミュード、『仮面ライダーゴースト』の眼魔、『仮面ライダーエグゼイド』のバグスターなどがその例だ。
そして、『仮面ライダーOOO』の火野映司とアンクや『仮面ライダーエグゼイド』の宝生恵夢とパラドなどで見られるように、仮面ライダーが怪人と共闘する展開も増えていった。
その影響で、人間という枠を超えたバディものをテーマに据える作品も増え、必然的に戦闘中の会話が増えるようにもなった。


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ゲスト中心の物語

それまでの『平成仮面ライダーシリーズ』では、『仮面ライダー龍騎』や『仮面ライダー555』などのように、三人以上の多数の仮面ライダーによる群像劇を描いた作品が主流だった。
一方で今作は、テレビ本編に登場する仮面ライダーを電王とゼロノスの二人のみに絞った。


そして、群集劇よりかは、二話ごとに新しいゲスト (契約者) を登場させて電王やゼロノスと関わる様子を描く「ゲスト中心」の構成になった
この構成により、二話で完結するショートストーリーの連続によって今作の物語が進行することになり、その二話の前後編で描かれる内容に関する基本フォーマットがある程度確立された。
前編では、イマジンと契約者は契約を結び、契約者と良太郎たちが何かしらの形で関わり合い、電王やゼロノスが現在でイマジンを倒そうとする。
そして後編では、イマジンが強引に契約者の望みを叶えて過去に飛び、そして電王やゼロノスも過去に飛んでイマジンを倒す。
この基本フォーマットが第一話から最終話までずっと維持されたのが今作の大きな特徴だ。


前後編の二話完結は新しいものではなくて、『平成仮面ライダーシリーズ』では『仮面ライダークウガ』から基本のフォーマットとしてあった。
このフォーマットが採用されてきたことに様々な要因が挙げられると思うが、監督が基本的には二話ごとに交代するという製作上の都合が大きく影響していると推察することができる。
なので、これまでの作品を見ていると、たしかに二話ごとにある程度物語の区切りがあることが分かる。
ただ、今作では二週間ごとに変わるゲストを中心とした起承転結のある物語が二週間にわたって描かれるようになり、二話ごとの区切りがより明確になったと感じる




この「ゲスト中心」の構成のおかげで、複雑な縦軸よりも横軸に比重を置くことができた
「愛理の天体望遠鏡の謎」「桜井さんをめぐる謎」「分岐点の鍵」などが関わる縦軸の物語は、タイムパラドックスなどに関わるものが多い。
そのような複雑すぎる壮大な物語についていけなくても、起承転結が明確な分かりやすい二話完結の物語を気軽に観ることができる。


ゲストの望みを中心に描かれたドラマは、どれも非常に魅力的なものばかりだ。
人間には誰しも、自分の人生に大きな影響を与えた過去の出来事はあるだろう。
ゲストが後悔していること、忘れたいこと、変えたいことを現在で深掘りすることで、過去の出来事を明らかにする、というアプローチは非常に面白い。


また、ゲストと良太郎たちの関わり合いは、一般市民を守るために戦う仮面ライダーの姿を効果的に映し出した。
ライダーバトルが根幹にあった『仮面ライダー龍騎』などで見られた従来の群集劇のフォーマットでは、(良いか悪いかは別として) どうしても内輪で物語が完結しがちだった。
それが、今作では契約者といった形でゲストを登場させることで、より広い世界と仮面ライダーとの繋がりを視聴者に実感させることができた。




そして、今作以降の作品でもこの「ゲスト中心」の構成が重宝された。
鳴海探偵事務所に来る依頼者をゲストに据えて探偵ものを展開した『仮面ライダーW』などがその代表例だ。

『仮面ライダーW』の場合は、二話ごとに一つの事件を扱いながら「仮面ライダーと“街”」の関係性を映し出すことができ、「ゲスト中心」の構成との相性が非常に良かったと感じた。


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結論

以下のインタビューで白倉氏は、『平成仮面ライダーシリーズ』の視聴者には「わかる視聴者」と「わからない視聴者」の2種類がいることを述べている。

— 非常に基本的なことですが、電王のメインターゲットは?
小学校低学年です。
— そのターゲットに、あのストーリーは理解できる?
コアターゲットには、わからないだろうと思っています。難しい話ですから(笑)。ターゲットを、私は2層に考えています。わかる視聴者と、わからない視聴者がいるのだと。そのために、まず、わからない層にでも楽しめる構図づくりを大切にします。それは、ライダーのキャラクターや対戦の面白さですね。その上に、わかる層に向けたストーリーを載せていきます。 さらに種明かしをすれば、脚本はかなり重層的につくりあげていますが、常にドラマのあちこちに「そんなこと、どうでもいいじゃない」と思える“ノリ”や勢いを持たせるように苦心している。「あまり難しいことは考えなくていいですよ」「そこは、楽しむべきところじゃないかもしれませんよ」というメッセージを発信して、実際、気にせずに楽しめるようにしている。実は、舞台裏では、作家も含めてみんなで小難しいこと考えているんですが(笑)、考えていないふりをしつづけているんです。 で、コアターゲットの小学校低学年の視聴者の方々は、話の難しいところを考えずに、物語の面白さを見事に理解してくれているわけです。

白倉伸一郎(Shinichiro Shirakura)氏: ポイントはリアルタイム性であり時代性 つまりは「今」でしかできないこと | クリエイターズステーション

『平成仮面ライダーシリーズ』は、「わかる視聴者」に向けてストーリーを作り込んでいることもあり、大人からも人気を博すことができた。
『仮面ライダー電王』もまた、「時間モノ」という難解なストーリーを扱い、子供に媚びることなく作られた。


とはいえ、「仮面ライダー」はあくまでも子供向けのコンテンツだ。
だからこそ、当たり前なことに聞こえるかもしれないが、子供たちにどれほど受け入れられるかがシリーズの命運を左右する。


よって、難解な時間モノのストーリーを描きつつ「わからない視聴者」である子供たちが楽しめるような作品にもするために、今作はキャラクターや戦闘にこだわる必要があった。
キャラクター面では、強烈なカラーのモモタロスたちによって掛け合いや憑依劇が楽しめるようになり、“史上最弱”の主人公である良太郎によって明るい作品となる基盤ができつつ彼の成長ストーリーも楽しめるようになっている。
そして戦闘面では、会話が増加したことでより賑やかでノリノリなものになり、飽きずに楽しめるようになった。
それに加えて、ゲスト中心の構成が生み出されたことで、より気軽に楽しめる作品になった。


これらの工夫によって、以下のインタビューで白倉氏が述べている通り、「訳分かんなくても良い」ような作品になったと言えよう。

司会「それが、今みたいな平成ライダーらしいネチネチって今仰られてましたけど… それがそういう意味では平成ライダーの中で頭抜けて明るいというかね。」
白倉「でもあれは時間旅行モノにしちゃった弊害… というか副作用ですよね。やっぱ難しいですよね、タイムトラベルモノって。難しすぎて訳分かんないんで。絶対お客さん訳分かんないから。訳分かんなくても良いっていうメッセージ… っていうか光線を発しないとダメだった。バカが作ってるからしょうがないんだよね、っていう風に見えるものにしなきゃいけないって言って、とにかく明るい、で、バカっぽい、っていうのにしないといけない。」

― 白倉信一郎プロデュース作品を振り返る。第1回 ゲスト: 小林靖子 (脚本家) ~Part6~

妥協することなく難解なストーリーを扱いながらも、そのストーリーを理解しなくても楽しめるように緻密に計算されていたからこそ、『仮面ライダー電王』は子供たちから絶大な人気を集めることができた


そして、『仮面ライダー電王』の作り方が後年の作品でもまるで呪縛のように引き継がれることになり、その後シリーズ全体に多大なる影響を及ぼした
だからこそ、今作は『平成仮面ライダーシリーズ』の分岐点となったと、今振り返ると思える。




感想『仮面ライダージオウ』はなぜ王道から外れた記念作になったのか

先日、『仮面ライダージオウ』のテレビ放送は最終回を迎えた。
2019年4月の明仁上皇の生前退位を受けて、今作は「平成仮面ライダー20作品目」でありながら「平成最後の仮面ライダー」になり、記念作としての立ち位置を手に入れることとなった。
そんな『仮面ライダージオウ』がこの1年間でいったい何を目指し、何を成し遂げたのかを、この記事で探求していきたい。


ちなみに、『仮面ライダージオウ』は「東映特撮ファンクラブ」で視聴することができる。


仮面ライダージオウ Blu-ray COLLECTION 1


この記事には、『仮面ライダージオウ』やその他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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「ライダー」なカメン


今作が時間モノであることから、仮面ライダージオウ・ゲイツ・ウォズのスーツは、時計を模したデザインになっている。
ジオウは針時計、ゲイツはデジタル時計、ウォズはスマートウォッチと、それぞれ分かりやすいモチーフが取り入れられている。
仮面部分に針やブランドロゴを配置したり、胴体に向かってバックルを伸ばしたりして、一目で腕時計だと分かる秀逸なデザインだ。


しかし、初見でほとんどの人は、マスクの複眼部分にある「ライダー」や「らいだー」の文字に目が奪われてしまったのではないだろうか。
というのも、複眼にある文字のインパクトはかなり大きいからだ。
このデザインになった理由として、今作のプロデューサーである武部氏はインタビューで以下のように説明している。

――ここ数年の平成仮面ライダーはデザイン面で「仮面ライダーっぽくない」という違和感が熱心なファンの間で話題になりつつ、放送されてみると「動いている姿はカッコいい」「やっぱり仮面ライダーだ」という評価に変わることが多い気がします。その点、ジオウの場合は顔に「カメンライダー」と書いていますし、どこからどうみても仮面ライダー以外の何物でもないという「やや強引な説得力」が大きなインパクトを与えていました。あの「顔や武器などに文字を配置する」というアイデアはどこから来ているのでしょうか?

時計って小さいですし、強そうなモチーフじゃないでしょう。ライオンとか戦車とか、強そうなものって他にもっとありますからね。そこで、もっと強いインパクトを与えたいということになり「顔にライダーという文字を入れてしまおう」という案が出たんです。

『仮面ライダージオウ』最初の企画は「ロボットに乗って戦う仮面ライダー」 - 東映・武部Pが語る人気ヒーローに絶対必要なもの (1) | マイナビニュース


『平成仮面ライダーシリーズ』の歴史は、挑戦の歴史である。
数多くの「挑戦」の中で、世の中の人々がファーストインプレッションで「挑戦」だと感じ取ることができるのが、やはり毎年のライダーのモチーフだろう。
昭和の系譜のデザインであるクウガ・アギトの次に、騎士をモチーフにした龍騎の前代未聞のデザインで世間を驚かせた。
そして『仮面ライダー龍騎』以降、仮面ライダーのモチーフへの挑戦は加速していった。
ライダーなのにもかかわらず電車に乗って戦う桃太郎がモチーフの電王。
バーコードがモチーフであるマゼンタ色のディケイド。
右半身と左半身の色が異なる「はんぶんこ怪人」のダブル。
宇宙服を身にまとい、頭部がロケットの形のフォーゼ。
頭にミカンを被った戦国武将がモチーフの鎧武。
目玉や髪の毛があり、短パンを履いているかのように見えるゲームモチーフのエグゼイド。
とにかく、平成仮面ライダーはその個性的なモチーフやデザインで人々の想像を超え続けてきた。
だが、同時にその挑戦は必ずしも歓迎されるわけでなく、新作が出ると人々から「仮面ライダーらしくない」と言われることもあった。


ジオウの仮面に「カメン」「ライダー」という文字があるのも、そういった声に対する一種の反撃だととらえることもできる。
いくらジオウの奇抜なデザインを批判しても、仮面に「カメンライダー」と書いてあるのであればそれはどこからどう見ても仮面ライダーだ。
「ライダー」の文字が仮面に入っている挑戦的なデザインを通して、自分が「ライダー」であることを堂々と世の中に訴えかけていると考えることもできる。


そして、レジェンドライダーと並び立っても負けず劣らずの挑戦的なビジュアルだ。
なので、レジェンドと共演しても「王」としてのオーラは保つことができたのは大きい。


ジオウのモチーフやデザインは、挑戦的なビジュアルを出し続けてきた『平成仮面ライダーシリーズ』の最後のライダーとしては非常に秀逸なものなのではなかろうか。

「今」を全力で生き抜く

『仮面ライダージオウ』は、常磐ソウゴが2068年にオーマジオウという「最低最悪の魔王」になることをEP01で告げられ、「最高最善の魔王」になって自身の未来を変えるために戦うのが『仮面ライダージオウ』の大筋だ。
そんなオーマジオウの誕生を阻止するために、オーマジオウと戦っていたレジスタンスのゲイツとツクヨミは2068年からやってきた。
一方で、常磐ソウゴがオーマジオウとして君臨する「正しい歴史」へとソウゴを導くために、ウォズも未来からやってきた。


しかし、ゲイツとツクヨミの行動にはタイムパラドックスがある。
というのは、仮にゲイツたちがオーマジオウの誕生を阻止することができたら、ゲイツたちが2018年に来るきっかけはそもそもなくなるからだ。
なので、『EP44 2019:アクアのよびごえ』で湊ミハルが言った通り、ゲイツたちが2018年にいることで逆にオーマジオウ誕生の未来が確定してしまう、ととらえてもいい。
そう考えると、「正しい歴史」を守ろうとするウォズの行動の方が理にかなっている。


だが、「最低最悪の魔王」になってしまう、というのはソウゴにとっては未来の出来事なので一つの可能性に過ぎない
なので、ソウゴ視点では「未来」などいくらでも変えることができる。
また、ゲイツたちにとっても2018年が「今」なのだから、「未来」はこれから創り上げていくものだ。
だからゲイツたちも、ソウゴが「最低最悪の魔王」にならない可能性を信じて、2018年でソウゴと共に戦う。


我々視聴者も、ソウゴが果たして本当にオーマジオウになる「未来」を迎えてしまうのか、とハラハラドキドキしながら今作を視聴することができた
最初は本当に「普通の高校生」として描かれていて、「最低最悪の魔王」になる気配などなかった。
それが、『EP06 ビューティ&ビースト2012』で人々を自分の思い通りに動かして王の素質を見せたり、『EP24 ベスト・フレンド2121』で未来創造能力を使ったりした。
徐々に強力になるソウゴを見て、もしかすると本当に「魔王」になるのではないだろうか、と思えるようにもなってきた。
そう思わせてくれたソウゴ役の奥野壮さんの演技もお見事で、ソウゴの器の底知れなさを非常に上手いバランス感で表現してくれた。


そして、実際に、ゲイツやツクヨミ、ウォズと出会ったことで、ソウゴは「最低最悪な魔王」になる未来を回避して「最高最善の魔王」になることができた。
つまり、「未来」から来たゲイツたちがソウゴの「今」に介入し、仲間として共に「今」を全力で生き抜いたからこそ、「未来」を変えることができた、という構図になっている。
仲間がいなかったせいで痛みを知らない「最低最悪の魔王」であるオーマジオウを、仲間の力を結集させたジオウトリニティで倒すことができたシーンが、「仲間」という存在の大きさを象徴的に表している。


『LAST 2019:アポカリプス』でソウゴが言っていた「時計の針はさ、未来にしか進まない」という言葉の通り、(たとえ未来から来たとしても) その人がその時いる時代が「今」だ。
だからこそ、「今」を全力に生き抜くことで、自身や周りの人々、時には世界すらの「未来」をも変えることができる
これは『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』で導き出した「平成仮面ライダーは瞬間瞬間を必死に生きてきた」という結論にも通ずる部分がある。


考えてみると、『平成仮面ライダーシリーズ』最後の作品である今作が「今」を全力で生き抜くことの大切さを説くのは、非常に理にかなっている。
というのも、『平成仮面ライダーシリーズ』は、それぞれの作品が放映された時代に合わせて一生懸命作られたおかげで20年間も続いてきたからだ。
『平成仮面ライダーシリーズ』の場合は一つの作品が一年間放送される。
しかし、それほど長いこと放映されると、当初の予定通りに作品を製作することはなかなか難しい。
スケジュールの問題や役者の演技の方向性、はたまた視聴者の人気などによって、当初の予定から変わることは多々ある。
しかし、そんな中でその時の視聴者が最高に楽しめるように製作してきたのが『平成仮面ライダーシリーズ』の大きな特徴であり、この手法は「ライブ感」と呼ばれシリーズの人気に貢献してきた。
なので、『平成仮面ライダーシリーズ』は「今」を大切にしてきたリアルタイム性が非常にあるシリーズと言えよう。


そしてもちろん、今作もそういった「ライブ感」に溢れる番組だ。
白倉氏によると、『仮面ライダージオウ』も当初のストーリーから大きく変わったところが何点かあるようだ。

夏映画に向けて、インタビューを受けることがあります。
「テレビのストーリー展開、当初考えてたのと変わったりしました?」とか聞かれて、

「ゲイツは4月に最大のライバルとなって王の座を争い、6月にはウォズが真の敵として立ちはだかり……」

みたいな展開を考えてたと答えると、「ええっ?!」と驚かれたりします。

ジオウ42 話:「2019: ミッシング・ワールド | 仮面ライダーWEB【公式】|東映


更には、今作におけるレジェンドの登場も非常に「ライブ感」によって支えられた要素だ。
『仮面ライダージオウ 補完計画』の『13.5話 ユーレイの先生』で言及されていた通り、レジェンドキャストのスケジュールの関係でレジェンドの登場順が前後することもあったことから、非常に「ライブ感」によって左右されていた部分らしい。
そのうえ、レジェンドの登場を発表する次回予告や公式Twitterのつぶやきで毎週一喜一憂できたのも、今作をリアルタイムで視聴していた人の特権とも言えるし、まさに「ライブ感」の現れだ。


このように、『仮面ライダージオウ』は、「今」楽しめるように非常に工夫された作品だった作品だったと言ってもいいだろう。
そして、そういった「ライブ感」によって支えられてきた『仮面ライダージオウ』、そして『平成仮面ライダーシリーズ』全体を総括する意味で、「今」を全力で生き抜くことの大切さを描くことは必然だったと考える。
そして、『仮面ライダージオウ』が「今」を全力で生き抜いたからこそ、『令和仮面ライダーシリーズ』という「未来」へバトンをつなぐことができ、「未来」を創ることができたのだ。


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「過去」のレジェンド


「仮面ライダーの記念作」と聞くと、平成仮面ライダー10作記念作品として2009年に放映された『仮面ライダーディケイド』をどうしても思い浮かべる。

『仮面ライダーディケイド』以前は、基本的には作品毎に設定や世界観が独立していて、作品間の仮面ライダーが交わることはほぼなかった。
そこで、「全てを破壊し、全てを繋げ!」というキャッチフレーズのもとで作られた『仮面ライダーディケイド』は、平成仮面ライダーの作品間の壁を壊し、それまでの9作品を繋げてしまった。
ただ、『仮面ライダーディケイド』は (電王の世界などの例外はあるものの) 基本的にはオリジナルの作品とは違うキャストや設定を用いて、各作品の世界をリ・イマジネーションとして描いた。


賛否両論はあったものの、『仮面ライダーディケイド』によるこの「破壊」は商業的には大成功で、過去作で活躍したライダーたちが「レジェンドライダー」と呼ばれ積極的にコンテンツとして扱われるようになった。
例えば、玩具においては、次作『仮面ライダーW』の変身アイテムであるガイアメモリのレジェンドライダー版が発売され、以降毎年のようにレジェンドライダーの玩具が作られるようになった。
また、冬の劇場版や春の劇場版でもレジェンドライダーたちが登場し、作品間のライダー同士の共闘や争いを楽しむことができる媒体も増えていった。
そして、冬の劇場版が『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ』シリーズになってからは、レジェンドライダーがオリジナルキャストによって演じられることに重きを置くようになり、ファンも自然とオリジナルキャストの再演に期待するようになった。


初めて過去作の復活を試みた『仮面ライダーディケイド』以降、「レジェンドライダー」は『平成仮面ライダーシリーズ』にとっては一つのコンテンツと呼べるくらい肥大化した。
そして、この10年近くでレジェンドライダーに関して多くのノウハウを蓄積してきたはずだ。
だからこそ、20作目記念作品の『仮面ライダージオウ』は、「レジェンドから逃げない」という『仮面ライダーディケイド』とは違うアプローチをとることができたのだ。

その1 レジェンドから逃げない!
→ 打合せ時のキーワードでした。
記念作ということだけに頼ってはいけない → 「ジオウ」の魅力、何より新しく、面白く! → でも、一言でいえば、「平成20作記念」 → 「ディケイド」と同じにはできない ・・と、ぐるぐるした結果、レジェンドから逃げずに正面から向き合うことにしました。

仮面ライダージオウ 第1話 キングダム2068 | 東映[テレビ]


ただ、レジェンドといった「過去」の存在を復活させた今作は、皮肉なことに「過去」への固執を否定している
それは、『EP43 2019:ツクヨミ・コンフィデンシャル』でソウゴが「過去のことしか見ていない」加古川飛流を否定したことから分かる。
また、白倉氏は以下のようなコメントもしている。

なぜオーマジオウは魔王なのか。平成ライダーの王だからだ。
ソウゴ初変身の像を取り巻くライダーたちのモニュメント。あれはある種の墓標。五十年後まで、とっくに忘れ去られてしかるべき平成ライダーたちの記憶を、世界の中心に据えつづけようと、オーマジオウはたったひとり、戦いつづけているのだと。
それは善か、悪か?
悪にはちがいない。たとえどんなに輝かしくても、過去を理想化することは、現在をおとしめ、未来を否定することだから。
だから、オーマジオウはサイテーサイアクの魔王なのだと。

ジオウ50 話:「※ | 仮面ライダーWEB【公式】|東映


レジェンドの復活を望む者たちの多くは「あの頃のあのライダーの活躍をもう一度見たい」と考えているだろう。
もう一度「あの頃」に戻れる喜びから、『仮面ライダーディケイド』以降確立されてきた「レジェンド」といった概念や、彼らが登場する冬の劇場版が人気を博した。
ただ、「レジェンド」への固執は、「今」や「未来」の否定をも意味する。


だからこそ今作は、「レジェンド」といった「過去の存在」の描き方に非常にこだわっているように感じた。
レジェンドたちの登場方法が大きく変わった「剣編」の前と後を分けて、『仮面ライダージオウ』がレジェンドを復活させた意義を考察していきたい。

ifストーリー

『仮面ライダージオウ』の世界観では、「同じライダーの力は同じ時間には共存できない」というルールが存在する。
よって、過去でアナザーライダーが生成されることで、オリジナルのライダーが仮面ライダーとして戦ってきた歴史がアナザーライダーによって置き換えられる。
つまり、オリジナルのライダーではなく、あたかもアナザーライダーが現代に至るまでその仮面ライダーとして戦ってきたかのように歴史が改変されてしまう。
そして、ジオウがそのライダーのライドウォッチを継承してアナザーライダーを倒すと、そもそもそのライダーが存在しなかった歴史へと変わってしまう。


この流れだけ見ていると、『仮面ライダージオウ』という作品が過去作を改変し、その歴史を丸ごとなかったことにして消してしまっている
というか、無自覚ながらもジオウやゲイツもその行為に加担してしまっている。
では、ライダーの力を継承するだけでなく、なぜ今作はレジェンドたちの歴史までもを抹消してしまったのだろう?
平成ライダーのレジェンドたちの「過去」の歴史を消すことによって、新たな時代の「未来」の仮面ライダーに座を譲る、という作業を平成最後の仮面ライダーである『仮面ライダージオウ』で行おうとしたのだろう。
つまり、今作は、令和が始まる前に平成ライダーたちの歴史に終止符を打ち、平成仮面ライダーシリーズを強制的に終了させることが当初の目的の一つとしてあったのではないか、とも考えることができる。
実際に、レジェンドキャストたちもそのような気持ちで撮影に挑んだという話はある。

その他のレジェンドライダーの方たちとはそれほど大したお話をする機会がなかったのですが、「鎧武編」の第11、12話に出演されていた葛葉紘汰役の佐野岳さんからは、こんなお話をいただいたんです。紘汰からソウゴが「ライドウォッチ」を受け取るシーンのとき「これは、俺にとって卒業式みたいなものだから(このシーンは)重いぞ。これらのライドウォッチを全員ぶん受け取らなければいけないんだから、重要な責任なんだよ」って……。そこから、それぞれのレジェンドからライドウォッチを受け取るときの「重み」みたいなものを感じるようになりましたね。

『仮面ライダージオウ』奥野壮、ライドウォッチは卒業の証 - レジェンドライダーに託された責任の重み (2) | マイナビニュース


なので、平成ライダーたちにとって『仮面ライダージオウ』という作品は「卒業式」的な役割を果たしていたのかもしれない。
というか、過激な言い方をすると、今作は平成ライダーにとっての「墓場」なのかもしれない。
そして、ソウゴやゲイツがライダーたちから力だけでなく歴史を奪うことで、『仮面ライダージオウ』の物語が成立していたのだ。




様々な考えや価値観を持って戦ってきたレジェンドたちの姿を見てソウゴやゲイツが成長していくのが、『仮面ライダージオウ』の序盤の大まかな構造だ。
そして、その考えや価値観という部分にフォーカスするために、レジェンドたちからライダーの歴史を剥奪し、一人の人間として描いた。
ライダーでないレジェンドたちが何を考えどのような決断を下すのか、というifストーリーを今作は築いている。

他のレジェンドにしても、仮面ライダーに「変身」して敵と「戦う」という要素をなくしたとき、現実に生きていたらどんなことをしていたのだろうかと、元の作品をひとつひとつ掘り下げて、人物像を築いていく作業を行っています。それはもう、スタッフ一同が歴代平成仮面ライダーの各作品を徹底的に見つめ直して、とてつもないこだわりの上でやっています。

『仮面ライダージオウ』白倉伸一郎Pが振り返る『ジオウ』序盤展開のこだわりと、映画に込めた「ファンへの感謝」 (1) | マイナビニュース

永夢や飛彩という人間からライダーという要素を引いたら、何が残る?
残るのは人間です。
ライダーであろうがなかろうが、永夢は永夢だし、飛彩は飛彩。
敵が出たから駆けつけて変身するのは、ジオウでもゲイツでもできる。アナザーエグゼイドやエグゼイドアーマーみたいに、ニセエグゼイドはつくれる。でも、ニセ永夢やニセ飛彩はありえない。永夢や飛彩を演じることは、他の誰にもできない。それは何なのか?
ここでいうifの世界とは、より《本物》でなければいけないということなのです。

ジオウ4 話:「ノーコンティニュー2016 | 仮面ライダーWEB【公式】|東映


このような設定になっていることから、レジェンドたちの「力」を継承するだけでなく、考えや価値観という精神的な部分も継承することにも重きを置いていることが分かる。
ソウゴたちの成長という「未来」のために、「過去」のライダーたちの考えや価値観という部分にフォーカスするのは必然だったと感じるし、レジェンドを登場させる意義としてもかなり納得がいくものだ。


レジェンドという我々に既に馴染みがあるキャラクターだからこそifストーリーに説得力が出るので、オリジナルキャストでのレジェンド再演は必須だったと言えよう。
とはいえ、今作の設定上レジェンドは変身できないので、ifストーリーを十分楽しむためには元のレジェンドの姿を知っている必要がある。
現代の子供たちが知っているレジェンドの都合上、主に平成二期シリーズのレジェンドたちが今作の序盤で取り上げられ、ifストーリーの対象となった。

最終回の先

『仮面ライダージオウ』の「剣編」以後、レジェンドの登場方法が明らかに変わっていった。


まずは、「剣編」以降では平成一期のレジェンドたちをメインで扱うこととなった点だ。
今作の序盤で平成二期のレジェンドをメインで登場させてきたため、後半で残った平成一期のレジェンドにフォーカスするのは必然だった。
ただ、現代の子供たちにとって平成一期のレジェンドたちは知らない存在なので、それまでの様なifストーリーよりかはレジェンドがライダーに変身できるようなストーリーにする必要があった。
また、平成二期をフューチャーしてきた従来の構成だとレジェンドたちが活躍した時代までタイムトラベルする必要性があったが、レジェンドキャストに10年以上も前の姿を演じてもらうことにはやはり違和感がある。
よって、「剣編」を境にアナザーライダーが2019年に誕生するようになり、それ故レジェンドたちの歴史も今作で消えることはなくなり、基本的にはタイムトラベルをせずに2019年のみで物語が進行するようになった。


ただ、レジェンドの歴史を維持したまま2019年現在の物語を描くことになったため、「剣編」以後は各々のレジェンドの作品の最終話後の話として機能していた
そして、オリジナルの作品では描き切れなかった内容を補完することで、その作品を真の意味で終わらせる役割を果たしていたと解釈することもできる。
例えば、『仮面ライダー剣』の最終話の時点では休戦状態であったバトルファイトが、今作の「剣編」では完全に終わり剣崎と始が再び平和な生活を送ることができるようになった。
また、主人公ライダーに対する憧れがどこか心の中にあった『仮面ライダー響鬼』や『仮面ライダーカブト』の登場人物が今作の「響鬼編」や「カブト編」で漸く主人公ライダーに変身することができた。
言ってしまえば中途半端に終わってしまっていた各作品の物語を本当の意味で終わらせたので、違う形ではあれど、序盤とは同様に「剣編」以後も平成ライダーの「墓場」として機能していた


そもそも、平成一期仮面ライダーシリーズの頃は今では当たり前となった冬の劇場版や本編終了後のVシネマもなければ、シリーズ間のクロスオーバーもほとんど無かった。
平成一期シリーズにとって「最終回」は物語の完全なる終着点であった。
だから、10年以上、最終回で止まったままであった平成一期シリーズの物語が『仮面ライダージオウ』を機に再び動き始めた、と見なすことができる。


『仮面ライダージオウ』で当時のキャストによる正当な続編が製作されたことに素直に感激する人もいれば、勝手に登場人物の言動を解釈したり、勝手に物語を強制終了させたりしたことをよく思わない人もいるだろう。
例えば、『仮面ライダーカブト』のテレビ本編で仮面ライダーガタックへの初変身を果たした際に「俺は俺にしかなれない」と言い放った加賀美新が、「カブト編」で仮面ライダーカブトに変身したことは多くのファンによる批判の対象になった。
というのも、平成一期シリーズは10年以上も前の作品であるため、放送終了後からファンたちは作品の登場人物やその言動などを勝手に解釈し、作品内で描き切られなかった部分を補完してきたからだ。
そこで、ファンと『仮面ライダージオウ』との間で解釈違いが生じてしまうのはある意味当然のことなのかもしれない。


だが、『仮面ライダージオウ』が提示した平成一期シリーズの最終回後は、「公式」の中でもかなり「公式」な解釈である、と私は考える。
まず、『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダー剣』『仮面ライダーカブト』『仮面ライダー電王』『仮面ライダーキバ』はどれも白倉氏か武部氏のどちらかがプロデュースした作品であり、今作も両者が手掛けている。
『仮面ライダージオウ スピンオフ RIDER TIME 仮面ライダー龍騎』や「キバ編」に関しては、当時の脚本家の井上敏樹氏までもを起用した。
また、『仮面ライダー響鬼』は、前半は高寺プロデューサーで後半は白倉プロデューサーが担当した作品だが、「響鬼編」では桐矢京介という『仮面ライダー響鬼』の後半を代表する人物にフィーチャーした。
このように、『仮面ライダージオウ』で平成一期を扱った回は当時のプロデューサーや脚本家の解釈によって製作されたため、各作品にとってかなり一次創作的なものであると納得せざるを得ない。
逆に、「クウガ編」がなかったのは、『仮面ライダークウガ』のプロデューサーである高寺氏が不在である中、第三者の勝手な解釈によって当時の物語のその後を描くことを防ぐためだったと考えることもできる。


しかし、このようにレジェンドライダーの物語の最終回後を描くことは、必然的にレジェンドたちが中心の筋書きになってしまう。
このような筋書きが実現したのは、ジオウ・ゲイツ・ツクヨミ・ウォズたちの存在感が今作の序盤で十分に確立されたからだ
だからこそ、ジオウのライダーの活躍が霞むことなく、レジェンドたちと並び立って戦うことができた。
また、オリジナルの作品でおなじみの演出 (「アギト編」や「響鬼編」のBGM、「カブト編」のオープニングなど) を入れ込むことができたのも、『仮面ライダージオウ』という作品のフォーマットが十分に確立されていたからだ。


そういった意味でも、変身して戦う必要がある平成一期のライダーたちを後回しにして『仮面ライダージオウ』に登場させたのは合理的だ。


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ホンモノとニセモノ

レジェンドたちを通して「ホンモノとニセモノ」を描いているのが今作の大きな特徴の一つだと言える。




まずは、今作の敵であるアナザーライダーたちだ。
アナザーライダーは、レジェンドライダーたちの姿や能力を模した怪人だ。
頭部が仮面ではなく、目・鼻・口があって顔のような形状であるという点が仮面ライダーとは決定的に違い、不気味に思えてくる。


そんなアナザーライダーたちの変身者たちが、レジェンドと対になっているのもこれまた面白い。
例えば、一度きりの命を守り抜くドクターである仮面ライダーエグゼイドの宝生永夢とは対照的に、アナザーエグゼイドの変身者は病を患っている息子を蘇生させようと目論む父だ。
また、無欲である仮面ライダーオーズの火野映司とは対照的に、アナザーオーズの変身者である檀黎斗は支配欲に溺れる存在として描かれている。
このような「ホンモノとニセモノ」の対比があるからこそ、ホンモノのレジェンドがヒーローたる理由がより際立つ。




そして、もう一つの「ニセモノ」と言えば、ジオウやゲイツのライダーアーマーがある。


ジオウたちは、レジェンドからライドウォッチを継承することによってその力を継承する。
しかし、仮面ライダーディケイドなどとは違い、ジオウたちはそっくりそのままレジェンドライダーに変身することはできない。
代わりに、ジオウやゲイツの基本スーツの上からレジェンドライダーのスーツを模したライダーアーマーを身につける。


ただ、力を継承しているとは言えど、「ホンモノ」のレジェンドライダーたちからしたら当然ライダーアーマーは「ニセモノ」だ。
例えば、仮面ライダービルドでお馴染みの宙に浮く数式が、ジオウビルドアーマーだとソウゴの学力を反映するかのように「よくわからない式」「記号だらけ」などの文字に置き換わっていることから、ホンモノとの違いは明確だ。
また、仮面ライダーエグゼイドの「Hit!」の攻撃エフェクトが、ジオウエグゼイドアーマーだと「ヒット!」に変わっているのも、ニセモノだからだと言えよう。
だから、たとえレジェンド本人から力を継承したのだとしても、そのレジェンドそのものになることはできず、あくまでも「ニセモノ」のままであるのだ。




このように、「ホンモノ」のレジェンドを出演させながらも、アナザーライダーやライダーアーマーと言った「ニセモノ」同士の戦いを描いているのは、『仮面ライダージオウ』の大きな特徴と言える。
そして、これらの「ニセモノ」の比較対象がいたからこそ、「ホンモノ」のレジェンドライダー一人ひとりの考えや価値観がより明確になった

時空のロジック

仮面ライダージオウは、「時空を超え、過去と未来をしろしめす時の王者」であり、時計をモチーフにしたライダーだ。
そんな『仮面ライダージオウ』という作品には当然、「時間」や「時空」といった要素が絡んでくる。


劇場版でのクロスオーバーは度外視すると、『平成仮面ライダーシリーズ』は基本的に各作品の設定や世界観が独立している。
なので、各作品レジェンドが同じ世界に存在していると仮定すると、矛盾が生じてしまう。
そこで、『仮面ライダージオウ』はそのような矛盾を解消しようと、アナザーライダーやライドウォッチによる過去改変のロジックを持ち込んだ。
このことについては白倉氏もツイートで言及している。

『仮面ライダージオウ』の序盤では、レジェンドが活躍していた時代にタイムジャッカーが行ってアナザーライダーを生成していた。
そして、アナザーライダーと戦うためにジオウたちがタイムマジーンでレジェンドが活躍していた時代へ行くのが基本構造だった。
アナザーライダーの誕生でレジェンドの歴史が置き換わったり、更にライドウォッチの継承で歴史そのものが消えたりすることで、時間が改変されていった。
この仕組みを理解するには、白倉氏の言葉で言う「縦のパラレル」の概念を理解する必要がある。

ただ、『平成仮面ライダーシリーズ』の視聴者なら尚更「縦のパラレル」を理解するのに苦労する。
その原因の一つとして、『平成仮面ライダーシリーズ』を観てきた人たちには「横のパラレル」の方が馴染みがあることが挙げられる。
『仮面ライダーディケイド』の「九つの世界」にはじめ、『仮面ライダー 平成ジェネレーションズFINAL』の「エグゼイドたちの世界」と「ビルドの世界」、『仮面ライダービルド』最終話のA・B・C世界などが「横のパラレル」の例だ。
だからか、因果律による「縦のパラレル」が出てきたときに、多くの視聴者がそれを「横のパラレル」として考えてしまって頭を抱えてしまったのだろう。
少なくとも『仮面ライダーディケイド』のテレビ本編ではオーロラカーテンで「横のパラレル」の世界を行き渡った門矢士が、今作に客演して「縦のパラレル」の世界を行き来していたことも、複雑さに寄与しているのだろう。


とにかく、「時間モノ」は非常に複雑だ。
以下のインタビューからも分かる通り、製作陣は今作の設定を非常に練ってきたのにもかかわらず、そういった設定が表に出ることで作品の面白さがなくなる、と考えていたようだ。

白倉「ホワイトボードを使って練りに練って、これでいいだろうという設定を、1回できたらそれを壊すところからもう1回、始めなきゃいけない。その設定が表に出ちゃうとあまり面白くないので、この設定、1回忘れて、どうしたら面白くなるのかっていうことを、また全然別の次元で考えて、じゃあどうやって帳尻合わせるんだ、って」
—気が遠くなる作業。
白倉「そうなんです」
田﨑「ホワイトボードで図解しないと理解できないことを、ドラマを見ながらのお客さんは理解できるとは思えないですからね。こっちとしては、しっかり背骨は作っておかないと、みたいなところもある」

— スポーツ報知「平成仮面ライダー特別号」 23面


だから、時空のロジックに関する説明は、テレビ本編ではほぼすっ飛ばしている。
「縦のパラレル」云々を説明してもメインターゲットの子供たちにとっては理解できないほど複雑だ。
だからこそ、設定の説明に時間を割かずに、レジェンドとの交流や、ソウゴが仲間を獲得していく展開などのよりアツくなる展開を重視したのは、割と合理的な判断だ
数多くの謎が残っているのにもかかわらず、終盤になっても大道克己やチェイスなどのレジェンドを出演させたのも、そのような記念作ならではの面白さを重視するのスタンスがあったからだろう。


ただ、今作の「背骨」となっている設定があまりにも説明されていなかったことも事実だ。
例えば、時空転移システムの仕組みやアナザーライダー・ライドウォッチによる過去改変に関する説明が非常にさっぱりしていたし、「剣編」以降レジェンドが変身できたり記憶を保持していたりした理由は明言されていない。
時空に関する多くの謎は作中では「時空の歪み」といったあやふやな表現で解決されていたことも否めない。
東映特撮ファンクラブで配信されている『仮面ライダージオウ 補完計画』や白倉氏のTwitter、東映の公式サイトなど、設定に関する補足説明をしてくれる媒体は確かにあるが、それらも完全な「答え」を提供してくれず、最終話の放映が終わった今でも多くの謎が残る。
その辺はどのように補完されていくのかには今後期待していきたい。


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結論

平成12年の『仮面ライダークウガ』から20作連続で製作されてきた『仮面ライダーシリーズ』は、ファンから『平成仮面ライダーシリーズ』と名付けられ、いつの間にかその呼称は公式のものとなった。
そんな中、『平成仮面ライダーシリーズ』20作目であり最終作でもある『仮面ライダージオウ』は、「過去」の19作品を総括し、そして、次の時代である「未来」へと繋ぐ役割を課せられた。


そんな『仮面ライダージオウ』は、『平成仮面ライダーシリーズ』19作品が築いた「過去」を受け継いでいる。
というのも、「過去」の平成ライダーたちが築き上げてきた物の集積があってこそ、『平成仮面ライダーシリーズ』がここまで続くことができ、「今」の『仮面ライダージオウ』が生まれることができたからだ。
ジオウの奇抜なデザインや、「ライブ感」を重視する作りは、シリーズが「過去」に培ってきたことを「今」に繋いだ例だ。


そして、『仮面ライダージオウ』は、平成を生き抜いたレジェンドを何人も復活させることで、「過去」の存在に「今」を与えた。
だが、「過去」を理想化することは「悪」である、というのが今作の認識であるため、「過去」にとらわれずに「今」から「未来」へと向かっていく必要があった。
よって、「過去」のレジェンドたちはライダーとして再び活躍するために復活したわけではなく、あくまでも「今」のライダーであるソウゴたちに考えや価値観を継承させるために登場した
だからこそ、変身できない設定のレジェンドがいたり、「ニセモノ」といった比較対象を配置したりした。
そして、継承が終わると、「未来」へと繋げるために「過去」のレジェンドたちの物語が消されたり終わらされたりした。
そのように、「過去」の意思が「今」や「未来」へと受け継がれていった。


そう、『仮面ライダージオウ』は決して「過去」を理想化しなかった。
代わりに、「今」や「未来」を「最高最善」の形に創り上げるための指標として「過去」を捉えた
このように「今」から「未来」へと向かっていくことは、平成最後の仮面ライダーとしての欠かせない使命だった。
というのも、「平成」といった「過去」にとらわれていたら、永遠に「令和」へと向かっていくことができなかったからだ。


結果的に今作は「ピンチに立ち向かうために共闘する歴代ヒーローたち」と言った従来のクロスオーバー形式からは程遠い作品となった。
そういった意味では、『仮面ライダージオウ』は王道から外れた記念作だ。
だが、『仮面ライダージオウ』という作品は、主人公のソウゴと同じように、「今」を全力で生き、常に未来を向いていた作品だった
だからこそ、製作陣や視聴者が前向きに『令和仮面ライダーシリーズ』へと進めるきっかけにもなったと言えよう。
よって『仮面ライダージオウ』は、『平成仮面ライダーシリーズ』だけではなく、『仮面ライダーシリーズ』そのものにとって重大な通過点になったと感じる。
令和ではどのような仮面ライダーが待ち受けているのだろうか。




感想 『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』という怪作はなぜ生まれてしまったのか

2019年7月26日、私は『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』の公開初日に、朝イチの回を観てきた。
前作『仮面ライダー平成ジェネレーションズForever』は試写会がなく、公開当日までサプライズレジェンドゲストの登場が伏せられていた。
一部のインタビューで、今作でも何かしらのサプライズがあることが示唆されていた。

――冬の映画では、歴代平成仮面ライダー19人がそれぞれの得意技を披露し、見せ場たっぷりに活躍していましたが、今回も歴代仮面ライダーの大集合を期待してもいいでしょうか。そして、ジオウに続く新たな仮面ライダーとして先日発表があった『仮面ライダーゼロワン』の"初お目見え"があるかどうかも気になります。

すでに仮面ライダーマッハ/詩島剛(演:稲葉友)の登場は発表されていますけれど、他にも意外な仮面ライダーが姿を見せるかもしれません。詳しくは公開日まで言えませんが、仮面ライダーを本気出して"復活"させると、ここまでやるぞ、ということだけは申し上げておきます(笑)。そして、毎年夏のお楽しみですので、ファンのみなさんへの"お土産"として新たな仮面ライダーの姿もお見せできると思いますよ。

『仮面ライダージオウ』田崎竜太監督、映画は「平成仮面ライダーを総括する意味での最終回」 (1) | マイナビニュース


というわけで、ネタバレを踏む前に映画を観てやろう!と考えて、できる限り早く観に行った。
そんな私が今作を観て感じたことを思うがままに書きつつ、なぜこのような怪作が出来上がったのかを分析していきたい。


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この記事には、映画『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』や『仮面ライダージオウ』、その他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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最後の継承


今作は、何者かが『仮面ライダードライブ』のクリム・スタインベルトの祖先だと思われる織田信長の歴史に干渉することでドライブとマッハを歴史から抹消しようと目論んでいることを受けて、クリムがソウゴたちに助けを求めるところから始まる。
そして、ソウゴたちは仮面ライダーマッハである詩島剛に出会い、共に戦うことになる。


『仮面ライダージオウ』テレビ本編では、『EP39 2007: デンライナー・クラッシュ!』で電王ライドウォッチがソウゴの手に渡ったのを機にライドウォッチは一応全て揃った。
しかし、ゲイツがオーマジオウから未来で奪ったためソウゴの手元にあったドライブライドウォッチのみ、真の意味で「継承」されていなかった。
そんなわけで、最後まで継承が残されたドライブライドウォッチがジオウの物語における「鍵」となることを多くの人が期待した。


ところが、実際に今作を観ると、ドライブの継承が最後まで残された理由や、わざわざ今回の劇場版でフィーチャーした理由が見当たらなかった
恐らく出演可能なキャストが揃うまで待ったりした結果、たまたま「ドライブ編」が最後まで残ってしまったのだろう。
そして、クリムを演じるクリス・ペプラーが明智光秀の末裔であるという理由で織田信長と共演させるというメタにもつながって今作の脚本は生まれたのだろう。
『仮面ライダージオウ』という作品の「レジェンドから逃げない」というスタンスによる影響ではあると思うし、仕方ないと割り切るしかないのかもしれない。
ただ、今作でのドライブ勢の客演は代替可能なものになってしまっていたため、ドライブでないといけなかった正当な理由がこじ付けでもされなかったのが少し残念だ。




ところで、『仮面ライダージオウ』がテレビ本編でレジェンドと関わってきた理由は大きく分けて二つあると私は個人的に考える。


一つは、ソウゴがレジェンドたちの考えや価値観に触れ、王として成長していくためである
アナザーライダーの誕生によってレジェンドたちの変身能力は奪われるが、変身できない「ただの人間」となったレジェンドと関わることでソウゴは一人の人間であるレジェンドたちの考えや価値観に触れることができる。
それらに触れていきながらそれぞれのライダーのライドウォッチを手に入れることで、レジェンドの力を真の意味で「継承」していった。


そしてもう一つは、過去作で描き切れなかった内容を補完することで、その作品を本当に終わらせるためである
例えば、『仮面ライダー剣』の最終話で休戦状態となったバトルファイトに終止符を打った「剣編」や、『仮面ライダー響鬼』で”響鬼”を襲名することができなかった桐谷京介が響鬼に変身した「響鬼編」などがこの分かりやすい例だ。


今作で剛がソウゴたちに助けを求める理由は、「ダチであるチェイスの歴史を守るため」である。
というのも、クリムの歴史を消してしまうとロイミュードも存在しなかったことになってしまうからだ。
「ダチを助けること」は剛が『仮面ライダードライブ』作中でチェイスから学んだことであり、それが今回の剛の動機になっていることには納得がいく。
しかし、今作の段階でソウゴはゲイツやウォズと既に友情を育んでいるため、剛のその姿を見て学ぶことは特段なかったとも言えよう。
もしもう少し早い段階でこの「ドライブ編」があったら、ソウゴたちがレジェンドから学ぶいい機会にもなったはずなので、その点が少し残念だ。


また、『仮面ライダードライブ』のテレビ本編を補完するような要素が今作にはほとんどなかったことも悔やまれる。
東映特撮ファンクラブで製作された『ドライブサーガ 仮面ライダーブレン』の最後で剛がチェイスの復活を試みていることが明かされたので、今作では『仮面ライダードライブ』のテレビ本編の続きとしてチェイスの復活を描くのかとてっきり思っていた。
だが、実際に今作は『仮面ライダーブレン』の物語とはほとんど繋がりがなく、チェイスの復活は果たされなかった。
ただ、テレビ本編の『EP47 2019: きえるウォッチ』でチェイスが復活することが先日判明した。

『仮面ライダージオウ』のテレビ本編でこそ、『仮面ライダードライブ』を補完したりしてくれることに私は期待したい。


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平成ライダーとは?

今作の大きな柱の一つとして、「平成ライダーとは?」という問いかけがある。


『仮面ライダー』から『仮面ライダーBLACK RX』を「昭和ライダー」、『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダージオウ』までを「平成ライダー」とまとめるようになった。
『仮面ライダーBLACK RX』と『仮面ライダークウガ』の放映の間に約10年程のブランクがあったことや、その二作品を境に作風が大きく変わったことを受けて、最初はファンの間で「昭和ライダー」や「平成ライダー」と非公式で括るようになった。
その区切り方がいつのまにかは公式でも採用されるようになり、『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat. スーパー戦隊』と言った映画が制作されたりするようになった。


そして20作目の平成仮面ライダーシリーズである『仮面ライダージオウ』の放送は、2019年春の上皇さまの生前退位と新元号「令和」の始まりと丁度重なった。
"平成"ライダーという区切りができてしまったのだから、当然『仮面ライダージオウ』は平成ライダーの最後を飾る作品となった。
そんな『仮面ライダージオウ』は、「平成ライダー」と呼ばれる『仮面ライダークウガ』以降にテレビで放送された仮面ライダーたちと出会い、その力を継承していく物語を一年間描いてきた。




そんな『平成仮面ライダーシリーズ』は、基本的に各作品の設定や世界観が独立しているのが大きな特徴だ。
よって、一年間の放送が終了すると次の作品で全く新たな設定や世界観の新しい仮面ライダーが登場する。


そこで、今作の敵であるクォーツァーは、平成ライダーの歴史を「美しくない」ものと称してそのリセットを試みる。
振り返ってみれば、この20年間の作品群を見ていると、作品毎の設定や世界観があまりにも異なるため、綺麗なまとまりはないし一貫性もない。
また、映画や派生作品でのクロスオーバーが全て正史だと仮定すると矛盾が生じる。
平成ライダーの主役ライダーが並んだ時、色やスーツデザインが全員異なるので、『スーパー戦隊シリーズ』の歴代レッドが並んだ時の画と比べると統一感もない。


それに対してソウゴは、たとえ凸凹で不揃いの物語であっても、その瞬間瞬間を必死に生きて戦ってきたことが大切なのだ、といういかにも彼らしい反論をする。
これは、これまでソウゴが「平成ライダーの力の継承」を通して、平成ライダー20作品の物語の登場人物や、その物語で描かれたテーマに触れてきたから言えることだろう。
ソウゴの「平成ライダーの力の継承」には、より良い未来を創る目的以外にも、平成ライダーたちの過去を肯定する意味合いもあったのだと考えると、なかなか感慨深い
レジェンドたちと心を通わせることで継承を進めてきたソウゴだからこそ、平成ライダーの歴史の肯定により説得力があるのだろう。


メタ的な話で言えば、物語が凸凹で不揃いなのは『平成仮面ライダーシリーズ』が”挑戦”の歴史を歩んできたからだ
既存の”仮面ライダー象”を破壊した『仮面ライダークウガ』に始め、シリーズ存続の危機に陥ていた『仮面ライダーアギト』から『仮面ライダーカブト』、初めてクロスオーバーを試みた『仮面ライダー電王』と『仮面ライダーキバ』、10年間の平成ライダーを破壊して繋げた『仮面ライダーディケイド』、ある程度フォーマットを確立させた『仮面ライダーW』から『仮面ライダーウィザード』、そこから抜け出そうとした『仮面ライダー鎧武』から『仮面ライダーエグゼイド』、時間帯変更への対策を強いられた『仮面ライダービルド』、そして平成ライダーの最後を飾る役目を担った『仮面ライダージオウ』。
どの作品も、その時代の子供たちを楽しませるために製作陣が必死に挑戦を続け、色々なテーマを扱ってきたのだ。
その挑戦の全てが成功だったとは限らないが、一つひとつの挑戦の積み重ねのおかげで『平成仮面ライダーシリーズ』が20年間続くことができた。
だから、その道のりが凸凹で不揃いだったのは当然のことだし、仮に保守的な”舗装された”作品だったらシリーズはこれほど続けなかったかもしれない。
そして、令和ライダー以降の『仮面ライダーシリーズ』も挑戦を続けていく必要がある。
だからこそ、平成が終わり令和が始まるこのタイミングで、平成ライダーの挑戦を肯定する必要があったと考えていいだろう。




ところで、『仮面ライダージオウ』のテレビ本編は、凸凹で不揃いな平成ライダーを一つの作品で強引にまとめようとした作品だと考えることができる。
『平成仮面ライダーシリーズ』の設定や世界観がバラバラだったため、『昭和仮面ライダーシリーズ』のように過去ライダーが現行ライダーを特訓したり助けたりする場面はクロスオーバー映画以外では原則的にはなかった。
よって、「全国規模・世界規模で事件が起きているのに過去作の仮面ライダーは一体今何をしてるんだ」と言った疑問が生じることもあった。
なので、この『仮面ライダージオウ』という作品はそのような矛盾を解消しようとして、「実はタイムジャッカーやライドウォッチの仕業でそれぞれの仮面ライダーシリーズの設定や世界観が消滅していて、そのおかげで毎年新しい設定や世界観の仮面ライダーが始まっていた」、と言った理由付けをしようとした。
加えて、各作品を基本的には二話ずつで扱い、作品のテーマや価値観をギュッと凝縮して、それを常磐ソウゴたちが継承していった。
そう、後付けで平成ライダーの物語の整合性を取ろうとしつつ、各作品のテーマを一つの作品に集約しようとしていたことを考えると、『仮面ライダージオウ』はまさに「平成ライダーのまとめ」的な役割を担っている。


とはいえ、『仮面ライダージオウ』が行った「平成ライダーのまとめ」は果たして本当にやるべきだったのだろうか、という疑問はある。
『仮面ライダージオウ』はオリジナルの作品尊重して描いてきたが、それでも各作品の設定や世界観を紹介しつつ、その作品が50話程かけて描いてきた物語の中で生まれた考えや価値観をたったの二話に凝縮することにはかなり無理がある。
加えて、オリジナルキャストのゲスト出演などにもかなりの制約があるため、思い通りのシナリオを必ずしも書けるわけではないという「大人の事情」もある。
『仮面ライダージオウ』は「平成ライダーのまとめ」という無理難題な課題に真っ向から向き合ってきたが、色々と惜しい部分があったことは事実だ。


そして今作は、そんな『仮面ライダージオウ』がまとめようとした「平成ライダー」の定義そのものにも疑問を呈している
というのも、たしかに『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダージオウ』までの間にテレビ朝日系で放送された作品は20作品ではあるが、その他にも平成の間に製作された作品はたくさんあるからだ。
例えば、今作に登場した劇場版限定ライダーたちも平成に製作されたライダーでありながら「平成ライダー」の定義から惜しくも外されてしまったライダーをモチーフにしていて、バールクス (BARLCKX) は『仮面ライダーBLACK RX』、ゾンジス (ZONJIS) は『仮面ライダーJ』『仮面ライダーZO』『真・仮面ライダー』、ザモナス (ZAMONAS) は『仮面ライダーアマゾンズ』をモチーフにしている (名前もそれぞれのモチーフライダーのアナグラムになっている)。

そして、最終決戦では、東映特撮ファンクラブでスピンオフが製作された仮面ライダーブレン、SMAPの稲垣吾郎さんが『50時間テレビ』で演じた仮面ライダーG、『舞台 仮面ライダー斬月』の仮面ライダー斬月カチドキアームズ、auビデオパスでオリジナルコンテンツとして製作された仮面戦隊ゴライダー、漫画版の仮面ライダークウガまでもが登場して戦いに参加した。
これらのネット・舞台・漫画等の様々なメディアでの展開も含めて、全て『仮面ライダーシリーズ』がその時代時代に合わせて模索を続けてきた挑戦とも言うことができる。


もっと言うと、今作のサプライズゲスト枠の木梨猛も、フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナーとして製作された東映非公認の仮面ライダーのパロディ『仮面ノリダー』の登場人物だ。
パロディとはいえ、本家への愛が溢れる真面目に製作されたパロディとしても知られている。
しかし、今作で木梨が「ライダーとして認められなかった」と嘆く場面があったように、当初は無断パロディである『仮面ノリダー』のことを『仮面ライダー』の製作陣は良く思っていなかった、という背景がある。
そんな木梨までもを今作に登場させて「平成」の時代を築き上げてきたレジェンドの一員と認めたことで、「仮面ライダー」というコンテンツの幅広さと無限の可能性を改めて実感させてくれた




こう振り返ってみると、「平成」という時代の「仮面ライダー」は挑戦の連続だと言えよう。
その挑戦の結果、クォーツァーが主張する通り、平成ライダーはかなりカオスな状態になってしまった。
「平成ライダーとは?」と聞かれても、明確な定義など存在しないし、その模索自体が無意味だ。
だからこそ、そんな挑戦の数々を「平成ライダー」と一括りにしてまとめることはできないし、まとめること自体ナンセンスなのだろう
「平成ライダーの舗装」のために書かれた「逢魔降臨歴」をウォズが破り捨てるシーンこそが、「平成ライダーのまとめ」の否定の象徴ととらえることができる。
「『仮面ライダージオウ』で平成ライダーをまとめようとしたけど、平成ライダーの魅力が多すぎて無理だったわ!」と言った製作陣の盛大な開き直りを今作で爆発させたかのように私は感じた。
私はこの結論にかなりの衝撃を受けたが、よくよく考えてみると、平成ライダーの最終作である『仮面ライダージオウ』の集大成であり、「平成仮面ライダー、最終章」と銘打たれた今作におけるこれ以上納得のいく結論はきっとなかったのだと感じる
平成ライダーの挑戦の連続によって生じたカオスは肯定する必要があったし、そのカオスは決してまとめることはできないのだからだ。


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替え玉の王


ISSA演じるクォーツァーのリーダーが常磐SOUGOであり、我々が知る主人公の常磐ソウゴはライドウォッチを代わりに集めるために王として仕立て上げられた存在にすぎないということが、今作で衝撃の事実として明かされた。


メタ的な話をすると、常磐ソウゴという存在は、「平成ライダーのまとめ」を行い、ライドウォッチを集めるために製作陣によって作り上げられた存在だ。
というのも、レジェンドの力を継承するためと、平成二期では定番となった小物玩具を販促するために、ライドウォッチ集めが必要だからだ。
時には強引な継承の仕方もあったが (ダブルライドウォッチの継承が特にその例として挙げられることが多い)、それでも全ライドウォッチを集めることを使命に課せられたソウゴは今作までにそれを成し遂げた。
そういう意味では、常磐SOUGO率いるクォーツァーは製作陣 (白倉・武部プロデューサー) ととらえることもできるし、それによって作られた常磐ソウゴは製作陣の思惑通りに都合よく動かされていた駒だとも言えよう。
(ウォズが視聴者の存在を認識しているかのような描写が所々散りばめられていたことを考えると、クォーツァーを製作陣に重ねることは容易だ。)
製作陣がソウゴを人の好い人物に描いたのも、レジェンドたちがソウゴを信用してライドウォッチを託すようにさせるためだと考えることもできる。


だが、前項でも述べたように、『仮面ライダージオウ』が試みた「平成ライダーのまとめ」を今作は否定した。
そうなると、『仮面ライダージオウ』は、製作者の都合でライドウォッチ集めをさせられて、後付けで都合よくその行為を否定されてしまっただけになる。


そこで今作は、「王になりたい」という動機はクォーツァーたちによって植え付けられたものではなく、実はソウゴは最初から王になりたいと思っていたのだと明かした。
ソウゴはライドウォッチを集めるために製作陣によって生み出された存在だったが、今作が「平成ライダーのまとめ」を否定したことによってソウゴの存在意義そのものがメタ的に揺らいでしまった。
だからこそ、ソウゴがライドウォッチを集めていたのは「平成ライダーのまとめ」をするためではなく、思うがままに生きて「王になりたい」という望みをかなえるためだった、と描く必要があったのだろう
でないと、今作は『仮面ライダージオウ』が一年間紡いできた物語そのものを否定してしまうことになるからだ。


よくよく考えると、「王になりたい」というソウゴの動機があったおかげで、『仮面ライダージオウ』という作品はただライドウォッチを集めるだけの番組ではなく、物語を持った作品として成り立っていた
そういう意味でも、「王になりたい」ソウゴの物語を肯定するのは、『仮面ライダージオウ』の物語を肯定するためには必要不可欠なプロセスだったと言えよう。


このように、『仮面ライダージオウ』の物語そのものも肯定してくれた点では、今作は『仮面ライダージオウ』の一つの到達点として見ると非常に腑に落ちる作品となっている。


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結論

『平成仮面ライダーシリーズ』は、20年間コンテンツとしてあり続け、時代を生きる多くの人たちに愛されてきた。
決して平たんな道のりではなかったが、その時代の諸条件に合わせながら、より多くの人々を楽しませるために必死にコンテンツとして生き続けてきた。


1年間放送する番組だったとしても、必ずしも計画があるわけではないし、仮に計画があったとしてもそれが変更されることは多々ある。
そのような勢い任せの作り方が「ライブ感」と呼ばれ、シリーズに長らく携わってきた白倉プロデューサーが主となってこの手法でシリーズを盛り上げ続けてきた。
このライブ感のおかげで、このシリーズは20年間も続くことができたのかもしれない。


『仮面ライダージオウ』の根幹となったレジェンドは、メタ的に左右されることが多い要素であったため、非常にライブ感任せな部分が多かった。
というのも、『平成仮面ライダーシリーズ』から羽ばたき、国内外で活躍しているレジェンドキャストが多い中、『仮面ライダージオウ』に誰がどのタイミングで出演できるかが限られてくるからだ。
だから、『平成仮面ライダーシリーズ』にしては珍しいことにライドウォッチ継承のタイミングが玩具の発売日とズレることも多かった。
ドライブライドウォッチなんかは、『仮面ライダージオウ』放送開始の序盤に玩具が発売されて、継承が最後まで残ってしまった結果、約一年後の今作で漸く継承された。
そういったレジェンドキャストの都合などによってドライブの継承が今作で行われたのも、ライブ感による影響とも言えよう。


また、今作は、「平成ライダーのまとめ」を否定することで、「時代を駆け抜けた」平成ライダーたちの数々の挑戦によって生じた凸凹を全力で肯定した。
だがよく考えると、『仮面ライダージオウ』という作品は一年間かけて「平成ライダーのまとめ」を試みたのだから、今作の主張とは矛盾が生じてしまう。
仮に『仮面ライダージオウ』の番組開始当初から今回の夏劇場版まで計画していたら、『仮面ライダージオウ』という番組は最初から「平成ライダーのまとめ」など試みなかっただろう。
しかし、「平成ライダーのまとめ」という無理難題を一年かけて試みたからこそ、今作で「平成ライダーのまとめ」などできないと悟ることもできたし、また、「思うがままに生きる」といういかにもソウゴらしい結論に辿りつけたのだ。
今作でこのような結論を導き出したことこそ、正に「ライブ感」である。


そういう意味では、今作は『仮面ライダージオウ』や『平成仮面ライダーシリーズ』全般のライブ感の象徴でもあり、そのライブ感の産物でもあると言えよう


『平成仮面ライダーシリーズ』を好きになってから毎週、次の日曜日がたまらなく楽しみになるようなワクワク感を提供し続けてくれた。
そう言ったワクワクは製作陣のライブ感を意識した作りのおかげで感じられたものに違いない。
そして、こういった楽しみ方は平成という時代にリアルタイムで『平成仮面ライダーシリーズ』を追いかけていたからこそできたことだろう。


今作は、そんなライブ感を全面的に肯定することができたからこそ最高に破天荒で何でもありな作品になることができたと思うし、シリーズの最後を飾るに相応しいインパクトの強さを残してくれたと感じる。
だからこそ、「平成」を締めくくる上でこれ以上の完成形はないのではなかろうか、と言った満足感を味わうことができた。
『平成仮面ライダーシリーズ』の20年間の挑戦を支え続けてきたライブ感が、次の時代にも引き継がれることに期待したい。




感想 『ビルド NEW WORLD 仮面ライダークローズ』はなぜ賛否両論を巻き起こすストーリーになったか

『仮面ライダービルド』のテレビ本編後の出来事を描いたVシネマ『ビルド NEW WORLD 仮面ライダークローズ』が、2019年1月25日より映画館での限定上映を始めた。
このVシネマは、完成披露試写会の時点で割と賛否両論あることで話題を呼んでいたため、私は内容が気になって公開初日に観に行った。
私生活が忙しくて感想をまとめるのに非常に時間がかかってしまったが、この記事では、初日に観た私の率直な感想を述べていきたい。
『仮面ライダービルド』好きの人の気分を害してしまう可能性がある表現も一部あるので、その点には留意していただきたい。


ちなみに、『ビルド NEW WORLD 仮面ライダークローズ』は「東映特撮ファンクラブ」で視聴することができる。


ビルド NEW WORLD 仮面ライダークローズ マッスルギャラクシーフルボトル版(初回生産限定) [Blu-ray]


この記事には、Vシネマ『ビルド NEW WORLD 仮面ライダークローズ』や『仮面ライダービルド』、その他関連作品のネタバレが含まれています。ご注意ください。


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二人っきりでなくなった世界

『仮面ライダービルド』のテレビ本編の最終話では、白いパンドラパネルの力で新世界を作ったことにより、戦兎と龍我以外の全ての登場人物の記憶が消えてしまい、それまでの惨劇がなかったことになった。
一方で、今作は、パンドラボックスが再び生まれた影響で、内海以外の主要登場人物の記憶が蘇った状態で物語が進行する。
内海が結果的にハブられることになったのは可哀想だったが、人体実験を受けた人たちの記憶が蘇る、という設定は、美空たちの記憶を蘇らせる口実としては割と理にかなっている。
『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』でも今作とは異なるロジックで美空たちの記憶は蘇ったが、筋運びの都合上他の登場人物にも活躍してもらう必要があることは理解できる。


しかし、『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』との大きな違いは、今作で美空たちの記憶が蘇ったのは永続的なものであるかのように描かれていた点だ。
つまり、『仮面ライダービルド』最終話で描かれていた戦兎と龍我が二人っきりの新世界は、今作の出来事を機に永続的に二人っきりの世界ではなくなってしまう。
一年間応援してきた我々ファンであれば、ヒーローたちが報われるハッピーエンドを誰しもが当然望むとは思う。
しかし、製作者側がそれでも『仮面ライダービルド』という作品をビターエンドにしたのは、戦兎の「見返りを求めない」「自己犠牲を厭わない」ヒーロー像を強調するためであったという認識でいた。
だからこそ、その「二人っきりの世界」を最後まで貫いてほしかった気持ちはすごいあるし、仮にその「二人っきりの世界」という状況を敢えて変えるのであればそれなりの理由は提示してほしかったところだ。
しかし、その意義が今作では結局最後まで提示されなかったので、ただテレビ本編の最終話のビターな結末を覆しただけになってしまった


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エボルトの完全復活

『仮面ライダービルド』の最終話でビルドたちに倒されたエボルトは、この一件で完全に復活する。
更に、また地球を滅ぼしに戻ってくる旨を伝え、エボルトは一切改心をしないまま自由な身になってしまう。


今作では、「ラブ&ピース」を取り戻すためにはエボルトと組む他ないことが提示された。
テレビ本編の戦兎たちが守り抜いた「ラブ&ピース」を、最大の敵エボルトと組んでまでして守ろうとしていることから、戦兎たちの「ラブ&ピース」に対する本気度は見えてきた
そういう意味では、今作は、テレビ本編で行き着いた考えを再確認する意味合いが強かったと感じる。


しかし、エボルトの復活に至るまでの経緯の描かれ方が非常にさっぱりしていて、今作でエボルトを復活させたいがために、心情描写や動機があまりないまま戦兎たちが脚本の都合で動かされていたかのように感じられた。
キルバスは共通の敵なので、ライダー陣営とエボルトの目的が一致しているのは分かる。
とはいえ、「ラブ&ピース」を再び脅かす可能性があるエボルトを、戦兎たちはあれほど直ぐに復活させることを決心できるのか?という疑問は残った。
エボルトがキルバスと組んでしまう可能性もあるうえ、エボルトを信頼する根拠は全くないのだから、エボルトを復活させることへの葛藤はもう少し描いてもよかったのではと思う。


『仮面ライダービルド』は、戦兎たちヒーロー側の「ビルド (創る、形成する)」とエボルト側の「破壊する」の対比が非常に分かりやすい作品であると感じていた。
だからこそ、あれほどの破壊行為に及んだエボルトは、今作の性質上、それなりの裁きを受けるべきだったと感じる。
そんなエボルトは最終話において制裁を受けたが、今作では完全復活を果たしたうえ、野放しの状態になって終わったので、受けたはずの制裁が完全に無効化してしまった。


エボルトは『仮面ライダービルド』のテレビ本編で終始敵として戦兎たちの前に立ちはだかっていた存在なので、折角49話かけてエボルトを相手に戦ってきた戦兎たちの努力が水の泡となってしまったことに関しては賛否両論あるだろう。
もしかすると、Vシネマの第二弾を製作することを前提に今作をこのように終わらせたのであって、第二弾でエボルトとの決着をつけるのかもしれない。
だか、今作を単体で見る限りだと、『仮面ライダービルド』という作品がどうしてもエボルトを自由の身にさせたかったかのように思えてしまう。


エボルトはたしかに歴代の平成仮面ライダーシリーズの中でもかなりの強敵で、「破壊」の規模がかなり大きかった印象だ。
そういう意味では、製作陣はもしかしたらエボルトを生き残らせることでそのしぶとさを強調したかったのかもしれない。
しかし、エボルトが更に強くなって地球に戻ってきたときに新世界がA世界以上の被害を被ることになるかもしれないため、エボルトと決着をつけて「ラブ&ピースを胸に生きていける世界」になったはずのテレビ本編の最終話が今作では覆されててしまった形になった。


また、他の星も滅ぼすと堂々と宣言をしていたので、宇宙規模で考えてもエボルトを野放しにしておくことは得策ではない。
一方で、龍我が「二度と (地球に) 戻ってくるな」とエボルトに放ったことから、龍我のスタンスが見えてくるのは面白い。
というのも、この龍我の台詞は「他の星ならいいが、地球に手を出したら許さない」と言っているかのようにとらえることができ、他の星に対しては無関心であるかのように感じられるからだ。
これは「正義のヒーロー」らしかぬ冷徹な考えに一見思えるかもしれないが、実はテレビ本編の戦兎も今回の龍我と同じく、他の星に対する無関心な姿勢を何度か見せている。
その最たる例が、『44話 エボルトの最期』で、ライダーたちに協力してくれていた火星人のベルナージュの魂が消えたかもしれなかった際に、戦兎が他人事であるかのようにふるまっていた場面だ。
そういう意味でも、龍我は桐生戦兎というヒーローを見て成長してきて、戦兎の価値観を受け継いだヒーローであることが分かる。
このように、エボルトの完全復活を通して、意外にも龍我が戦兎から受け継いだスタンスを再確認することができたのは、今作の一つの大きな功績かもしれない


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新たな”ベストマッチ”

本編終了後に製作されるVシネマでは、Vシネマの主人公に活躍させるために、テレビシリーズの方の主人公はわきへ寄る傾向がある。
Vシネマのこの性質の影響で、戦兎と龍我のベストマッチな関係性があまり描けないという弊害が生じてしまった。


そこで、今作では、万丈龍我とエボルトが期間限定の共同戦線を張ることになり、二人の”ベストマッチ”な関係性が描かれている。
そもそも、エボルトはテレビ本編では終始戦兎たちの前に立ちはだかっていた敵なので、そのエボルトと組む画はかなり新鮮に感じられた。
クローズとエボルトを融合させたクローズエボルのデザインなんかは、戦兎と龍我のベストマッチな関係性を表すクローズビルドフォームを彷彿とさせ、龍我とエボルトの”ベストマッチ”な関係性をうまく表現していたと感じる。
そういう意味では、Vシネマならではの特別感や意外性は割とあったと感じた。


今作は、戦兎と龍我の「ベストマッチ」な関係性を再確認させるための試練として、龍我とエボルトを組ませたことが想像できる
もちろん、龍我はエボルトが「相棒」であることを明確に否定し、戦兎が本当の相棒であると言い切っているので、本当の意味で”ベストマッチ”なわけではない。
テレビ本編の最終話で龍我が言っていた「俺の相棒は桐生戦兎ただ一人」という発言を踏まえるとこの結論に至るのは当然で、今作では改めて龍我の考えを確認できた。
テレビ本編でエボルトが散々地球を破壊し、多くの人々を傷つけてしまったことを考えると、テレビ本編の49話を通して「ラブ&ピース」のために戦うまで成長した龍我とは対極的な価値観を持つ。
なので、龍我がエボルトとマッチするはずがないし、『仮面ライダービルド』テレビ本編で度々戦兎との絆を確認してきた私たちであれば、エボルトが戦兎に代わる相棒に今更なることなんてあり得ないと分かるだろう。


しかし、共闘する二人の姿を見ていると、龍我とエボルトが思いの外「マッチ」しているかのように描かれていたことに割と衝撃を受けた。
映画『ヴェノム』のエディとヴェノムの関係を彷彿とさせるような、どこかデコボココンビとしての愛らしさすら感じられるようなやり取りがあった。
製作者側が、戦兎と龍我の「ベストマッチ」な関係性を再確認させるための試練として敢えて龍我をエボルトと組ませたのであれば、このエボルトとの微妙な「マッチ」具合は寧ろ逆効果になってしまったのではと思えてしまう。
結果的に龍我とエボルトを組ませることで戦兎と龍我の関係性を揺るがして試練を与えたのはいいものの、それを乗り越えたかどうかが曖昧なまま終わったので、まるでテレビ本編の最終話で行き着いた「俺の相棒は桐生戦兎ただ一人」という結論を今作が覆してしまったなのような印象を受けた
そして、『仮面ライダービルド』のテレビ本編で戦兎と龍我の関係構築を一年間応援してきた人は恐らく同様の印象を受けてしまうだろう。


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一般市民の視点

今作には、新世界でなぜか仮面ライダークローズの記憶を持つ馬渕由衣という謎の女性が登場する。


『仮面ライダービルド』テレビ本編では、一般市民に関する描写が希薄だった印象だ。
というのは、基本的には各話ごとのゲストキャラを用意することなく、主要登場人物を中心に筋運びが行われてきたからだ。
ライダーたちは「ラブ&ピース」を掲げているのにもかかわらず、一般市民との接点がないまま戦い続けていた。
それは決して悪いことではないが、やはり「戦争」を描いている以上、巻き込まれた一般市民の視点を望む視聴者も多かったはずだ。


よって、今作で由衣というゲストキャラを通して一般市民の視点を取り入れたのは妥当に思えた
由衣を、テレビ本編初期の戦争に巻き込まれた人物にすることで、被害を被った一般市民が間違いなくいたことが強調された。
そういう意味では、今作はテレビ本編の補完としてしっかりと機能していた印象だ。


そして、今作の主人公である龍我のテレビ本編中の成長を、戦争中の龍我に遭遇したことがある由衣の視点で描いているのも新しいアプローチだ
自分が信じたり、自分を信じてくれたりする者のために戦っていた頃の龍我はまだ未熟で、「ラブ&ピース」という考えに至っていなかった。
だからこそ、当時の龍我は由衣やその生徒を救うことができなかった (救わなかった) のだろう。
由衣というnascita外の第三者の視点があったからこそ、龍我の一年間の成長がより明確になり、最終的に龍我が辿り着いた「ラブ&ピース」という考えの正当性をより強調している。


今作では割とずっと龍我に対して嫌悪感を抱いていた由衣が、クローズに命を救われると唐突に恋愛感情を抱き始めたことは、一見唐突で利己的な言動に思えるかもしれない。
(たしかに、『劇場版仮面ライダービルド Be The One』で「ビルト殲滅計画」と称してビルドを排除しようとしていた一般市民が、テレビ本編の『48話 ラブ&ピースの世界へ』でエボルトが地球壊滅を目論んでいたことが判明してから都合よく手のひら返しをした通り、『仮面ライダービルド』では一般市民が非常に利己的で自己中心的な性格であることが多く、製作者側が一般市民を「愚かな人間」として意図的に描いていることは見て分かる。)
だが、この由衣の見事なまでの手のひら返しを通して、「自分が信じたり、自分を信じてくれたりする者のために戦う」という当初の龍我の考えの否定と、「ラブ&ピース」という成熟した龍我の考えの肯定を非常に分かりやすく表現している。
由衣の手のひら返しがあまりにも唐突に思えてしまったので、その辺はもう少し自然に感じられるように描いてほしかった気持ちもあるが。
どちらにしろ、由衣の登場によって、今作は龍我の成長の集大成として上手く機能していると感じた。


ところで、今作の終盤で、龍我と由衣が「ベストマッチ」であると、幻徳はお得意のTシャツネタで伝える場面がある。
もちろん、幻徳は半分冗談でこのような発言をしたのだろうが、「ベストマッチ」という表現はテレビ本編では一貫して戦兎と龍我の関係性のことを表していたので、龍我と由衣の関係性を今作が「ベストマッチ」と表現したことに驚いた。
加えて、龍我がまんざらでもなさそうな態度を見せていたため、今作単体では、龍我と由衣の「ベストマッチ」が成り立ってしまったかのように思えてしまう。
そう考えると、今作は「俺の相棒は桐生戦兎ただ一人」という最終話に行き着いた結論を覆してしまった、ととらえることもできる。
しかし、「ベストマッチな奴ら」に至るまで一年間戦兎と龍我が一年かけて関係を構築してきた様を見ている視聴者側からすると、たった1時間ちょっとのVシネマで構築した関係で「ベストマッチ」になるのか?という疑問がどうしても浮かんでしまう。


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結論

テレビ本編終了後に製作されるVシネマは、サブキャラクターに焦点を当てることで、テレビ本編では語り切ることができなかった出来事や人物描写を描く「テレビ本編の補完」としての性格が強い。
今作も、龍我のテレビ本編を通しての成長の集大成として、龍我が最終話までに行き着いた「俺の相棒は桐生戦兎ただ一人」「ラブ&ピースを胸に生きていける世界を創る」の考えを再確認する作品であったことから、テレビ本編の補完として見事に機能していた印象だ。
龍我がエボルトと組むことを余儀なくされても、エボルトが「相棒」であることを断固否定したことは、「俺の相棒は桐生戦兎ただ一人」という最終話の台詞を上手く強調している。
また、最大の敵エボルトを復活させるまでして新世界を守りたい戦兎や龍我のスタンスからは、「ラブ&ピース」に対する強い思いが改めて伺えた。


しかし、今作を単体で見ていると、龍我のベストマッチ相手は戦兎だけではないことが明らかになったうえ、エボルトの完全復活により新世界の「ラブ&ピース」も脅かされている状態で終わったため、最終話の結論を覆すストーリーになってしまった。
また、「二人っきりの世界」という最終話のビターエンド状態も変わり、主要登場人物ほぼ全員の記憶が蘇ったことも、最終話を覆したといえるだろう。
そういう意味では、今作は『最終話 ビルドが創る明日』の結末を覆すストーリーになっていると言うことができるだろう
よって、テレビ本編の最終話のエンディングが好きな人であればあるほど、今作のストーリーに不満を抱いてしまうような構造になってしまった


『仮面ライダービルド』のテレビ本編があまりにも綺麗に完結したため、その続きを描くためには一度最終話の結末を覆すことは必然だったと考えることもできる。
一度結末を覆したしたうえで再び納得のいく結末を描けたら良かったものの、今作は最終話をただ覆しただけで終わってしまったため、わざわざ結末を覆したことの意義が見いだせなくなっている。
だが、先日製作が発表された今作の続編『ビルド NEW WORLD 仮面ライダーグリス』で再び綺麗にまとめるために今作は敢えてモヤモヤな結末になったのだと推察することもできる。
そう考えると、今作は恐らく、Vシネマシリーズが完結してからでないと評価しにくいものなのかもしれない。




レビュー 「仮面ライダー ザ ダイナー」になぜ私がハマっているか

池袋に、「KAMEN RIDER THE DINER (仮面ライダー ザ ダイナー)」という、仮面ライダーシリーズのコラボレストランがあることをご存知でしょうか?


首都圏に住んでいる仮面ライダーファンなら恐らく知っているが、地方に住んでいるファンには知らない人が多い印象だ。
私は関西に住んでいるが、東京方面に来る度にダイナーに来るくらい好きだ。
先日2018年12月13日にも、別件で東京に来る用があったので、勿論ダイナーにも行った。
なので、この機会に当ブログでお店の紹介をしようと思う。


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訪問日記

ダイナーに入店

「KAMEN RIDER THE DINER」は、パセラリゾーツ池袋本店の4階にある。
池袋駅の西口・北口から徒歩2分と、かなり便利な場所にあるので、池袋で遊ぶついでに寄るのも全然アリだろう。
外観はこんな感じ。


パセラリゾーツの受付を通り、エレベーターで4階まで上がると、ダイナー前に到着。

エレベーターホールからも既に仮面ライダー感が満載で、一気に仮面ライダーの世界に誘われる。
入り口前にはライドウォッチのディスプレイがあったが、これを見るだけでもテンションが上がる。


入り口から店内に向かう途中の通路に、ダイナーを訪問した仮面ライダーの俳優たちのサインがズラリと並んでいる。

仮面ライダー愛に溢れる空間で、ここで既に感極まる人も多いだろう。




そして、店内に入ると、ショッカーの秘密基地のような空間が広がっている。

一人で来ている方たちも結構いたので、一人で来る場合も恥ずかしがることなくこの空間を楽しめそう。
この日はど平日ということもあり、いつもと比べてかなり空いていた。


ダイナーに行きたい場合は、基本的にはダイナーの公式ホームページから予約するべきだ
期間限定メニューの開始日や、イベントごとのある日 (映画公開日、9月13日など) などは割と混んでいる印象なので、特に予約が必要だ。
それでも、混んでいる日は90分制になったりするので、その辺は注意してから行こう。


席に案内されると、店員さんがダイナーでの注文方法を教えてくれる。
と言っても、タブレットから注文したい商品を選択して注文するだけなので、それほどややこしくはない。
卓上メニューも用意されているので、メニューの写真や説明文を見てから注文するのがいいかもしれない。


ちなみに、ダイナーには通常メニューと期間限定メニューがある。
通常メニューには、昭和・平成ライダーの各作品からの独創的なメニューがある。
一方で、期間限定メニューでは、毎回特定の作品がフィーチャーされて、その作品のより多様なメニューがある。
期間限定メニューの商品を注文すると、缶バッジなどの特典もランダムでついてくるのでかなりお得だ。
なので、ダイナーの公式ツイッター等で、開催中の期間限定メニューをあらかじめ確認して、好きな作品がフィーチャーされている日に行くことをオススメする


因みに私が行った日は、『仮面ライダージオウ』でフィーチャーされたことから、『仮面ライダーウィザード』『仮面ライダーオーズ』『仮面ライダー鎧武』の3作品の期間限定メニューが用意されていた。
私が選んだメニューは、後ほど紹介しよう。



ダイナーではチャイム制度が導入されているので、一人当たり500円が基本的にはかかる。
チャイムとして出されるクッキーは、ライダーの絵がランダムで描かれていて、結構可愛い。
因みに、私のクッキーはフォーゼだった。


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店内を散策

基本的にはウロウロするのは自由な空間となっているので、注文が到着するまで店内を散策。
時期に応じて展示が変わるので、観て回ったり撮影したりすることも、ダイナーの醍醐味だ。


『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』公開直前期ということもあり、映画に関する展示が多かった印象だ。
平成仮面ライダー全員のベルトが並んでいるこの光景は、誰しもが興奮するだろう。

今大活躍している仮面ライダーゲイツ役の押田岳さんのサインがあるのも、『仮面ライダージオウ』を楽しんでいる身としてはかなり嬉しい。


映画のポスターも、このようにズラリと並んでいる。


また、クリスマス前でもあったので、フィギュアがクリスマス仕様になっていた。
作品を観ていた人こそが「おっ!」となるような小ネタもあり、スタッフの方々のライダー愛が感じられる展示だ。


こちらはオーズの全129種のフォームのフィギュアの展示。

数の多さに兎に角圧倒されるし、能力の妄想が色々とできてなかなか楽しい。


他にも、FiguartsやDX玩具を用いた展示が色々あり、本当に飽きることなく楽しめる。


また、店内にはガチャガチャコーナーもある。
街中では既に置かれていないガチャも置いてあることもあるので、チェックする価値はある。


そして、やはりここに来たら、ショッカー首領の椅子には座っておきたい。

たくさんのライダー俳優がこの椅子で記念写真を撮っているので、彼らと同じ椅子に座ったと考えるだけでテンションが上がる。

オーダー到着

散策しているうちに、オーダーが到着。
店員さんやメニューにもよるが、メニューの説明をするときに、本編の小ネタを挟んでくれたり、ベルト音声の真似をしてくれたりと、かなり盛り上げてくれることもある。
なので、注文が届く頃には着席しておいたほうがいい


私は、『仮面ライダー鎧武』の期間限定メニューの『白く麗しいメロンのパフェ』を注文。
因みに、仮面ライダーウィザードの缶バッジを当てた。

仮面ライダー斬月が結構好きなので、これは注文するしかなかった。
このように、期間限定メニューの場合だとサブライダーのメニューもあるので、作品のコアなファンにとってはかなり嬉しい。


メロンだらけのシンプルなパフェでありながらも、見た目の可愛さもあって非常に美味しくいただけた。




そして、通常メニューからは、『デッドゾーンカシスソーダ』を注文。
私の友人は、『レベルアップ!エグゼイドドリンク』を注文。

私の方のメニューは、『仮面ライダードライブ』がモチーフのアルコールだ。
正直見た目にあまりドライブ感はないが、お昼過ぎに飲むにはちょうどよいカシスソーダで、美味しかった。


友人が頼んだドリンクは、エグゼイドの目が描かれたモナカが兎に角かわいい。
シロップを入れたらレベルアップするという、非常に面白いアイディアのメニューだし、エグゼイド好きなら是非頼んでみよう。


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最後に

「KAMEN RIDER THE DINER」に来て、一個一個の展示やメニューに対するこだわりを見ると、スタッフや店員さんの仮面ライダーに対する愛を凄く感じる。
そして、仮面ライダーファンのお客さんと同じ空間で過ごすだけでも、だいぶ楽しい気分になれる。
いる人全員の仮面ライダー愛が感じられる空間だからこそ、私は「KAMEN RIDER THE DINER」にハマっていて、東京に来る度に行ってまう


パセラ系列というだけあって、メニューの味はどれも美味しいので、ライトなファンを連れてきても十分に楽しんでもらえるだろう。
これを機に、一度是非ダイナーに足を運んでみてください!




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